<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

緊急地震速報が入った

2015年11月13日 19時47分31秒 | Weblog

早朝5時50分に携帯電話から緊急地震速報注意報が鳴り出した。飛び起きた。震源地は九州地方西方沖。震度は4。マグニチュード7。鹿児島県南部や西部、トカラ列島、種が島などに津波警報が出された。予想津波の高さは1m、到達時刻は6時10分と発表された。津波は繰り返して来襲する危険があるようだ。その後ただちに、政府の総理大臣官邸内に緊急地震対策本部が設置された。被害の情報は入っていないという。ほっと安堵した。それにしても、危険災害の情報伝達の機敏さ高度さには驚いた。これで被害が最小限に食い止められるだろう。さすがだ。ちなみに我が町神埼町は震度3だと発表になったが、体に感じる揺れはなかった。緊急放送が続いていて、6時半のラジオ体操は流れなかった。夜が明けるのが遅い。7時になってやっと空がほの明るくなった。小雨が降っている。みなさんの住んでいるところは無事でしたでしょうか。

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そこも好き

2015年11月13日 19時33分37秒 | Weblog

きみが大好き。何をしていても好き。おだてられて、それを恥じらって俯いているところ、そこも好き。おだてられずにしんみり静まりかえっているのも可愛い。そこも好き此処も好き。だなんて全面肯定するさぶろう。そりゃ、お向こうさんが俯いてしまうのが当たり前だよな。

しかし、そこに人はいない。さぶろうのでっちあげ。我が儘者のさぶろうが気に入る人がいるわけがない。だから、みんなでっち上げ。ヴァーチャルリアリテイ。山の畑の案山子。

案山子のところへ山鳩が来てぼふうぼほうと鳴いているきりだ。きみの位置にいる山がここでやっとこさ大きく背伸びをした。さぶろうは人間どもにはからっきしもてない男。日暮れの山くらいが似合っている。

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さぶろう お前 何が楽しいか

2015年11月13日 19時09分56秒 | Weblog

さぶろう、お前、何が楽しいか。

なに、楽しむものがない?

そりゃ、お粗末。頼んで頼んで頼み倒しして、それがようやくに聞き入れられて人間に生まれて来た者にしてはまっことお粗末。

楽しみせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけむ。楽しみて戯れてこその白拍子。

善悪の文字の知り顔は、冷めてこの世を見て、それを仏法者としている。浅まし。

われは白拍子には非ず。とや。

それしきを生きて来たのか。

・・・・・ さぶろうの声なし。

なんじ無為を以って楽しみとすべし。(と、ここで助けが入る)

入我我入の息つき呼吸は楽しみの極みなり。息を吐いては大日如来の楽しみに入り、息を吸っては大日如来を我が胸の宇宙に迎えて楽しむ。

楽しむべし楽しむべし。やれさぶろうや、楽しむべし。

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おおそらごとを巧むのは善悪の字の知り顔

2015年11月13日 17時48分33秒 | Weblog

よしあしの文字をもしらぬひとはみな/まことのこころなりけるを/善悪の字しりがおは/おおそらごとのかたちなり    親鸞聖人自戒のご和讃

善悪の文字を知るようになるとそこにおおそらごとが蔓延ってくる。そらごとは空言である。虚言である。人間の能力では善悪をわきまえることはできない。できたところでそれは我中心のそれである。我が利益を真ん中に置いた善悪である。仏さまの眼ではものを見られない。そうであるのに、それを善だといい悪だと言い、極めつける。さぶろうのことである。さぶろうはおのれをよしとして己以外をあしとする。愚禿親鸞の愚になり切るのは、並大抵の修行では不可能だ。善悪の字しりがおは、理屈を付けるのが巧みである。

