今夜の夕食はご飯ではなく白餅の丸餅を3個(小さいのを)食べました。搗きたて餅でまだやわらかいので、焼くのも簡単でした。トースターの中ですぐに膨れました。砂糖醤油につけて、摺り大根を乗せて、ぱくぱく食べました。お餅は引っ張ると長~く延びました。大根は青首大根で、畑から掘り上げてきたばかりりのもので、堅くて摺るのに骨が折れました。
赤玉葱の苗100本をみな植え終わりました。昨日夕方には40本くらいまで済んでいました。だから残りの60本ということになります。ところが、猫のやつが、昨日植えたところを掘り返してそこに糞をしていました。植えておいた苗は四方八方へ跳ね飛ばされていました。うんと腹が立ちましたが、そこを抑えに抑えて、やり直しをしました。もう2度と掘り返されないで済むように、その後、水道のホースを引っ張ってきてじゃぶじゃぶになるまで水撒きをしました。こうしておくと猫は湿地を嫌がってそこに糞をすることはないからです。この猫はまだ我が家にいる3匹の猫のうちの1匹です。(家の中に飼っているのではありません。さぶろうは猫嫌いです)赤玉葱はサラダにして食べるとおいしいですね。
1
昨夜は月が明るかった。ほぼ満月のような丸さだった。明るさと丸さが、さぶろうを明るくし丸くし、こころよくしてくれた。今夜は雲が懸かっていてなかなか顔を出してくれない。
2
月は発光体ではない。みずからに光を生み出す力は備わっていない。だから明るさは二次的である。太陽の光を受けてそれを反射しているだけだ。
3
しかし、たしかに明るく見える。太陽の明るさそのものではないが、独特の明るさ、やわらかい安らぎの明るさになっている。
3
「光る光る光る/この世にあるもので/光らないものはない/みずからの力で光らないものは/光を受けて光る」若い頃にそういう内容の詩を読んだことがある。
4
さぶろうは詩から元気をもらった。詩が光を放っていたので、これを受けて、受け止められたのだった。
5
ああ、光を受けるという生き方があったのか、と思った。受けていたらそれでその人も光っている。そういうところがさぶろうを励ました。
6
そういう生き方、そういう光り方をしていてもいいのだった。それで明るくなれるのだった。
7
自分が明るくしていればその明るさが光り出して他を照らすことだってあるはずである。
8
そうしたらそれは、第3次的ではあるが、発光体の真似事をしたことになる。あくまで真似事ではあるが。
9
光が伝わって伝わって行ったことになる。光の意思が伝わって伝わって伝わって行ったことになる。
10
世の中を明るくしようとした最初の意図が尊重されたことになる。ぷつりと消えずに、繋がって繋がって繋がったことになる。
11
自発であってもいいが、それだけでなくともいいことになりはしないか。自らが発した光ではなくともいい。それを受けて伝えて繋げて行く。それも尊重されていいはずである。
12
自発だけがあって、他発がない。となるとこの世は却って混乱をするだろう。ぎらぎら光るものばかりで、その光を正当に評価してくれる存在がないことになりはしないか。
13
他発とはさぶろうの造語である。他の光の発光を受けているもののことである。
14
太陽は太陽系にはただ一箇であっていいのである。われわれはみな他発を生きていればいいのである。それで十分である。
15
いな、それ以外の生き方はなかったのである。
16
どんなにパワフルな生き方をしているように見えてもそれはそのように見えているだけで、すべて他発を生きていたのである。
17
さぶろうはもう結論を言うべきだ。さぶろうの導いた結論はこうである。義経の八艘飛びのようで恐縮だが。
18
自力で生きているものはいないが、それはそれでいいからである。他力がある。これですべてがすんでいたのである。調和と秩序が獲れて完了完結していたのである。
19
他力とはここでは自発の太陽のことだ。自力を見せて満月になったり新月になったりしているが、それはそういうふうに見えているだけで、他力のはたらきによってのみ明るくかがやいているのだった。
20
うううん。最後の結論の導き方がまずかったなあ。ちぐはぐ感があるやもしれぬ。やっぱり強引すぎたかなあ。
