むくつけき無骨者にはまったく不似合いなのだが、ヴァイオリンの名曲を聴くのが好きである。ブラームスを聴いてメンデルスゾーンを聴いてモーツアルトを聴いてベートーヴェンを聴いた。うっとりうっとりしながら。渋柿の皮剥きをしている間中、YouTubeを活用してクラシックに心酔した。不釣り合いが可笑しくてならなかった。だからもちろん音楽のなんたるかが分かっているのではない。聞いても聞いてもいつもズブである。ずぶの素人であり続けているだけだ。誰が指揮棒を振っていてもその違いすらも読み取れない。そういう男がここを泉にして耳を潤しに来るのである。いっぱしの音楽愛好家を気取ったようにして。
お昼から始めてやっと今し方終了した。干し柿作りが終了した。台所の床にぺたんと座りこんで、およそ100個の渋柿を包丁で丁寧に皮剥きした。虫食いがない上等上質の材料だった。皮剥きがすむと今度はロープに小さな紐で8個ずつ結び付ける作業に移った。これを二階のベランダに何度も行き来して運び上げ、よっこらどっこいと掛け声を掛けながら、スレート葺きの天井の下に横向きに列べた竹竿に吊した。ここまでにおおよそ5時間が費やされている。さぶろうは珍しく根気強かった。ひょいと見上げると東の空に満月が輝いていた。はっと息を呑むほどの白さであった。
万徳円満 釈迦如来 真言宗経典「舎利礼文」より
万の徳の円満したまふ如来さま 釈迦如来さま
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一の徳すら不円満のさぶろうが、万の徳を円満せしめたまふ如来さまをお慕いするのは無理もない。ああ、よかったよかったと思う。さぶろうが、よしんば、如来さまのように万の徳を円満したところで、身が持たないだろう。総崩れを起こしてしまうのがおちだろう。釈迦如来さまがさぶろうを尊重して一人で万の徳を円満して、万徳の円満する毘盧遮那宇宙界をお見せになる。さぶろうはこれを褒めているだけでいい。
「まんとくえんまんしゃかにょらい まんとくえんまんしゃかにょらい」と平仮名で何度も何度も称えてこの理をおのれに言い聞かせて安んじる。一の徳すら不円満のさぶろうが、これでこの場をすっかり救われている。
万徳の徳は功徳の徳。その反対は無功徳。なんにもならぬということ。有功徳は、だから、すべてが有用だということ。有用ばかりが何でも揃っているということ。この世界の働きが働きに働いているということ。完備されているということ。不足も不満もないということ。パーフェクトだということ。これが万徳円満ということか。さぶろうに考えられるのはそういうところまでだ。
空が青い。空が青い。青い空に日が射していて明るい。これが黒い空だったらこうはいかない。空が青い空をして広がっている。これを見ている。深い息をして安らいでいる。これもさぶろう。さっきの無気力の男もさぶろう。ふたりの落差がおかしい。ぷっと笑ってしまう。
今日は何処へ行こうか。行く当てがない。行きたいところがない。行けばこころが踊るという見込みが立たない。何処にも行かず此処にいたって、それが変わるわけではない。終日こころは踊らない。フラメンコも踊らない。フラダンスも踊らない。可哀想にわがこころは、こうしてついに陰気なままだ。誰かに会えばそうなるかもしれないが、その誰かも思いつかない。遇ったらたちどころにこころが湯を沸かして全身があたたまるという見込みも立たない。相手をあたためるという義侠心も湧いてこない。だらしない男だ、さぶろうという男は。裸木を吹いて通る里風を眺めているきりだ。
深紅のストックが咲き誇って美しい。鉢植えにして濡れ縁に置いている。花は6輪。すっと立つ立ち姿がいい。庭の一隅には侘び助ふうの茶花が見える。これはピンク。ほんのりしている。夏場に枝を刈り込んでおいたので、全体がすっきりしている。寒い冬に咲く花は少ない。愛玩してよくよく賞でるとしよう。
なるほど、気象庁発表には嘘はなかった。冷え込んできた。朝6時半のいつものラジオ体操をしても温もらなかった。いつもはうっすら汗を帯びるのに、それもなかった。わが寝室に戻ってきてまだあたたかくしている布団に潜り込んでしまった。するうちに目が閉じて贅沢に朝寝となった。1時間もそうしていた。冬場は怠け者をさらに怠けさせる。
日が射してきた。日が恋しい。風は庭に吹き込んでいてアスパラガスの痩せた叢林が竹の林のように靡いている。さぶろうはまだ外へは出て行かない。やはり寒そうだから。これからはもう農作業も疎んじることになるだろう。風を切るサイクリングも億劫だ。こうやって引き籠もるようになると、老人のわずかな楽しみもいよいよわずかになってしまうだろう。
今日は贔屓のスーパーへ渋柿を買いに行くことになっている。予約をしておいたからだ。これまで冷え込みがなかったために干し柿が黴びて腐ってしまったので、やり直しだ。だが、もう絶対量が乏しくなって値段も張るらしい。お正月に、わが手作りが食べられるようにしておきたいものだが。買って来たらさっそく皮剥きを始めるとしよう。これを竹竿に吊すのがまた一苦労だ。
ラジオ深夜便を聞いた。小説家が登場していた。彼はある夜いきなり小説を書き出して、それが新人賞を取りデビュー作となった、という夢のような話だった。博士号論文を書き上げるのに飽きて。それを逃れるようにして。何の前準備もなく。そしてそれがすらすらと書き上がったらしい。くろよんダムのような知識の貯水量があったのだろう。さぶろうは最後まで聞かないうちに眠ってしまっていた。ラジオだけがひとり起きて語り続けていた。途中何度かうつらうつらして耳が聞いていたが頭は理解を手伝わなかった。
青蛙さんが利益衆生をしてござる。衆生済度をしてござる。キャベツ畑のキャベツの青い葉っぱに鎮座して。人を待って、やあやあの掛け声をするのが彼の仕事。で、さぶろうはやあやあの声を聞いてほっとする。あなたさまも旅をしておいででしたね。わたくしめもそうでございます。こちらからあちらへの長い旅の途中。あなたさまにお会いできて寂しさが柔らぎました。二人はどちらからともなく、そう語り合う。旅はつれづれで、世は情けである。ここにいることがそのままで衆生済度、利益衆生。畑に青蛙さんがいてくれた。
昼間。畑に続く小道。お相撲取さんのように太いカマキリさんが通せんぼをなさる。体はまだ青い。大股をしてこの関所を通させてもらう。股の下から、威張張り屋さんの鉞のような斧が降って来る。寒いこの季節。これからどうやって過ごすのやら。巣籠りの巣はできたやら。珍客にこのところよく出会う。
さぞや寒かろう。闇を歩くのはお辛いであろう。玄関には明かりが自動でつくがそこまでの小道が長いから。起きている部屋から灯りが洩れているから、少しはほっとされるかもしれない。