「牛盗人と見られるとも、ゆめ仏法者と見られまじく候」これも親鸞聖人の自戒である。いわんや、さぶろうをや。

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ブロッコリーの葉っぱの青虫を助ける

2015年11月13日 17時31分56秒 | Weblog

ブロッコリーの濃緑色の葉っぱが青虫に網の目状に食い破られている。糞がいっぱいだ。中心部にはもうすぐ食べられそうにしている淡緑色のブロッコリーがあるので、殺虫剤はもう噴霧できない。箸でつまんだ青虫を靴で踏みつぶすしかない。そうしようと思って靴をあげてそこで思い止まった。葉っぱを支えている茎ごと折ってこれをあなたのテリトリーにしなさいとやや離れたところに運んでやった。青虫と雖もわれわれと等しいいのちを持っていることを思い起こしたからである。いつでもこんなことをしていたら農作業はやれない。虫の害は凄まじい。発芽してすぐに緑色をしている部分は食い尽くされてしまう。だから、種蒔きと同時に殺虫剤の粒剤を撒いておかねばならない。これをしても長くは持続しない。青虫とさぶろうでは、さぶろうが強い。だけれども、強いから殺していいというわけではない。青虫が体を捩らせて助命嘆願をするので、哀憐の情が湧いてきて、殺戮を思い止まったのである。いまは青虫よりも強い立場にいる。いるけれども、いつもそうしていられるとは限らない。強い立場にいるときに、どうするか。たまさかふっとそれを考えたのである。

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櫨(はぜ)紅葉

2015年11月13日 15時54分52秒 | Weblog

櫨紅葉みな女人(にょにん)かな 血の色に野辺に迎ふや乳房を見せて     薬王華蔵

櫨紅葉が赤い。鮮やかに赤い。こんもりとしてまるまっているのでそれが温かく迎えてくれる女人のように、さみしいさぶろうには、見えてしまう。植物の花はみな植物の性器である。ここで交わって子をなす。もみじ葉は花ではなく葉である。人間で言えば胸の乳房か。野に出て山に入って、女の人に抱かれてほのぼのとしていたい。さぶろうの交わりは無機質だ。

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幼児じみている

2015年11月13日 15時20分51秒 | Weblog

蔓有りスナックエンドウがぞろりと発芽している。まだ種が半分ほども残っていたので、またぞろ小さなポットに培養土を詰めてこれに3粒の種を埋めた。3列x4列x3箱。ベランダに来て椅子に腰掛けて、これで数時間を遊んだ。まっこと幼児じみている。ひとり砂遊びをしている幼児そっくりだ。飽きない。

お昼は素麺を茹でてひとりで食べた。麺汁の種類を間違えたのかも知れない。どうも味が変だった。雨は降らないが空は曇ってどんよりとしている。小葱を摘んできて細かく刻んで麺露に加えた。

ほのぼのとわれをなさしむ朱の色のベゴニヤなれは人にあらねど      薬王華蔵

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駅伝のタスキは誰に渡って行くのか

2015年11月13日 14時37分02秒 | Weblog

わたしはわたしの区間を走っている。誰かからタスキを引き継いで。もしも人が生きていることが、たとえば駅伝のようなものだとすればだが。

で、わたしが走り終えたら、次に誰が待っているのか。タスキは誰に渡って行くのか。

誰でもいいものか。あるいは特定の誰かなのか。単数なのか複数なのか。

わたしが生きていなかったら、その人も生きてはいないというように強い影響力で互いに引き合う関係。そういう人が現れるのかどうか。現れないでおしまいになるということもあるのか。さまざまな疑問が湧いてくる。

いのちのバトンは子供に受け継がれるかもしれない。血が繋がっていくという点で。

血でないもので繋がって行くというのもありそうな気がする。じゃ、血ではなくて何なのか。魂の連結というのがありそうにも思える。

血よりも濃いなどという表現があるが、この場合は情け(愛情もこれに含まれる)がこれに当たるかもしれない。

誰かにそれを渡そうとしても渡って行かない場合もあろうし、その反対に、渡そうと思ってもいない人に渡って行くと言う場合もありそうである。

わたしの暮らした場所を埋める人なのか。

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人間の技術や思想を埋め合わせていってくれる人をそういうように呼ぶのか。(文明や文化や科学技術などというのもやはりタスキを繋いでいくものかもしれない)

