風呂の出窓の飾り棚に鉢植にして飾っています。一株です。草丈が3cm位なのに、一輪の紫の花を着けています。数日おきに水遣りをしています。それだけでこうです。お風呂場でついつい、「きみは偉いなあ」の賛嘆の息が洩れました。さぶろうの夕食はこうではなかったからです。魚があって白飯があって、ご馳走づくめだったからです。お酒まで飲んでいたからです。彼らは仙人のような、修業者のような、菩薩のような生き方をしています。
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一日を生きたら一日分の深まり。本を読んでいたらそんな説示に遭遇した。立ち止まった。
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深まりとは、秋の深まりのような深まりか。
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秋の趣きは、寒さが募って、そこで深まって行くことができるのかもしれない。
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これに対して、春は扉を開いて行くようであるから、人生の趣の底が埋め立てられてむしろ浅くなっていくのではないか。
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いやいや、春は春でしか味わえない味わいというものがあるから、深まりよりも高まりに比重が移るのかも知れない。
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一日を生きたら一日分の深まり。一日を生きたら一日分の高まり。それでおしまいではなく、一日を生きたら一日分の広がりというのもあるに違いない。あるいは一日を生きたら一日分の近まり、到達点への近まりというのもあるのかもしれない。
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たった一日でそんなに変化はないと高をくくる場合が多いが、一日を過ごす大切さを問い詰められている説示であった。
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さぶろうは老いた。一日の持つ価値が若い頃のそれの何十倍も何百倍も太く力強くぐいぐい迫って見えてくるようになった。
病によって道心は起こり候。 日蓮聖人
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道心は仏を思う心だ。この世の相対価値ではなく、それを超えた絶対価値を思う心だ。病にかからないで道心を起こす人も居るが、そういう人ははなはだ稀である。
後がないという切羽詰まったところまで押しやられないと道心が自発するということはない、普通の場合は。苦しみの底、悲しみのそこに落とされてはじめて、わがこころから道心が湯に成って沸き上がってくる。そういうケースが多い。
それでも病を疎んじてしまうこともある。恨んでしまうこともある。苦しみをあくまで敵として、加害を為すものとすることもある。悲しみを悲しんでのみでやり過ごしてしまうこともある。
道心を起こせしむるのは仏の大悲のこころである。だが、そこを見ないで、病そのものを悪の現象として見てしまうと、そこの大悲も無駄になってしまう。
だが、病は嫌だ。できることなら病まないでいたい。でも、病まないでも道心を起こしうる能力のあるわたしかどうか。自信がない。目を奪うばかりのこの世の総体的娯楽でもって、せっかく与えられた人間向上のチャンスをやり過ごしてしまうのではないか。
結果として病を引き受ける羽目になったときの心構えを、日蓮聖人は述べられたのではないか。それが大悲の心からのものであるということを説き明かされたのではないか。そんなことがこの句から思わされたことであった。
道心を起こすためには避けて通れない道がある。茨の道である。苦しみ悲しみの道である。そうでない道もある。楽しみながら道心を起こすという人もある。浮き浮きしながら道心に近づいて行く道というのもある。その場合は、道心がより最大の重要事であって、それより以外はそれが道心を導く道具となっていることが多い。
さぶろうには、畢竟、そのどちらも難しく感じられてならない。やっぱり現実には泣いて喚いて、運命を呪って責めて、不平と不服と不満を述べ立てて終わりそうに思える。法華経を聞いても聞かされても。
おみなあり/二人行く/若きは/うるわし/老いたるは/なおうるわし ホイットマン
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おみなは美しい。そのままで美しい。いのちが溌剌と漲っていて美しい。だがその美しさは自分では納得ができない。せいぜいが持て余してしまうだけで終わる。ということは? それは他者のための美しさということか。美しさを過ぎて行った者のためのそれなのか。老いてみてはじめて生きているいのちの美しさに思いが至るようになる。老いた者にその美しさはすでに消えているけれども。老いた者がいてはじめて若いおみなの美しさが、いのちの中に潜入して来て、かがやきだしてくる。人間の美しさが見えるようになることで、老いたるはそのこころの内側で美しくなる。不思議な巡り合わせだ。おみなと老人が二人して丘の上を歩いて行く。丘からは夏の青い海が見えている。
虚子一人銀河と共に西へ行く 高浜虚子
