<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

蚊が飛び回った

2015年11月21日 17時57分56秒 | Weblog

日中の気温22度C。半袖シャツでいい。外に居て農作業をしていると蚊が飛び回った。今日はもう11月21日だというのに、なかなか順当に寒くなっていかない。

 

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ものを言っても意味不明

2015年11月21日 10時09分42秒 | Weblog

不去不来 不起不住 婆婆和和 有句無句      禅宗経典「宝鏡三昧」より

ふこふらい ふきふじゅう ばばあわあわあ うくむく

行くでもない来るでもない。立ち上がるでもない落ち着くわけでもない。ただバアバアワアワアをほざいているだけの嬰児よ。ものを言ったようで何にも言っていない。心があるようでない。ついに核心に至らず。最後までふにゃふにゃふにゃふにゃ。

生まれ立ての赤ん坊がこれだ。赤ん坊だけだろうか。いやいや、終いのお終いまでこれで過ごすが、それと気づいてもいいない。行って帰って行って帰って立ち上がって仰け反って、バアバアワアワアの幼児語を喚き散らす。ものを言っても意味不明。落ち着きが出るわけでもない。

だが、仏智を授けられたらここを一気に抜けて出て仏性を発露する人間だ。心配は要らない。

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威張り屋

2015年11月21日 09時50分53秒 | Weblog

威張り屋人間。あそこでも此処でも威張っている。おれは偉いぞ偉いぞ強いぞ強いぞと威張っていないと不安で不安でしようがない。そこで同じ人間が姿を現して来る度に、こんなことあんなことを拵えて威張っている。威張るようなことではないのに。人間じゃないものにすらそういう態度を取っている。威張って威圧するというのがよほどよほどその場の快感を誘うらしいが、それがバニテイだということがその度に思い知らされて、またぞろそこが大きな虚空を作って来て、やっぱり不安で不安でたまらないようだ。雲がそれを見ていて、あんなにたびたび大袈裟に威張らないで済むように、おのれを流して、流れて行く。山の向こうまで海の向こうまで流れて行く。

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ただ透明な空気のような意識

2015年11月21日 09時26分04秒 | Weblog

蝶々としてこの世に生きているのも人間としてこの世に生きているのも空としてこの世を生きているのも、生きているということにはどんな変わりもないのではないか。ふっとそう思った。

変わりがあるとすればそれはいったい何処なのだろう。

生きているという意識が、生きているということを意識している、そこは平等で横一列のはずである。

問題は意識が着込んでいるボデイだ。これがそれぞれに違っている。

しかしそれはボデーの差であって、中核をなしている意識そのもののそれではない。

意識は透明で枠組みがなく、バウンダリーや限界を設けていないので、もしかしたら、共有共用なのかもしれない。

だとすると、わたしのもの、おれのものの自己所有のわざらわしさがない。煩瑣がない。その分は自由だ。解放されている。

野菜の人参としてこの世を生きている人参。大根としてこの世を生きている大根。ホウレン草としてこの世を生きているホウレン草。彼らにもみな意識があって、この世を生きていることを意識している。

それぞれに太陽の赤さを見ている。冬鳥の鳴き声を聞いている。風の寒さを感じている。

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威張り屋の人間が威張り散らして、「高等なボデイを持っていないお前たちは生きていることにはならない」「この世に生きる有用を意識するなんてとんでもないことだ」などと喚くのだが、彼らは何処吹く風である。

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意識を意識していればそれですむのである。

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この世を生きているというのは意識であって、ただ透明な空気のような意識であって、ボデーでもなければ有用性でもないからだ。

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木立ダリア

2015年11月21日 09時17分36秒 | Weblog

木立ダリアがきれいだ。ああ、きれいだなあと思って立ち止まる。我が家にもあったがいつのまにか消えてしまった。サイクリングに行ったときに他所さまの庭に咲いているのを見つける。ひょろりと高い。屋根を追い越すように高い。それが薄紅の花を、草丈の割には小さい花を、着けている。愛らしい。木立ダリアは寒くなって咲く。霜が降ってきて枯れる。来週連休明けには寒が戻るらしい。そうすれば霜も降りるだろう。それまでは愛玩できる。サイクリングに行ってまたぞろ花の下へ来て見上げることにしよう。今日は見事に青空が見えている。家の中にいてぐずぐずをしているのはいかにも勿体ないような気がして来た。

