包丁で細かく細かく切った。家内が油炒めをこしらえてくれた。白ご飯にのせて、茶漬けにして食べた。臭いけれども、おいしかった。友人のあたたかい心遣いであった。落胆してしょげてないか、見に来てくれたのだ。口の中がまだ臭いなあ。
気が紛れるように。ゆっくりゆっくりペダルを漕いだ。かなり遠くまで行った。汗を掻いて、途中でシャツ一枚になった。お天気がよかった。気が紛れるように山や川の風景を見い見いしたが、これはそうは行かなかった。
進歩を見たので、次の新しい世界に歩み出すことができるのだ。向上をよろこび、よろこばれるので、その先へその先へも嬉しいのだ。扉はその先へその先へ幾つも続いていて、その都度に進歩を見るのだ。終りではなく、常に始まりなのだ。死は壁ではない。行き止まりではない。この世の誕生がそうであったように。
抗(あらが)って抗って抗っている自分がいる。背(そむ)いて背いて背き抜こうとしている自分がいる。この自分を見つめておられる方がおいでになる。己を見つめてくださっている眼を、ちらりちらり己が見ている。仏に見られているので目覚めが起ころうとするがまたぞろ元に戻る。無明煩悩に駆り立てられて、この世賢者の己を優先にするからだ。
ここには仏さまがおいでになられている。仏さまはわたしを仏にしようとされている。ご自分と同じく安心の仏にされようとしている。ここは仏さまの世界であるから、仏の法がはたらいている。仏の法が働きに働いているから、安心をしていい世界である。これを頷こうとしているわたしがいる。
「機の深信」と「法の深信」がこうやって交錯する。仏さまはその間もずっとわたしを見続けておられる。抗って抗って、背いて背くわたしを安心へと導こうとされている。仏さまと平等の安心の世界へ導こうとされている。あらがいを前面に立てているとわたしはこの世の賢者になれているから、不思議だ。
この世賢者は賢者でありながら不安でたまらないらしい。恐怖心でいっぱいであるらしい。仏に背いていると、それだけで仏を超えているようで大威張りができるらしいが、大威張りの風船が弾けてすぐに地に落ちてくる。成仏した弟よ、兄はまだこんなところをうろうろうろついているようだ。
お昼になった。朝ご飯は梅干しでお茶漬けにして啜り込んだ。食べても食べなくてもよさそうだ。ブログに愚痴に類することをこぼしているきりなので、腹が減らない。
気分転換をしに何処かへ出掛けたらよさそうだ。でも何処に行こうと何をしようと、腹の中は弟の思い出であふれかえっているだけだろうなあ。外はぽかぽかの小春日和。空が陽気だなあ。
seijinotuboさんのブログを読みました。わが弟のことを書いて頂いていました。感謝します。
あやふやな自論をあれこれ展開しているので、読んでくださっている人をこんがらせてしまっているかもしれません。なんだかすまない気がします。弟が亡くなって気が動転しているようです。わたしは仏教を学び実践している専門家ではありません。もちろん僧でもありません。外野席にいて応援をしている者の一人です。応援していると言いながら、ただぎゃあぎゃあわめき散らして騒いでいるだけのようですけど。ほんとうの安心は専門家に聞いてくださいね。
それにしてもあまりにも葬式とそれ以後に比重がかかりすぎている。仏教の役割は傾いた船のようだ。
死は恐れである。恐怖である。これを安心にする。これをするのが仏陀だ。仏陀の救済だ。仏陀は誓願を立ててこの救済を約束した。だから、仏陀を信じる者は死を安心していいのである。弔いによって安心が来るのではない。仏の本願によってそれがそうなさしめられているのである。
これを疑う。人間の手がはいらなければ安心は来ない、お浄土には行けないと疑ってしまう。疑いは疑いを呼ぶ。じたばたする。救済されるために無用の自力を投入する。じたばたする。そして恐怖の波に飲まれて溺れかかる。
仏典には「安心しなさい」「あなたをわたしが助けます」「あなたを仏陀が救います」と千行万行を費やして書いてある。「あなたを仏陀にします」「死はあなたを新しく生かすための方便です」と誓ってある。
僧の弟はこれを信じた。そして実行した。阿弥陀仏を頼んで安心をした。じたばたしなかった。疑いでもって溺れなかった。鉦も太鼓も鳴らさなかった。弔いを無用とした。傾いた衆生済度の船を元に戻すのに、まことにまことに微力かも知れないが、力を貸した。
安心をしていい。これが宗教の眼目である。ここは仏陀の世界である。われわれは安心の仏陀の世界を生きているのである。「唯心浄土 己身弥陀」であって、安心できないはずはないのだ。
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唯心浄土(ゆいしんじょうど):わがこころこそは浄土である。わが安心こそは浄土である。安心をした者はそこに浄土を建設する。
己身弥陀(こしんみだ):阿弥陀仏を外に設けるのではなく、我が身(己身)のうちに樹立すること。我が身をもって安心の阿弥陀仏(安心という阿弥陀仏)、救済の阿弥陀仏(救済が完了して成仏したもの)とすること。
仏教が葬式仏教であっていいはずがない。仏教と葬式の縁は切っても切れないほどに密着している。葬式を出すのが仏教の役割だと勘違いしてしまほどに。しかし、死を機縁にしてしか、われわれは生を真剣に受け止めることができない。これも現実だ。だから死は宗教の切り札なのだ。この切り札を善用しない策(て)はない。これも理解できるところだ。死者の死を中心に据えて生の仏教を説き明かしてくれるのは僧である。
弔うことができるのは人間ではない。僧ではない。やはり仏陀だ。仏教の僧はこの仏陀の仕事のお手伝いをしているに過ぎない。人間が人間を弔うことなどできるはずがない。人間が人間の永遠の救済をやり遂げる能力などあるはずがない。人間にできること、仏教僧にできることは、死と死後を弔うことではなく、「われわれは如何に生きるか」を問いかけることであるに違いない。
葬式(死ぬ儀式)という方便でもってわれわれは生を語りかけられ、問いかけられているのだ。
死を真剣に受け止めることでやっとやっと生が真剣に見つめられることになる。だが、わが死でもってこれをするのではない。引き金は他者の死だ。親しい者の死が遺された者の生を濃密にする。濃密になった生へ働きかけたのは、死だ。死が生を利益(りやく)したのだ。これで功徳(くどく)し廻向(えこう)したのだ。こうして死者は現実に救済の仏陀に化して往く。
「生者が死者を弔う」というがもしかしたらそれは逆なのかもしれない。己の弔いは仮装方便だったのかもしれない。生きている者の生をもっと真剣な、もっと濃密な生に戻そうとするためのパーラミター、自己犠牲という波羅蜜(渡し船)だったのかもしれない。この般若(仏智)を無駄にしてはなるまい。