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「何処へも行かぬ此処に居る」でもいいが、「西へ行く」という決断もいい。銀河ともどもだから、雄大だぞ。それも一人だ。お喋りしながらではない。どっちへ向かうか相談もしなくて済む。愉快がてら弥次喜多道中をするでもない。だから、決然としている。付いて来る者がなければ、寂しいだろうが、星々のにぎわいがいっしょだから。西は、阿弥陀如来さんの国、極楽浄土がある。ここでしばらく逗留するのかもしれないが、果てしなく膨張をする銀河を連れているから、長居はできまい。西ではなく、東でもよかったかもしれない。東には瑠璃光浄土がある。ここには薬師如来がおられて、宇宙中の生き物の健康増進に貢献しておられる。作者の虚子が此処を去って西へ行くのはいますぐではない。肉体を抜け出たときだ。西へ行くというはっきりとした意志の宿る未来だが、行ける当てはあるか。物質界の移動ではないから、ジェット機は無用だろう。行くという意思があれば、これが乗り物になる。「おれは西へ行く」「迷うことはない」「銀河を連れて行くから、此処には別の新しい銀河が誕生をするだろう」なんだか、そんな明瞭な意思決定が聞こえて来て、暗いはずの死が明るくなって、いやに清々しい。
よく降っているなあ。雨は打楽器奏者。リズミカルにタンバリンを鳴らす音がしているけど、不器用さぶろうはポルカは踊れない。でも、歌うことはできる。ハミングで。それっきりで、後は踊り手の楽しいばかりのカップルを羨ましそうに眺めている。カップルって? 白菜の大きな葉っぱのカップル。白菜の緑葉を舞台にしている青蛙さん。
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といっておいて、餅入り最中つぶあんを食べる。ぽくぽく。最中が好きだ。表に菊のご紋が押してある。
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舌が肥えているわけではない。たいがいのものは横並びに等しくおいしく感じられるから、扱いやすい手合いである、さぶろうは。
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希望を蘇えらせるというのもヨミガエリの一種だろう。再生、再活動がこれで果たされるのなら。
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さっきのブログでは精子は希望成就未来体であるという考え方をしてみた。あの微小なカラダの中にも無数の希望が織り込まれていたはずである。卵子の其れまで入れたらそ、その後の希望数は2倍にも20倍、200倍にもなるだろう。
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それが何処へ行ったか。大概が行く方知れずになっているようだ。何処で零して来たのだろう。どれほど打っちゃって来たのだろう。
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探しに行ったら見付かるかも知れない。3丁目の3番地にまだ捨てられたままになっているかもしれない。死物にはならずに、まだ大きな目を剥いているかもしれない。
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探しに戻って来たら、大喜びをして飛びついてくるかもしれない。今度こそ捨てられたりしないようにあなたにしがみついています、と希望の幼子が凜々しい決意を述べるかもしれない。
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希望。湧いては消える希望。実現を見た希望。見なかった希望。薄汚れてしまった希望。暗い蔵の中で蜘蛛の巣まみれになっている希望。出番を待って幕間の袖に列んでいる希望。ともあれ、希望があれば人は明るくかがやける。
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餅入り粒餡最中を食べるというのもあの時の希望の星空の一箇の星だったかもしれないが、これで最後の一箇ということでもあるまい。かがやく星空がまだきらきらして広がってもいそうだ。
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愚痴ったってしょうがない。これに耳を貸せばその耳が耳朶とも汚れてしまうだろう。
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男性は一度のセックスで億単位の精子を放出するらしい。実にエネルギッシュだ。旺盛な活動ぶりだ。で、卵子はその内のもっともビゴラスな1生命の希望成就未来体だけを迎え入れる。
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わたしは泳ぎに泳いだ。寝泳ぎくらいでは打ち負かされてしまうので、尻鰭とともに最速クロールをして泳ぎに泳いだ。懸命に。それで一番乗りを果たした。仲間の兄弟たちに向かってお先にどうぞなんか言っておられなかった。これでようやく合体して<あなたとわたし>という複合生命体が始動した。
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あの頃精子のわたしは努力家だった。活動家だった。一生懸命を地で行った。あなた(卵子)とわたしはその日から愛を語り合った。何よりも何よりも人間に生まれて来るという感動でふたりとも打ち震えた。
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そして人間誕生以後は、あれもしよう、これもしようと希望を述べ合った。折り合いが付かないくらい希望の選択肢が溢れて来た。かがやいていた。瞳のボルトが1万ボルトもあった。
