そういうものは我にはないか。あれかし。あらまほし。絶え間なく噴き上ぐる文学あれかし。あらまほし。海底の水圧を割って絶え間なく噴き上ぐる我が文学あれかし。あらまほし。地下深くにマグマ有り。熱きマグマ有り。我が命は星なり。文学のジュピターなり。
うさぎ追いしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今も巡りて 忘れがたきふるさと
おなじみの「ふるさと」の曲の歌詞である。兎を追ったことがなくてもしみじみとなる。小鮒を釣ったことがなくとも。忘れたくない場所がなくてはならないのだ、人は多く。いつも夢が帰って行く場所がなくてはならないのだ。というわけで、なにかとこの歌を共有する。
みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞただにいそげる 斎藤茂吉 「死にたまふ母」より
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切ないですね。急いで急いで急いでいる。それでも遠い。待っていてくださいよ、待っていて下さいよ。わたしを見るまでは死なないでいて下さいよ。わたしをよおく見てからにして下さい。祈って祈っている。老いた母のいのちがどうしてそれほどに人を動かしているか。一目見たいのは恋しい女の人のはず。
このごろ夢見る夢がいい。ことごとくとってもいい。夢の脚本家が新しくなったかのも知れない。昨夜の夢も、おおよそ支離滅裂だったけど、全篇が仄かにあたたかかった。童話の世界だった。鼠レースに鼠として登場していた。最後で勝利した。鼠を追っているのもさぶろうのようだった。ヒヨコのレースが後に続いた。ヒヨコがレース中に人の家に上がり込んでしまって、それをレースに戻すのに苦労した。それからはじめて弟が兄のさぶろうの夢に顔を出した。悪役ではなかった。教室のようなところで後ろから兄に寄り添っていた。そこで目が覚めた。この頃の夢はどれもこれもふっくらして風船のようにふくらんでいる。どうしたことだろう。何があったのだろう。
「囲炉裏火はとろとろ、外は吹雪」の季節がやって来た。ハミングをする。囲炉裏はもう切ってない。薪も炭火も燃えてはいない。灰がとろとろになってもいない。けれども、この歌を口ずさむとあたたかくなる。全身の骨がとろとろになってくる。
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「冬の夜」 文部省唱歌
1番
燈火ちかく衣縫ふ母は/ 春の遊びの楽しさ語る/居並ぶ子どもは指を折りつつ/日数かぞへて喜び勇む/囲炉裏火はとろとろ/ 外は吹雪
(長四角の囲炉裏がたしかにあった。炭火をたすのは子供の役目だった。お母さんが破けた服を縫って修理してくれた。これは懐かしい。ああ、愛されていたんだなと思える。春の遊びは外でする遊びだった。芹を摘みに小川へ行ったし、遠足へ行っておにぎりも食べた)
2番
囲炉裏の端に繩なふ父は/ 過ぎしいくさの手柄を語る/居並ぶ子供は ねむさを忘れて/ 耳を傾け こぶしを握る/囲炉裏火はとろとろ/ 外は吹雪
(父は騎馬兵だったから、馬の話をよくしてくれた。戦地での手柄話はついぞ聞かなかった。手柄なんか立てなかったのかもしれない。よかったと思う。父の自転車の荷台に乗って蓮の実を取りに行ったことがなつかしい。逞しい父の背中の匂いを嗅いでいた)
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ああ、冬の夜が来ている。さぶろうはもう70才。とっくにこどもではなくなっている。というのに、この歌をくちずさむとまだほんの子供だ。そこに囲炉裏火はとろとろ燃えて、外は吹雪している。
1
栄華物語には、刀利天女の快楽を受けた男の物語があるらしい。ここでは「快楽不退」らしい。永く永く持続して衰えないらしい。人間界のそれは「カイラク」だが、刀利天ではそれは「ケラク」となるらしいから、快楽不退も「ケラクフタイ」となる。将棋では歩が裏返ったらたちまち金になる。
2
六欲天の天界第5番目に化楽天(けらくてん)がある。ここに生まれた者は化楽の能力を身につける。すなわちあらゆるものを楽しみに化してしまう能力である。だから化(か)して化(ばか)して8000年才を保つ。楽変化天(らくへんげてん)とも化自楽天(けじらくてん)、化自在天(けじざいてん)とも言う。化は化けるとも化かすとも読む。とにかく何でもいいのだ。なんでも楽しみに変化させてしまうのだから。
3
話が逸れるが化け物はお化けが上手だ。戯(おど)けがうまい。道化(どうけ)者なのだ。しかしどっこい、それをもこれをも楽しんでいる楽しみの名手なのだ。右にも左にも上にも下にも活動活躍の幅が広い彼は、ある日は大化けをして毘盧遮那如来をして遊んでいるかもしれないぞ。
4
