<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

いなくなってからやっと兄と弟に戻っている

2015年11月04日 10時27分03秒 | Weblog

そうだった。あなたはもう物質ではなかったから、玄関を閉めていても出入りが自由だった。なにせ非物質の真如霊(スピリット)なのだ。位が上がっている。桁違いの進歩を遂げているのだった。あはは、物質界の留年生の兄とは違っていた。弟よ、飛び級をしてはやばやこの世の学校を卒業して上級学校へと進級していった弟よ。自由人よ。霊界の活動家よ。

僕はどうして今日を過ごしていいか分からなくなって、ともかくも朝日の当たる畑に出た。背中に日を受けながら、草取りをした。それから小蕪を引いた。そしてこれを水道の蛇口でじゃぶじゃぶ洗った。10時を過ぎていた。小蜜柑を食べて一休憩をしているところだ。

何をしていてもあなたのことが兄のわたしの脳裏を占拠してしまう。あれこれあれこれ考える。あなやがここにいなくなってやっと僕はあなたをさみしがっている。それまではいい加減にあしらっていたくせに、いまは濃密だ。情がこまやかだ。あなたに染み込んでいく。

親しい者の死でもってやっとこさここへ来ている。死なない前にこまやかであるべきだったのだ。愛情が濃密であるべきだったのだ。それを延ばし延ばししてここまで延ばしてきてやっとこうだ。遅いんだ。

どう死ぬか。死んで何処へ行くのか。死なない以前をどう生きるべきか。往生は死のときにしかできないことなのか。成仏をするとはどういうことなのか。成仏をしてその後をどうするのか。兄と弟とはどうあるべきだったのか。どんな愛情で結ばれていたのか。その本来の姿へ立ち戻されている。それをあなたの死を契機にして考えている。やっとだ。いのちを薄っぺらに薄っぺらに磨り減らして過ごして来たことを、悔いさせられる。

あなたの死は鏡だったのか。後に残った者のいのちの生き方を映し出す鏡だったのか。死を以てそれを提供してくれたのか。どう生きるべきか。わたしたち遺された者がいのちをおろそかにして暮らすことをあなたがこうやって防いだのか。

あなたを悲しんでいる。それまでそんなことはなかったのだ。平気の平左だったのだ。あなたがいようといまいと無関係のようにして、冷淡でいたのだ。それがいまは悲しみだ。あなたを思って思っている。不思議なことだ。やっとふたりは兄になって弟になっている。

「いよっ!」あなたは玄関を開けて入って来るときにいつもそうやっていた。手にはピースのサインが出ていた。「おるかあ?」その声は台所まで上がってきてから聞こえていた。あなたの生まれたところ、つまり兄の家がいつまでも懐かしい故郷のようだった。

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悲しいが癒えるまでには時間がかかるのだ

2015年11月04日 07時50分12秒 | Weblog

葬送の儀式もしなかった。出棺に際してもお坊様も呼ばなかった。読経もなかった。その代わり家族親族友人等で通夜を2日間した。棺の周囲で弟を語り合い馳走を食べ酒を飲んだ。

火葬場で火葬が終わるまで、兄はひとり林に出て小声で読経(暗誦)をし続けた。浄土真宗経典の重誓偈を繰り返し繰り返し。人は抗わなければ水の中で浮くことができる。自力を捨てて阿弥陀仏の他力に任せれば沈むことはない。楽に浮いている。弟もまたお浄土で楽に浮いている。そう思って兄も楽になった。

葬送の儀式をしない。その後の七日七日のお逮夜をもしない。お浄土に往生した者に追い銭を投げてやることはない。たしかにそうなのだろうが、遺された者の悲しみは癒えない。なかなか癒えない。放り出されたままでは癒えない。そこで、七日七日に僧を呼び読経をしてもらい人が集まり語り合い酒を飲みして徐々に徐々に喪失感を薄らいでいかせるのかもしれない。

