<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

仏典には嬉しいことばかりが書き連ねてある

2015年11月15日 14時04分39秒 | Weblog

さぶろうは軽薄で生意気で脳天気である。でもって愚者をしているしかない。愚者のいいところは、しかし、自分で考えなくてすむところにある。考える能力が足りないから、必然的にそこへ傾く。だから、考えてもらったのを丸呑みしてしてしまう。そしてその通りにする。つまり下駄を預けてしまうのである。賢者はこうはいかない。自分で考えて納得しなければ行動に移せない。と言うことは、その分だけ手間暇がかかってしまうということだ。慎重であるという長所には、手っ取り早くないという短所がついて回る。

何を言いたいのか。仏陀の説法を鵜呑みにしていればすむのが愚者の特権である。さぶろうもこれに当たる。仏陀を疑わなくていい。そんなことがあるものかという具合に自分で再検討したり再確認したりしなくてすむ。

「消除三垢冥 (しょうじょさんくみょう)」と仏典に書いてある。「あなたから怒り、貪り、迷妄の三つの垢冥(くみょう)を除いて消してやろう」と書いてある。書いてあると言うことは実行されたということである。仏に嘘はない。

次に、「広済衆厄難 (こうさいしゅうやくなん)」と仏典にある。「(法蔵菩薩が)手広く救済活動に入り、衆生すべての厄難は済度されます」と嬉しい約束事を告げてある。

何処を読んでも嬉しいことばかりが書き連ねてある。疑いさえしなければ、従って、ずっと嬉しがっていていいのである。わたしの方が仏の智慧よりもより正しい判断ができると大上段の構えをしないでいれば、慈愛の眼差しの母に抱かれているままでいいのだ。 

仏典には嬉しいことばかりが書き連ねてある。わたし(仏さま)はあなたの味方をしています。決して敵側に回ったりすることはありません。あなたを守ります。導きます。最後の最後まで目を離すことはありません、などと繰り返し繰り返し。

 

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我は天界・人間界の師(マスター)とならん

2015年11月15日 10時26分48秒 | Weblog

離欲深正念 浄慧修梵行 志求無上道 為諸天人師 神力演大光 普照無際土     浄土真宗経典「重誓偈」より

りよくじんしょうねん じょうえしゅうぼんぎょう しぐむじょうどう いしょてんにんし じんりきえんだいこう ふしょうむさいど

われ(法蔵菩薩)は、離欲と深正念と浄慧もて梵行を修し、無上道を志求しえたれば、諸々の天・人の師たり。いままさに神力もて大光を演(の)べ、普(あまね)く無際の土を照らさなん     (さぶろうの勝って気まま読み)

わたしは人間界の欲を離れている。わたしは正しい念(おもい)を深めている。仏の清らかな智慧に入って仏道の修行に徹している。この上ない覚りを求めて到達したので、いまは諸々の天界・人間界の仰ぐべき師の位置にいる。これからは利他の超人的な神通力を発揮して、大光明を放ち、生きとし生ける者の棲む国々を余すところなく照らしていよう。   (ぐうたらなさぶろう用の解釈)

1,離欲。

人間界の欲を離れると仏界の智慧に抱かれることになる。二つを天秤にかけるとどうなるか。おいしい食べ物とやさしい女性と尽くすことのできない快楽と美しい天地とに囲まれている人間界であるから、此方の方が断然重きを成しているだろうから、まだ求めても手に入らない仏界の智慧の誘惑を蹴る恐れが十分にある。あるけれども、人間界を一旦離れたら、必ず仏界に至って仏智を保持することは、これまた間違いのないことだ。だったら、いま此処でいえやっという具合に離欲してもかまわないのだ。では、そうしよう。そうしよう。暫くの間でいい、そうしよう。どうだ、いい気分になったか。爽やかになったか。一時も速くそうしなさいというのが仏の勧めである。勧めに従っても異論はあるまい。

2、為天人師。(天界と人間界の指導者・マスターとなる)

