じゃぁじゃぁといふほどじゃない。しとしととん位だ。体芯からあたたまった。汗が噴き出る。男衆といっしょだった。ずらり巨漢の若い男衆だった。髭の中のぶらぶらを見ているだけで圧倒された。女衆が見たら刺激で卒倒するかもしれない。湯の帰りに外の真っ暗闇に出た。小雨に濡れてみた。
思いの中の弟も連れて来た。高速道路を走って、休んで、走った。自転車を積んで来た。着いてしばらくサイクリングして街に出た。ここはどんよりした黒い空が重たくのしかかっている。櫨紅葉が赤い。こ れから湯につかる。
白玉の歯にしみ通る秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり 若山牧水
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ひんやり歯にしみ通る酒。冷や酒。寒くなった日の秋の夜の酒。白玉のような酒。濁り酒。静かに飲むべき酒を牧水は静かに飲んでいる。ちびりちびり飲む。秋の夜をちびりちびり飲むので、ぬばたまの夜がそれだけいっそう深まって更けて行く。酒は珠玉だ。したたる白い宝珠だ。手の平にも落として嘗めてみる。
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さぶろうも昨日は酒屋に行って酒を飲んだ。一人部屋に通されて寂しい思いをした。弟に付き合ってもらった。彼はいまや上級の霊のスピリットだから、何処にでもひょいひょいで、都合がいい。その上、喧嘩もしないですむ。寂しさを慰め合って秋の夜の酒盛りが静かに終わった。空も地もぬばたま色にとっぷり暮れて虫の音が聞こえた。
まあだ朝の9時を回ったところなのに、むんむん蒸し暑い。禿頭から湯気が出て来る。上着を脱いで下着一枚になっている。朝ご飯は昨晩寿司屋さんで買ってきた巻き寿司。3個をぱくりと口にした。ここのはおいしい。1巻で700円。干瓢がいい味を出している。客人が来られた。サツマイモ入りのおこわご飯を頂いた。外に出て畑の野菜を差し上げることにした。各種。段ボール箱3箱に入れなくなるくらいに。最上等に成育している分からフカネギを掘り上げて、これも。また汗が噴き出てしまった。
庭の各所に石蕗が群落を為して咲き誇っている。誇らしげに誇っている。誇っていいほどの美しさだ。花を近づけると若いおんなのひとの匂いがする。化粧の匂いがする。各社各様に化粧品はいっぱいあるけれど、こんなにいい匂いを届ける商品はなさそうだ。麻薬を吸ったときのようにとろりとなる。一つの大きな茎から小さな茎が分かれてそこに五万と花珠がついて、それぞれが黄金を飾っている。この世を荘厳して涅槃界にしている。その作為の意図するところを思って、やさしいこころの慈悲行を思って、さぶろうの足元がふらふらっとふらついてしまった。
小屋の奥まったところで、トクワカ(小葱)の種を見つけた。去年のものだ。たくさんある。どれも緑の新芽を出している。腐ったものも、わずかにある。九月初めまでに植え付けをしておくべきものだ。だから2ヶ月遅れたことになる。この2ヶ月、飲まず食わずで過ごしたわけだ。「トクワカさん、きみらは我慢強いなあ、偉いなあ、よくここまで踏ん張って耐えたなあ」と声をかけた。見るからに痩せて細っている。
急を要する。急ぎ畑を耕して、さっそく植え付けにかかった。急ぎといっても、丸椅子に腰掛けて小さな農機具を片手に持って耕すのだから、時間がたっぷりかかる。植え付けた後にやわらかな布団のような培養土を薄く振り掛け、水撒きをした。そんなに一度にたくさんは飲めないだろうが、それでもたくさんたくさん水を飲ませてあげた。ごっくんごっくんごっくん。その後、夜を徹して朝方までずっと、トクワカの喉元が鳴っている音を聞いた。
「なんというおいしい水でしょう」「今日まで我慢をして耐えてきた甲斐がありました」「さぶろうさん、あなたはわたしたちのいのちの恩人です」「よくわたしたちを発見してくださいました」「わたしたちはこれでいのちを繋ぎとめました」「1月(ひとつき)たったら、あなたがたの食事をわたしたちが豊かにしてさしあげます」「待っていて下さいね」そういう声さえも次々と聞こえて来そうだった。
若山牧水にならって漂泊の旅に出たくなった。だがこの高齢では無銭旅行はできない。さぶろうは働いていない。年金暮しの貧乏人である。余裕がない。これがつらい。ぶらりぶらり独りの悲しさに漂いながらいついつと海の青空の青に染まりたい。