火葬場から帰ってきて一人になって、サイクリングに出掛けたが、ここでの墜落事故(俗に言う落ち込み)がこたえた。飛行機が深い海に落ちたようだった。喪失感が怒濤になって苦しんだ。自転車のペダルが漕げなかった。そうそうに舞い戻ってきた。

遺された者は悲しみに落ちて苦しむことになるが、死者はそれを望んではいまい。朝日が東の空から射して来て明るく庭を照らしている。弟が望んでいないのであれば、日にちを手伝わせて、立ち上がらねばならない。

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代受苦は菩薩の慈悲行であった

2015年11月04日 07時06分53秒 | Weblog

弟は白骨になってしまった。これを家族親族友人が箸でつまんで、骨壺に収めた。火葬場の玄関を出たところにでかいカマキリがいた。踏みつぶされないようにと、弟の長男が生け垣に運んで行った。もう生まれ変わったのかと思った。

庭に丁度ピンク(ピンクよりももう少し赤い)の山茶花が花を着けていた。これを剪定鋏で30個くらい切った。石蕗の黄金もたくさん摘んだ。これを出棺前に、棺の中を埋めて弟を荘厳した。花園の中の弟になった。

この1,2週間、弟の容態が日に日に激変をしていった。そうしなければ、看護をしている周囲の健康が危ぶまれるということを察して死に急いだのかもしれない。明日死ぬと明言してその通りになった。機械が読み取っている心拍数が落ちて、呼吸が遠く微かになった。「おい、弟よ、阿弥陀さんを頼めよ、行く先はお浄土だぞ」と呼びかけた。頷いたように見えた。胸呼吸がそこで止まった。

大病ばかりをした。そのたびに我が身の死を直視しないわけにはいかなかっただろう。その分、彼は仏教の習得に熱が籠もった。40歳で大腸癌、直腸を切除した。余命三ヶ月と医者が言ったが、これを26年間に延長させた。その後も何度も切除手術して耐えた。C型肝炎の薬が合わずに痩せ細った。86kgもあった体重が60kg台に落ちた。これも耐えた。そして7月に膵臓癌が見付かった。切除した。それからまもなくして肝臓への転移が認められた。医者は三ヶ月の余命を宣告した。彼はもはや死をあらがうことはなかった。痛みはモルヒネがやわらいでくれた。意識は死の前日までははっきりしていた。枕元には仏教書が三冊置いてあった。

代受苦ができるのは菩薩だ。我が身に苦しみを引き受けて、他を苦しめず。これをよろこびとするのは大乗仏教でいうところの利他行、慈悲行である。「おれはどうしてこうも病気を引き受けるのだろう」とぼやきも聞こえてはいたけれど、弟は無意識のうちに、生涯この利他の実践をしていたのではないか。だとすると実に見事な生き方をしたのではないか。菩薩を生きたのではないか。早々と身罷ったわが弟を、兄はこんなふうな見方をして讃仰してあげたい。

 

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冬の鳥が来てとまってこっちを見ている

2015年11月04日 06時52分30秒 | Weblog

すっかり葉を落として裸木となった桜の大木の梢に、冬の鳥、鵯が来ている。止まって、こっちを見ている、さっきから。それが弟に見える。生まれた家に飛んで来て、しばらくを鳥になっているように思えて来る。だとしたら、産声を上げた場所、我が家は弟にはどう見えていることだろう。懐かしさでいっぱいというところだろうか。今朝は寒い。冷え込んでいる。内外の気温差が激しいので、透明ガラスが湿って曇っている。弟は寒くはないだろうか。元気なときにはあんなに喧嘩をしていたのに、どうだ。死んでしまうととたんに大きな引力を生じて兄と弟は強く引き合っている。なんにつけてもわが脳裏は、弟の宿屋だ。あんなとき、こんなときの様々な面影が居座っている。

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