1
買っておいた渋柿8個が、時を経ているうちに熟して柔らかくなって「しゅうれん」になっている。
2
「しゅうれん」或いは「しゅうれん柿」、当地ではそれをそう呼んでいる。これに適した柿はとんがり柿。実がたっぷり大きいのが特徴だ。
3
指で押せば薄皮が破けてしまう。ここまで来れば、渋みは消えてしまっているだろう。やがてとろとろして極甘のシロップ状になる。
4
そうすれば炬燵の上に運んで来て、深いお椀に入れて、これをスプーンで掬って食べることになる。
5
お婆さまが物語をしてこどもたちに聞かせる。昔昔はこれが冬の夜のご馳走だった。ケーキもシュークリームも乏しかった頃だ。
6
渋柿の渋が強かったものほど甘くなるんだよ。これはお婆さまの口癖だった。お勉強ができなくてもいいんだよ。みんな地上のものは時がたてばこうなるんだ、自然に。熟していい味になるように造られているんだからね。
7
渋くしているのは鳥避け。甘くなるまで鳥は辛抱強く待つ。そしてその時が来る。すると鳥たちに無償で提供される。
8
お礼に、鳥たちはしっかりとろみのついた種を遠くまで運んで行く。こうやって共存して共栄して共益が得られることになる。
9
なんとも自然界は不思議に満ちているところだ。いやいや人間界もまた案外この法則が当て嵌まるところなのかもしれない。
10
「お勉強ができなくてもいいんだよ」とも「人に後れを取っているようにみえても最後はみな甘く熟して同じ到達点へ来るんだからね」とも語ってくれた。やさしいお婆さまだった。
11
渋柿が甘くなる。甘くなったしゅうれんを実際に食べる。なるほど甘かった。嘘じゃなかった。いまは渋がきつくてもいいのだ。どうにかなるんだ。その体験がどれほどこどもたちを元気づけてくれたことか。
12
いまもそういうお婆さまがいて渋柿のことをそんなふうに説いて語ってくれたら、強い自己信頼を抱けない多くのこどもたちが慰められ励まされ助けられていくことだろう。
早くも城原川に鴨の群れが来て泳いでいる。幾分か深くなった淀を行き来して。ガグガグガグググと低い声で鳴き交わしている。川の縁には水草の茂み、葦の茂み、女竹の茂みがあって天然の砦をなしているので、鴨は安心していられるようだ。日の隈山の日の尺の池は上下3層を成しているが、その第2層目にも夥しい鴨の群れが辿り着いている。いまどきは鴨取り権兵衛もいないので、ここは広々としてしかも至極安全である。ちなみに第3層目の池はカヌー競技の練習場になっていて多くの若者たちが集ってオールを漕いでいる。掛け声も高く挙がっているが、鴨は何食わぬ顔をしているようだ。
ピピピ、そう鳴いている。一羽。寒くて膨れているのか、ずんぐりしている。裸になった梅の木の梢の先に来て、首を曲げてこっちを見ている。冬の鳥だ。ピピピ、とこちらも返してあげたくなる。もうずいぶん長くそうしている。よほどさぶろうが気になるのか、何度もこっちを見ている。それとも寂しいので、誘っているのかもしれない。誘うって? ダンスパーテイーに? だったらダメだ。さぶろうは踊れないから。音楽会だったらお供していいよ。山里は山颪の風が吹いているだけ。殺伐としていつも寂しい。
この5、6年ほど毎年買いに言っているスーパーへ渋柿を買いに行った。働いているのは中年の夫婦と男性従業員1人。合計3人ともすっかり顔馴染みになっている。名前で呼びかけられる。まだ人情が生きている。昔の青果店をちょっと大きくした広さしかない。野菜類のほかに、パンやお菓子、魚も肉も酒類も売られている。客足はない。いつもほとんど。遠くへ行けない老人たちがときおりやって来るほかは。この連休中は店を閉めてあった。
車を止めると、レジ係にいたお兄さん(男性従業員)が両手を高く上げてこれを大袈裟に振って歓迎の挨拶をしてくれた。久しぶりだったからだろう。経営者の奥さんが見えない。どうかされたのだろうか、心配になる。彼女も、行けばいつも名前を呼んでくれる。「やあ、いらっしゃい」の後に。西洋人がするようにこころをこめて。旦那様はどちらかというとぶっきらぼう。客の相手をするのがいかにも面倒だというようにして魚売り場の奥に隠れている。