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信仰も引き継いでいくことがありそうに思えて来る。

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わたしは誰を引き継いでいるのか。この人がいなかったら、いまのわたしはあり得ていないといった種類の駅伝だとすれば、わたしの場合はどうも日本仏教の祖師方を初めとした仏道修行者、伝道者のような方々のような気がする。

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空に空の図書館(アカシック・レコード・ライブラリー)があるらしい。ここに人類の行動記録を記した歴史書が分厚く積まれていて、ここへ行けば、どんな人であれ、過去現在未来、その人の生きた全記録が読み取れるらしい。

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「この人のバトンは次の人に渡っています。もしも続きを読みたければxx氏の記録書に移動して下さい」とアカシック・レコードの最後にメモ書きがされていたりするのかもしれない。

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「いのちの引き継ぎ」「暮らしの引き継ぎ」「信仰の引き継ぎ」「思いの引き継ぎ」「疑問の引き継ぎ」などなどタスキを繋ぐことについえ考えてみたが、うまくまとまらなかった。

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今日は疑問を呈したというところだけでブログを閉じたい。

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阿弥陀さんになってくれろと頼まれている

2015年11月13日 11時13分02秒 | Weblog

さぶろうはいい加減だ。いい加減なことを書き散らしている。無責任男だ。言いっ放しだ。

阿弥陀さんは誰もが阿弥陀さんになってくれることを望んでいらっしゃる。ケチをなさらない。長い修行がすんでやっとやっと仏さまになれたのだから、それを独り占めにしていたいはずなのに、そうではなかった。さぶろうを抓んできて、さぶろうをもその阿弥陀さんにしようとして、熱い息を吹きかけてこられる。おお、おお、いい加減の極、無責任男のさぶろうをだ。すまないことだ。熱い息を吹きかけてこられたさぶろうの、仰天ぶり。戸惑いよう。

阿弥陀さんになってくれろと頼まれているさぶろう。阿弥陀さんじきじきにだ。それを振り袖で振り払っているさぶろうがいる。肘鉄砲にしているさぶろうがいる。あさましいさぶろう。

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生と死は分かれていない

2015年11月13日 10時44分54秒 | Weblog

わが眼には、切れているようにしか見えないけれど、切れていない。

わが頭では、切れたように思ってしまうけれど切れていない。ずっとずっと繋がっている。

いつもいつも全体として生きているから、途中で途切れると言うことがなかった。

そういう絶対値のいのち、巨大な円空のいのちをわれわれは生きているのだった。

わたしだけという命は存在ができない。だからそういう切り離されたわたしは存在していない。

そうであるのに、切断されたと受け取るのは間違いである。どこへどう逃げようと隠れようと、みんな縁のつながりで引っ張り合っているのだ。

わたしにまで届いたいのちは、なるほど、これまで一度も死んではいなかったんだ。一度だって宇宙の外に放り出されたこともなかったのだった。

生と死を分けて考える癖がついているけど、近視眼が過ぎる。もみじの葉っぱには表だけ、裏だけというのはない。重なり合っていて、一如だった。

死んだことがないさぶろう。死んでいない弟。広々となって大活躍に突入した弟。そういう弟を瞑想してみる。ふふふ、だ。

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さぶろう、お前何歳になる? 宇宙と同い年、阿弥陀さまと同い年、毘盧遮那如来と同い年。

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さぶろう、お前何処に居る? 大きな大きな此処にいる。何処まで行っても此処が此処だからしようがない。

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此処をこのたび阿弥陀さまになって生きているさぶろうを、触れてさすって撫でて、いとおしむ。

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