さぶろうは軽薄で生意気で脳天気である。でもって愚者をしているしかない。愚者のいいところは、しかし、自分で考えなくてすむところにある。考える能力が足りないから、必然的にそこへ傾く。だから、考えてもらったのを丸呑みしてしてしまう。そしてその通りにする。つまり下駄を預けてしまうのである。賢者はこうはいかない。自分で考えて納得しなければ行動に移せない。と言うことは、その分だけ手間暇がかかってしまうということだ。慎重であるという長所には、手っ取り早くないという短所がついて回る。
何を言いたいのか。仏陀の説法を鵜呑みにしていればすむのが愚者の特権である。さぶろうもこれに当たる。仏陀を疑わなくていい。そんなことがあるものかという具合に自分で再検討したり再確認したりしなくてすむ。
「消除三垢冥 (しょうじょさんくみょう)」と仏典に書いてある。「あなたから怒り、貪り、迷妄の三つの垢冥(くみょう)を除いて消してやろう」と書いてある。書いてあると言うことは実行されたということである。仏に嘘はない。
次に、「広済衆厄難 (こうさいしゅうやくなん)」と仏典にある。「(法蔵菩薩が)手広く救済活動に入り、衆生すべての厄難は済度されます」と嬉しい約束事を告げてある。
何処を読んでも嬉しいことばかりが書き連ねてある。疑いさえしなければ、従って、ずっと嬉しがっていていいのである。わたしの方が仏の智慧よりもより正しい判断ができると大上段の構えをしないでいれば、慈愛の眼差しの母に抱かれているままでいいのだ。
仏典には嬉しいことばかりが書き連ねてある。わたし(仏さま)はあなたの味方をしています。決して敵側に回ったりすることはありません。あなたを守ります。導きます。最後の最後まで目を離すことはありません、などと繰り返し繰り返し。