たまにしか行かない。ちょっと遠いから。でも、そこを通りかかったときには寄ってみる。刺身ワンパックだとか、梨を3個だとかでたいしたものは買わない。買うべきものがないときには缶ビールをケースで買ってくる。店頭に置いてある林檎箱の空き箱をもらってくる。予約もできる。豪華な鉢植えシクラメンでも、クリスマスの翌日には半値になるから、これを頼んでおく。干し柿用の渋柿も、上等のがあったら、市場で求めて来て欲しいと言っておく。すると電話がかかって来る。いつ行っても客がまばらだ。いつ店が閉まるかと思ってしまう。
でも、さぶろうはこの店のファンである。数少ないファンである。近くに大型のショッピングセンターが数軒あって繁盛しているので、客が押し寄せてくることは期待できないが、続いて欲しいと願っている。細々とでも。
店の経営がいよいよ行き詰まってしまって、もしかしたら奥さんは働きに出たのかも知れない。で、旦那さんと従業員の2人だけになってしまったのかもしれない。1週間前にも3日前にも、そして昨日、もう一度行って太刀の魚のパックを買って来たときにも、華やいだ「やあいらっしゃい」の声の奥さんの顔が見えない。さぶろうの名前を呼んでくれる人がいない。
昨日午前10時ほどのこと。珍客があった。南向きのベランダの日差しの中に。ここには真っ白な自転車が立ててあるところ。はじめ犬か猫かと思った。狸だった。ひどく人馴れをしていて逃げて行かない。まるで飼猫そのものだ。ゆったり日向ぼっこをしている。さぶろうは立ち上がってガラス窓をどんどんと叩いた。此方を振り向くけれども、逃げる様子はない。驚いてもいない。カラダの後ろ半分は毛がない。毛がすっかり落ちている。皮膚病になってかぶれている。尻尾が細く長く垂れている。そういえば数年前に裏の畑に出没していたことがあった。その狸だった。夕方かけて猫餌を漁って来るのだった。風呂場からそれが何度も確認できた。やっぱりカラダの後部半分には毛がなかった。何処か近くに穴を掘って住んでいるらしかった。昨年は見なかった。今日は真昼間だ。朝の10時だ。書斎の僕とはわずかに3mしかない。顔を見ると耳を立てた柴犬のようで愛くるしかった。掘り上げたサツマイモが少し残っているので、これを目当てにしたのかも知れない。窓を開けた。異臭がした。やっぱり逃げない。ここを我が家にして居座るかもしれない。捉まえて狸汁にしたいほどうまそうにもしていない。残酷だけど、僕は台所から盥に水を汲んで来て浴びせかけた。「え、僕のこと嫌いなのかい? 僕が見る限りきみたち人間が意地悪をする悪い奴とは思えなかったのになあ」という表情をしながら、狸はとことことこと去って行った。テリトリー侵害なのに、我が家の猫ども3匹がこれを追い立てようとすることもなかった。今朝はやっこさんの姿を見ない。ショッショショジョウジのあの狸、憎めない目をしていたっけ。あれでは人を化かせまい。
ロシアの大地、シベリヤ辺りだろうか、列車で長い長い旅をしていた。ここは夢の中。沼地地帯へさしかかった。大葉蓮が葉を広げている。沼を見ながら進んで行く。列車内は広い。レストランも開設されている。僕も飲んだり食べたりしている。コンピュータールームもある。知った顔の男が調べ物をしている。寝そべってロシアの音楽を聞く音楽室もある。なんでこうもだだっ広いのだ。それなのに、走り抜けていく列車の走る軌道(これがはっきり見えている)は折れ曲がっていて狭い。トンネルの中を出た。窓が一気に明るくなった。草原が広がっている。眩しい。どうしたことか、僕は船のデッキのようなところへ来て、弾いたこともないピアノを弾いていた。もちろん、ロシア民謡だ。チャイコフスキーのバイオリン協奏曲が聞こえて来て僕は弾く手を止めた。ここで目が覚めた。ほう、と思った。ロシアの大地を旅してみたいという願望がまだ生きていたのだった。
連休明けは寒くなるという予報だったが、それほどでもない。今朝の気温16度C。霜も降りていない。これじゃ、野菜に卵を産み付けるシジミチョウや、ばりばりばりばり葉を囓る青虫たちも緊急避難なし。逃げも隠れもしないですみそうだ。