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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

ふるえる林檎さくさく身に染みわたる

2015年11月20日 20時32分08秒 | Weblog

監獄いでてじつと顫へて噛む林檎 林檎さくさく身に染みわたる   北原白秋「桐の花」より

罪状は姦通罪。夫のある俊子と結ばれた25才の白秋はその夫に訴えられて収監される。世間は彼を嘲笑う。せっかくの文人としての彼の評価は地に落ちる。彼は監獄の中で震えていた。監獄を出る時が来ても震えは同じだった。林檎を囓ろうとしても口がふるえて歯が立たなかった。彼はしばらくそうしていた。そして林檎はようやくに舌に乗った。林檎はさくさくと音を立てて染み渡っていった。これからどうしていけばいいのか。まだ彼には何にも分からなかった。白秋は福岡県柳川市の人。さぶろうの住む所から近い。近いからだかどうだか、さぶろうは白秋が好きである。白秋の詩も白秋の短歌も好きである。林檎のようには行かないが、囓ると身に染み渡る。 

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李白は人間(じんかん)に非ざるところに住む

2015年11月20日 19時58分09秒 | Weblog

「山中問答」     李白

問余何意棲碧山
笑而不答心自閑
桃花流水杳然去
別有天地間


余に問ふ 何の意ありてか碧山(へきざん)に棲むと
笑って答えず 心自から閑(かん)なればなり
桃花流水(とうかりゅうすい) 杳然(ようぜん)として去って
別に天地の人間(じんかん)に非(あら)ざる有り

「どうしてまたこんな奥深い山中に住んでいるのか」と問う者がいるが、おれは笑うばかりで答えない。おれさまもしゃあしゃあとしたもんだ。隠者陶淵明の「桃花源記」にある桃源郷よ。桃の林の花びらが川に浮かんでどこまでも流れていくばかりで、この別天地の在処(ありか)は杳として知れない。俗世間とは違う別天地というところは、まことにあるものだ。此処が其処で、此処に住んでいるのがおれさまだ。

李白は奇人である。到底理解しがたい。世間の網では掬い取れようもない。世の中の尺度を逸脱しているから、これは当然だろう。「山中に住む」とは「俗界に住んでいない」という譬喩だろう。人がほとめいて浮かれ住んでいる人間(じんかん)とはまた違った別天地の碧山にしか住めない男、それが李白だ。李白はそういう己をよしとして憚るところがない。こういう男はしかし御しがたいだろうな。

人間(じんかん)とは人間界ほどの意味か。そんな浮世(憂き世?)にはおれは住まないぞ、という彼の気概だが、住まわせてももらえなかったであろう。

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一杯一杯また一杯

2015年11月20日 19時35分11秒 | Weblog

「山中與幽人對酌」   李白

兩人對酌山花開
一杯一杯復一杯
我醉欲眠卿且去
明朝有意抱琴來

両人対酌すれば山花開く
一杯一杯また一杯
我酔うて眠らんと欲す卿(きみ)且(しばら)く去れ
明朝 意あらば琴を抱いて来たれ

山中で気の合った二人が向かい合って酒を呑んでいると、これを褒めて山の花が次々と開いていく。それにつられて一杯一杯また一杯とまたまた酒が進む。おれはこの通りだ。酔った。眠たいぞ。すまんが君はこれで帰ってはくれまいか。そうだなあ、明日の朝、きみ次第だが、気が向いたら琴を抱いて来てほしい。また名曲を弾いてもらってうっとりとしよう。

今日は李白デーだ。さぶろうは李白にぞっこんというところ。山中の白い朴(ほう)は一花一花また一花開いて両人を迎える。と両人は一杯一杯また一杯と酒が進む。この幽人とは誰か。李白と同じ変わり者の世捨て人だろう。世の中の尺度では二人の風狂は測りきれない。

 

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李白は酒の中に風趣を得たり

2015年11月20日 19時02分01秒 | Weblog

李白はいいなあ。李白の詩を飲み出したら止まらない。李白の「月下独酌」の続編より一部を抽出する。

何必求神仙  何ぞ必ずしも神仙を求めんや
三盃通大道  三盃飲めば大道に通じたり
一斗合自然  一斗飲んで(無為)自然に合致したり
但得酒中趣  但(ただ)酒の中に風趣を得るのみ
勿為醒者傳  醒めたる者のためにこれを伝ふること勿れ

「月下独酌」には書かれていないが、こういう背景がある。李白は44才。宮廷に仕えていたがうまく世渡りができようはずがない。彼は孤高の才人だ。孤高が低俗に付いていくはずがない。彼の眼には媚びて世渡りをする多くの奸官が俗物としか映らない。こんな奴と飲むよりは清廉な明月と飲んだ方がどれほどましか。彼は酒宴の席を離れて庭に出て来た。