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遺影写真

2015年11月21日 09時04分53秒 | Weblog

友人がやって来た。我が家の仏壇には先だって亡くなった弟の小さな写真が飾られている。背景がコスモス畑だ。だから、普段着の顔をしていてやわらかい。まさかこれが仏壇に飾られるとは弟殿も思ってはいなかっただろう。それでその後暫く、葬式の祭壇に飾る遺影写真のことが話題になった。もうそろそろ準備をしておかなくちゃね、ということになった。写真技術が発達しているから、背景は消せるらしい。そこそこ修正もできるらしい。希望なら、顔から下に羽織袴だって着せられるらしい。「だったら、カツラも被せてもらえるだろうかね」さぶろうが尋ねた。「できるかもしれないね」と友人が答えた。さぶろうの全身脱毛症は一向に改善されない。もう6,7年ほどにはなるはずだ。さぶろうの唯一の自慢は黒髪がふさふさとしているところだっただけに、死後をずっと脱毛症でいることには抵抗を感じる。「じゃ、若い頃の写真にしたら。わざわざ、遺影撮りのために写真屋さんに行かなくとも」と家内が言った。写真嫌いだからあまり写真そのものがないのだが、「それじゃ、そうしよう」ということで収まった。近いうちに必要になる、それだけは確かなことのようだった。

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2015年11月21日 08時52分42秒 | Weblog

雀には愛嬌がある。数羽でちゅんちゅん鳴いて近づいて来て、さぶろうから逃げない。しばらく屋根に乗って遊んだり、女竹を揺らして戯れたりしている。いかにもいかにも楽しげである。この頃の日本家屋は瓦屋根作りになってしまったので、藁屋根の時のようにそこに巣作りをすることができない。何処で巣作りをして何処で子育てをしているものやら。人家を離れた割には人を離れた風ではない。朝日の射している中でそうやって飛び跳ねながら家族で遊んでいるところを見ていると、不思議なことにさぶろうのこころが慰められる。

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傲慢に生きていた 横柄に構えていた

2015年11月21日 08時24分40秒 | Weblog

フカネギの苗合計400株を別々の畑に四カ所に分けて植えておいたものがそれぞれに成育しているが、成育の仕方にばらつきがある。すんすんすんと真っ直ぐに伸びてきて膨らんでいるもの、まあ順調だが途中で折れ曲がっているもの、はやくも枯れかかっているもの、勢いがなく細く萎れているものがある。列ごとに違いがある。壌土の成分や施肥の仕方、時期がそれらを分けたのだろう。もう5分1ほどはすでに掘り上げて収穫した。人様にもお分けした。我が家でも鍋物やすき焼きにしておいしく食べた。すんすんすんの修飾語がぴたりと当て嵌まる列の前で立ち止まる。元気そのもの、健康そのものという感じがする。この畑に暮らしているだけでもう何もかもが嬉しくってたまらないという表情をして朝日を受けている。目の覚めるようなグリーン。折れ曲がったもの、枯れかかったもの、萎れているものの列の前にも来てみる。「やあ、すまなかったなあ」と詫びる。同じように愛情をかけてきたつもりだったのが、結果的にはそうではなかったことになる。まさか、成育拒否をしたわけでもないだろうに。見るからに元気で健康に育つにはいろいろな条件が必要になる。それが悉く完備されたときに、植物がすんすんすんとなる。

ああ、そうだったなあ、われわれ人間だって、いろいろな条件、さまざまな条件が揃って後押しをしてくれてはじめて今日の日のすんすんすんがあったんだ、ということが思い知らされて来る。しかし、それは途中の経過に起こっていること。現在地点ではそれが見えなくなってしまっているので、そこにそれほどの思いを致したことはない。途中途中でありがとうのお礼を述べたこともなかった。ああ、おれは傲慢に生きているなあ、横柄に構えているなあと、さぶろうは今朝方ここへ来てそんなことを思ったことだった。

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