『仏説無量寿経』には「すでに我が国に到(いた)りて、快楽安穏(けらくあんのん)ならん」とある。「我が国」とは阿弥陀仏の国、極楽浄土である。ここまで来れば、見るもの聞くものを快くしていられるのだ、すべてを楽しんでいられるのだ、こころ安けく穏やかにしていられるのだ。
5
そこまで行かねば、快楽も安穏も手に入らないのか。それとも別種なのか。此処に居てその上等上質の快楽を味わってみたいという気にもなる。
6
その楽しみが残してあるというのか。なんでも生きている内に手中に収めてみたいけれども、先の先の楽しみも残してもおきたい。
7
オセロゲームのように黒の石がたちまちのうちに裏返って白になるというのも快感の一つである。仏教ではこれを「転(てん)」といってある。転回の転である。ぐるりと回ると同じ物がまったく反対のものになっている。ひっくり返すといった方がいいのかもしれない。
8
快楽は白の面。では黒の面とは何か。
9
この世にいる間の快楽は黒面で、次の世、つかり仏界に到達すればこれが引っ繰り返って快楽(けらく)の白面になるのかもしれない。
10
そうして、われわれは「なあんだ、それだったら初めから我が所有物だったじゃないか」とそこで臍を噛むのかもしれない。
11
何処にその差があるのか。自利に使ったら快楽の黒。利他に使ったら快楽(けらく)の白なのかもしれない。
12
決め手はわたしひとりのためにわたしを安穏にしないことかもしれない。わたしの安穏のためには快楽しないことかもしれない。だったら、いま生きているさぶろうにはここにはとうてい手が届かない。
けらくあんのん
1
音楽は音の楽しみと書いてある。だが、音のみが楽しみを与えているわけではない。他にもいろいろ与えられている。
2
赤い山が与えている赤山楽。抜けるような青空が与えている青空楽。彩りを添える雲海が与えている雲海楽。雲の間を悠然と飛び回る鳥が与えている飛鳥楽。満ちている月が与えている満月楽。欠け始めた三日月が与えている浪漫の三日月楽。
3
舞を舞うのが舞楽。スポーツをして汗を掻くのがスポーツ楽。働いてこころを満たすのが働き楽。家族が食べる食事を料理するのが料理楽。
4
ことばを放って相手を無上界に誘うのがことば楽。触れて自他ともにクライマックスに達するのが触楽。
5
それぞれの無数の楽しみと付き合っているだけで飽かない。飽かないで生き抜いていけるようにさまざまにさまざまに。浅く深く広く狭く。淡泊に濃密に。素っ気なく厚ぼったく。細かく太く。
6
そのどれもがもともと与えられているものである。どうぞどうぞご自由にお使い下さいなのである。仲買人がときどきお金を請求してくるが、ほんとうのところではお代は求められていない。
7
施しは嫌だという人も中にはいる。手作りでなければ気に入らないという人もいる。しかし、そうそう肩肘を張らないでもいいかもしれない。工夫は必要だが、その材料となるものは畢竟やはり与えられているものなのである。
8
昨日はまる一日と言っていいくらい音楽をして暮らした。YouTubeで大好きなヴァイオリンの名曲を聴いて過ごした。腹一杯になった。ジュリア・フィッシャー、ヒラリー・ハーン、ジャニー・ジャンセンの音を極めた名演奏にうっとりした。
9
腹一杯になったけれどもそれで即人品が豊かになったとは言いがたい。腹が減ったらもう音楽は詰まっていないで空になる。たかだかそれくらいの音の楽しみなのである。浅いといえばこれくらい浅いものもない。
10
これでいい。空になったからまた聴ける。聴く楽しみがまた得られる。
11
楽器はヴァイオリンだけではない。これを聴く耳もまた楽器である。耳だけには留まらない。歌う口も喉も楽器である。
12
楽しませる器がその機能を発揮してどんなに楽しませようとしていてもこれを楽しむ器が閉じていたら努力は水の泡になる。
13
風景を見る目も楽器である。それで楽しんでいるからである。楽しませようとしている風景の意思をキャッチして目がこれをたっぷりと楽しむなら、相思相愛となる。
14
楽しんでいるものが楽器と言えるならわれわれは数限りない楽器を備えていることになるが、其の中には一度も活用をしたことがなくてすでに錆びてしまっているものもあるのかもしれない。
15
だとしたら惜しい話だ。(なんだ、これが結論だったのか)
日曜日。降ってはいないようだけど。寒さは和らいでいる。さて、人間はそもどれほどの快楽を快楽して死ぬのであろう。不可量不可数。無限種類で無限大で無限回数。これに一々、浅い深いがある。低い高いがある。混じりっけなし、ありがある。一人でできるものできないもの。他者を利するものか、己のみを利するものかの違いもある。何を快楽しているかが人の生きざまを分けている。そんなことが楽しいのかというほどの微かな楽しみというのもある。透明な無色のもある。それぞれ結構楽しめるものらしい。欲深い者の方がそれだけ深く快楽を極めているとも言えない。そこがまた面白い。