これも仏の側からのお勧めである。さぶろうへのお勧めである。仏典のあらん限りを尽くしてこうしたお勧めがさぶろうに届けられている。「さぶろうよ、あなたがまずもってこの天界・人間界のマスター(修士号・博士号取得者)となりなさい。そうして普照無際土しなさい」と声を嗄らしておられるのである。だから、遠慮することはないのである。その気になればいいのである。その気になったならば、必然的にその行動実践が伴って来るであろう。即身成仏の思想である。この身このまま、つべこべ言わず、えいやっという具合に仏身(初めは偽物でいいから)に変身してしまえばいいのである。ところが、そうはいかぬ。条件が満ちていない、危険思想だ、などという回りからのブーイングに耐えられないからである。でも、為天人師をしても一向にかまいはしないのである。

 

 

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ふれてもらう なでてもらう だきしめてもらう

2015年11月15日 10時08分43秒 | Weblog

ふれてもらう/なでてもらう/だきしめてもらう/ぺろりぺろりなめてもらう/これはみんな風がしていること/してもらっているのはさぶろうだ/丘の上にさぶろうは来ている/丘には赤い櫨紅葉/その向こうに遠く海が見える/風はどうしてそんなことをするのか/さぶろうを愛しい者とするためである/この世に生きているさぶろうは/そうまでされるほどに徹底して/愛しい存在であらねばならないからである/さぶろうのやつ/風のやさしい寵愛を/独り占めにし/さっきからほろほろの熱い頬に/なみだしている/

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ことばはおいしい

2015年11月15日 09時54分37秒 | Weblog

ことばはおいしいか。おいしい。声にして耳で食べるのもおいしい。声にしなくて目で食べるのも。こうやって一人で食事をして楽しむ。ことばはおいしい。栄養価も高い。その割にはお金がかからない。文字にして最大限に飾って盛りつけをすると、ことばのレストランに読み手が現れる。またラブレター料理にして、大好きな人に食べてもらうという方図もあるが、これは相手がいないとできない。ことばにはことばの森があったりもする。豊かなことばの海があったりもする。そういうところへ出掛けて行くよろこびもある。ことばはおいしい。腹に飲んでいるだけでおいしい。

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わが故郷の紅葉の九年庵開園

2015年11月15日 09時38分51秒 | Weblog

今日から紅葉の九年庵が開園になる。毎年、旅行業者が集めた行楽客でいっぱいの貸し切りバスが詰めかけ、道路は渋滞する。これを避けるために、この近年は離れた場所に大型の駐車場が設けられ、シャトルバスがピストン運送をすることになっている。九年庵は、たちまち銀座一丁目に変身をしてカメラを持った人人人で埋まる。入園するのに行列ができて長く待たされることもあるので、近くに住んでいるさぶろうは、この期間を避ける。九年庵の裏手には仁比山神社が控えていてここの境内もまた紅葉の赤に染まる。秋がここまで深まってきたようだ。神埼駅からは歩け歩けのリュックサックが九年庵までの大通りをゆらしてかかる。我が故郷はこの時期押すな押すなの盛況な観光地に早変わりする。神社の鳥居から先には露天の屋台がずらりと列ぶ。ふうてんの寅さんも声を嗄らす。

 

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青い空が覗いている

2015年11月15日 09時25分24秒 | Weblog

雨は上がった。青い空が覗いている。嬉しい。気温は21度。でも明るい日差しが降り注いでいる。お昼からはもっと秋晴れの上天気になるらしい。こころが足を伸ばして弾み出す。口が舌の上で紅茶飴を嘗めている。誰かに声をかけてみたいが、声をかけていいと判断できる人は見付からない。誰かを誘って秋の海へピクニックにでも行きたいところだが、誘える人はますます見付からない。

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朝の挨拶

2015年11月15日 09時17分22秒 | Weblog

「おはようございます」というと「おはようございます」と返ってくる朝の挨拶。誰からでも返ってくる。小鳥からも。ことばを声にしない様々なものからも。これだけで爽やかになれる。不思議だ。朝は不思議なパワーに満ちているとき。パワーに満ちている畑に出て大きく深呼吸をしてみる。

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