酒の三盃を飲んだら李白はたちまち化して道教の道士となってしまうわい。一斗を飲もうものなら無為自然の最高の境地に合致して恐れなし。ここまで来ればどうして仙人道の修行が要ろうか。酒の中に無上の真理あり。これは李白にしか分からない。どう説明をしたって醒めている者にはわかるまい。ここから先は教えてあげるものか。彼はとうとう詩の続きも投げ捨ててしまった。

いつものようにこれもさぶろうのいい加減な解釈であるから、真に受けてもらったら困る。それぞれはそれぞれで原作に戻り、熟読して賞味をしてほしい。

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李白は月下にひとり月と酌む

2015年11月20日 16時12分01秒 | Weblog

「月下独酌」 李白

花間一壼酒/獨酌無相親/舉杯邀明月/對影成三人/
月既不解飮/影徒隨我身/暫伴月將影/行樂須及春/
我歌月徘徊/我舞影零亂/醒時同交歡/醉後各分散/

永結無情遊/相期遥雲漢


花間(かかん) 一壷(いっこ)の酒、独り酌(く)んで相(あい)親しむもの無し。
杯(さかずき)を挙げて名月を迎え、影に対して三人と成る。
月既に飲(いん)を解(かい)せず、影徒(いたづらに我が身に随う。
暫(しばら)く月と影とを伴い、行楽(こうらく)須(すべか)らく春に及ぶべし。
我歌えば月徘徊(はいかい)し、我舞えば影零乱(りょうらん)す。
醒(さ)むる時ともに交歓(こうかん)し、酔うて後は各々(おのおの)分散(ぶんさん)す。
永く無情(むじょう)の遊(ゆう)を結び、相期(あいき)す遥かなる雲漢(うんかん)に。

百花の咲き乱れるところ。ここに徳利壺を持ち出したが、生憎と酒を相伴してくれる者が見当たらない。そこで明月を呼んで来て杯の相手を頼んだ。これで3人となった。月と李白と李白の影との3人に。

だが月は下戸だ。酒を飲めない。酒飲みを理解もできない。影ときたらひたすらつき随うばかりで落ち着きがない。まあいいじゃないか。しばらく月と影と一緒にいればそれだけで楽しい。楽しんでいれば春ではないか。

李白が歌えば月は歩きまわり、李白が舞えば李白の影は夢見心地の酔狂を演じてくれる。しらふの時はしらふの楽しみ、この李白が酔ったら最後、ここでそれぞれ分散するが、遙かな銀河の果てにもう一度遇おうじゃないか。月と影は私情を挟まないが、親しい交わりは長く結んでおこう。

酒好き李白は夜も百花に囲まれて酒を飲んで、詩を書いている。詩を書くための酒だ。詩を書くための明月だ。その詩がいい。なにせ鈍感のさぶろうがこれで酩酊するくらいだから。

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玉葱の苗の植え付けが遅れている

2015年11月20日 15時48分44秒 | Weblog

晩生玉葱の苗が100本で580円だった。おとつい、JA上峰店で求めて来た。

ところがいまだに植え付け作業に進んでいない。さぶろうは怠け者である。今日は午前中は早くから客人だった。その後は2時まで草取りをした。腰が痛んでいる。またぞろ延期だ。

しかし、一滴の水も飲ませないでは喉がからからだろう。これから外へ出て、白い毛根に水を含ませてあげようと思う。

これも六波羅蜜。布施波羅蜜の行の一つ。些細なことなのだが、それもこれも仏道の修行になる。

さぶろうは肝心要の人間さまにはやさしさを提供できないタチだ。それを詫びて、その分を植物に施してあげたくなるようだ。

それじゃ不十分に違いないのだけど。

それを詫びてこれを詫びる。やることなすこと、さぶろうはそこを一歩も出ない。

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弟仏陀さま

2015年11月20日 15時23分46秒 | Weblog

弟が彼の宿であった肉体を離れてからそろそろ20日が経過した。宿を出て彼はどこを旅しているのだろう。旅に出れば普通はその地でまた宿を取ることになる。肉体という宿は、宿の方でいつもいっしょをしてくれたから、行く先々で宿を探さねばならないという厄介さはなくてすんでいたが、娑婆世界を抜けた先ではどうだろう。たとえば幽体とか霊体とかいわれているボデイがあって、やっぱり、そのボデイの方がいっしょをしていてくれるのかもしれない。いやいや、もはら非物質になったのだから、そういうボデイとか宿とかいうものとはすっかり縁が切れてしまっているのかもしれない。すういすういすういと自由自在な行動が可能なのだから。千里も万里もあっという間なのだから。横道に逸れてしまった。彼はいま何処を旅しているのだろう。阿弥陀如来の浄土、すなわち極楽にはもう到着しているはずだ。一目散にそこを目指して行った弟である。阿弥陀如来の誓願通りだと言うことが確かめられて、彼は感極まって、2,3日くらいは涙の滝に濡れているかも知れない。が、仏に成った者はいつまでもそれに浸っているばかりではいられない。成仏して数十数百ランクアップした彼は、すぐに我が身の為すべき新たな行動を思いついて、その行動に移っているはずである。しかし、なにしろ初めての体験になるのだから、もう2,3日は戸惑っているかもしれない。することは今度は利他の慈悲行である。己の欲の満足くらいではなくなっている。それこそ大事業だ。如来様のご恩の深さを思いつつ、責任の重さを感じつつ、いずれ渾身の力を込めていることだろう。まあしかし、渾身の力を込めたばかりでは疲れてしまうだろうから、弟仏陀さま、ときおりは兄者のところへお茶のみにでもお出でになりませんか。今日はあなたの好きなサツマイモをふかして待っています。