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その複合輝き生命体が怠惰になったのはいつの頃からだろう。希望を語らなくなったのはいつ頃からだろう。わたしのせいだけではないかもしれない。
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そんな怠惰な生き方しかしないのだったら、おれたち兄弟に勝ちを譲ってくれてたらよかったのに、と先を争った精子の兄弟たちは怒り出すだろう。きみが人生を豊かに生き生きと生きて見せますと見得を切って叫んだから、おれたちはあのとき泳ぎを緩めたのだ、と臍を噛むだろう。
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受け入れた卵子だって、こんな未来を予定していたのではないだろう。あのときのあなたのラブコールは最高だったが、いまのあなたはそれが最低の周波数になってしまっていると言って落胆するだろう。
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精子のわたしは一度のセックスで快楽を極めてしまったのではない。それからさきの人生に十分なエネルギーを遺しておいたはずだったのだ。たしかに、それからさきの人生にも快楽はさまざまな形を取って何度も訪れて来た。
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いま、老いの楽しみを楽しんでいる。これも快楽のはずだ。わたしは父の精子であったが、それと同時にわたしでもあった。わたしを生きることが許されていたのだから。
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愚痴をいうのはよそうと思う。あのときの希望に立ち返ってみたいと思う。
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あなたとわたしの複合体であるわたしたちは、あのときに、どんな人生だって困難とはしなかったはずなのだ。そして、その希望はまだ死んではいないのだ。瞳の中の1万ボルトのかがやきが戻って来てもいっこうに差し支えはないのだ。
例年なら今頃は干し柿作りという仕事があった。でも今年はしていない。気温が高すぎる。皮を剥いて干してもこれでは黴が生えてしまう。気象庁の発表では今度の連休明け以降になるらしい、底冷えの気温低下は。昨日会った友人はサマーセット・モームの作品を朝晩ローリングチェアに揺られながら原書で読むのが楽しいらしい。きみもどうだい、と勧められた。うらやましい限りだ。ハイクラスな晩年の過ごし方だ。だが、この老人と来たら、同じく老人をしているのに、一向にその気にはならない。我が家にはローリングチェアもないが、語学力も伴わず、その高級生活志向の気力ももはや萎えている。
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雨は降り止まず。雨樋の壊れた箇所からしとととしとととの雨垂れの音が。それが小刻みな太鼓のよう。
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祭り太鼓が鳴る季節になった。でも、祭りには行かない。人に酔ってしまうから。どうしたことか、一人が一番になった。一人は気兼ねしない。
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稲刈りが済んだ。といっても刈り取ったのは大型のコンバイン。コンバインの慰労はしても人のそれは無用な時代。祭りの意味もあるまい、さほどには。
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人はいつも何かをしている。何かをしていなければ生きていることにはならない。そういう不安を抱いている。
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そうかもしれない。何かをしていなければ生きていけないようになっているのかもしれない。何もしないことは怠惰。そういって戒められているから。手足でも動かしていないと怠け者が粘土に成って固まってしまう。
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「何もしてこなかった者は死ねません」三途の川にはこんな立て札が立っているかもしれない。「肉体が死んでもここから先へは渡れません」とも。となると、これは困ったことになる。
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何かをしなくちゃならない。しかも自らを慰める種類ではなくて、人様の役に立つような何かを。人様を嬉しがらせるような何かを。はっきり意義のあることを。
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これが苦手なんだよなあ。人様の中にはいることすら苦手。人様の顔の、顔の中の目を上目遣いに見ることも苦手。人様をにたりとさせることも苦手。これじゃなあ。さぶろう失格。
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雨が降り止まず。家の中にいるしかない。畑にも出て行けない。ひとり草取りもできない。
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今日は草取りの無言行もできない。人様の中に入って行くこともできない。働いた功績があって、人様が楽しむ祭りを楽しむこともできない。できないばかりじゃないか。