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読書は双方向性を持っている

2015年11月20日 14時56分31秒 | Weblog

読み終えたら即座に「ああ、おいしかった」と言ってもらえるような文章を書けるならどんなにかよかろう。文章はこころの食事だから、食べたら元気がわき起こるはずだ。元気に突き動かされて来たら、なんだかこう遮二無二飛び跳ねてオリオン座くらいまでも動き回り出したくなるだろう。「おいしい」は「我が意を得たり」ということだ。共感だ。共感ができるというのは、すなわち、読み手にもそれと同種の考えが、それを読む以前に出来上がっているからだろう。それがそれとして知覚ができていなかっただけで、おぼろげにもそれは胎動していたはずである。出口を求めていたときに、そこに、書き手がそれを暗示するような趣旨の文章を書いた、そこで一気に反応して瞬間爆発が起こったのである。読書というのは双方向である。一方通行ではない。一方通行なら、読み進めたところで、案外、理解が難しく、なんだかちんぷんかんぷんで終わる羽目になるだろう。だから、結局は相性がものを言うのである。書き手がおいしい文章を書ける能力をつけただけでは、意は通じていかない。読み手の能力と一致して文章の威力がやっと発揮されるのである。もしかしたら、能力の高い低いにはよらないのかもしれない。境遇が似通っていたり、同種の体験をしてたりすれば、相互に乗り入れて双方とも合流がし易くなるだろう。椰子の実のように南の海を漂っていて、読者の島に流れ着く、そこで発芽して根を下ろすとい事態が起こったりするのであるまいか。

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二時間半ほどの草取り作業

2015年11月20日 14時42分28秒 | Weblog

借りている広い畑には幾種類もの秋野菜が育っている。でも、まわりに草が茂って野菜を覆っているので、さぶろうは今日は草取りをすることにした。育てているのはさぶろうの娘の方である。だが、その娘は仕事が忙しくなって、もう滅多に畑には出てこられなくなった。それで暇のあるさぶろうが草取りをすることにしたのだ。頼まれたわけではない。見るに見かねてだ。簡易の椅子に座りながら、右手で小さな農機具を動かした。一人でもうもくと精を出した。抜いた草は一カ所に集めるようにした。草は見る見るうちに山を作った。気がついたときにはもう午後の2時になっていた。座りっぱなしだったせいか、腰が固まってしまったように重苦しかった。それから、自宅に戻ってきて食事を作って食べた。デザートに、昨日農家の人からいただいた富有柿を剥いて口の中に放り込んだ。しばらくは休憩をすることにした。窓から外を見ると日が翳って来ていた。晴れ間は午前中だけだったようだ。雨が予想された。

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冬の寒さに耐えるエンドウ豆

2015年11月20日 09時58分49秒 | Weblog

エンドウ豆は春の4月5月に実をつける。秋口に種を蒔いて発芽をさせておくが、寒い冬の間は、茎も蔓も伸びない。ちじこまったいるだけである。だったら、あたたかくなってから植え付けたらよさそうなもの。そう言うと野菜作りに詳しい友人は首を振った。「冬の寒さを耐えないと実が甘くならないんだよ」と説明が加わった。これには納得できる。冬場の厳寒が野菜を凍り付かせてしまおうとする。これを防ぐために野菜は知恵を働かせて、凍り付く温度の幅を広げてくる。引き締め策をとって体質改善をするのだ。それには糖分が決め手となる。だから、糖分を高めてこれに備えるのである。すると必然的に、大根も白菜もおしく甘くなるというわけである。

あたたかいのが暮らしやすい。寒さは嫌だ。風雪も嫌だ。凍結も嫌だ。なまあたたかいのがいい。これなら、だらりとしてくらせる。万事ゆったり幸福を味わっていられる。身を引き締めないでいられる。でもその代わり、抗体も生まれない。免疫力もアップしない。生き延びようとする智慧も涌かない。すると植物は結果的には短命で終わる。細々として生きる、しのぎを削って生き抜ける。この高等な植物界の打開策は人間界にも通用できるのかも知れない。  

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