<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

捨てられなかった小蕪

2015年11月16日 17時44分45秒 | Weblog

プランター栽培の小蕪が順調な成長をしないので、抜いてしまうことにした。そして別の新しい種を蒔き付けることにした。5時前で畑の農作業は中止。もう手元が暗くて見えない。ベランダには明かりが付くのでここでその後は小蕪を洗う作業に移った。葉っぱと長い尻尾の鬚根を切り落として、まん丸の実だけにする。一口サイズだ。今夜はこれを電子レンジで短時間でチンして、マヨネーズで頂く。けっこうな酒の肴に成る。みなさんがこれを見たら、可笑しくて噴き出すだろう。こんなミニサイズまで食べるのか、と揶揄するだろう。それには甘んじよう。要するに、出来損ないのミニサイズであっても、捨てきれないのだ。育てたものには愛着がかかっているのだった。でも、捨てられなかった小蕪はきっとよろこんでくれるだろう。

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おやまあおやまあおやまあ

2015年11月16日 13時35分58秒 | Weblog

おやまあおやまあおやまあ。真っ赤な高級車が着いた。スポーツ車だぞ。お客人だ。おお。レデイの声がする。さぶろうの客人ではなさそうだ。家内が応対している。若い女性の声というだけで我が家が華やかな都会になった。滅多に滅多にないことだから。こんな田舎に何の用事なんだろう。ビジネスかな? スポーツ車でビジネスもないだろう。どきどきどきどき。レデイがぺこりと頭を下げた。帽子を脱いだら、おばさんだった。遠い遠い親類の。相変わらず着飾って華やかに暮らしているんだな。着飾って華やかにして過ごすのはちっとも悪いことではないけれど。もう、どきどきもしなくなった。家内がお野菜をお分けしている。

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ビッキイはまだ冬籠もりしないのか

2015年11月16日 13時20分18秒 | Weblog

湿度が高いのか、汗ばんでしまった。外に出てお昼間でプランター栽培の白菜の、間引きをして過ごした。いつものように風呂桶に腰掛けて。まだ幼いけど、たくさんになってしまって、長方形のコンテナいっぱいになった。鍋物にでもしていただけばおいしそうな。昨日間引いた白菜は、一人でお過ごしの近所の方に届けて行った。90才を過ぎておられるがお元気で、ご自分で食事も作っておられるようだ。なんだか空が怪しくなってきた。そろそろ降り出してきそうだ。サイクリングは、どうやら、できそうもないな。途中で本降りにでもなったら、風邪を引いてしまう。げっげっげっげの声がする。ビッキイ(蛙)だ。まだ冬籠もりをしなくてもいいのかな。土竜もいまだ元気そのもの。畑の土の下に潜ってトンネルを掘り、野菜を根株から持ち上げ、縦横無尽に荒らしている。腹が立っても来るが、ここで生きて暮らしているのはわれら人間だけじゃないものなあ。

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朗らかにして曜(かがや)いていれば

2015年11月16日 10時46分58秒 | Weblog

しょうもないことばかりを書いているから、とてもとても人さまを娯楽させるには不適当不適格だ、このさぶろうのブログは。読み返してみて、「なんだこれは」「つまらない」と舌打ちが出る。

でも、今日はいいことを記すことができた。「威曜朗十方」を記せたのだ。もちろんこれは借り物。仏さまのことが書いている経典からの借り物。でもここに行き着いたことだけでも価値がある。

仏さまの威光が曜(かがや)き出して生きとし生ける者の十方世界が朗らかになった。それを聞いてそれを想像しているだけでさぶろうはいい気持ちなのだ。まるでここがたちまちそうなったかのように錯覚を覚えてしまうのだ。

錯覚だが、そうじゃないかもしれない。なにしろ仏さまが発せられたことばなのだ。嘘偽りはない。それで安心安堵を覚えて、くつろぐ。仏典が示した世界が非現実なのか、現実世界としているこのわれわれの世界こそが夢幻の非現実なのか。

ここをそこにしてしまう。ここを阿弥陀仏の威光が曜(かがや)き出している十方世界の一世界として、ここに居座ってしまう。ここはそんなところではありませんよとアナウンスが流れて来たところで聞き耳を持たない。朗らかにして曜(かがや)いていれば、ここは如来の威光照曜の世界に間違いはないからである。

石蕗の黄金が庭に咲いている。ここにさんさんと光が降っている。燦々と燦々と。これでも朗らかになれないか。なれそうな気もしてくる。

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高菜漬けとターサイの味噌汁

2015年11月16日 10時34分09秒 | Weblog

新高菜の一夜漬けがおいしい。細かく切って刻んでこれに鰹節を一袋全部投入して掻き混ぜ、醤油を垂らす。湯気の出ている炊きたての白ご飯にのせる。湯気に雑じって高菜の青菜の匂いが立ちこめる。匂いだけでも元気になりそうだ。さぶろうは鼻が低い。低いけれども性能が抜群いい。よく嗅ぎ分ける警察犬のようだ。くんくん、くんくん。鼻のきいた犬になる。これで刺激されるから、よくよく動物的である。食欲が湧いて腹が鳴って結局は一皿みんな平らげてしまった。味噌汁は畑で獲れた南瓜とターサイの間引き菜だった。真緑色のターサイの幼い茎と葉の緑色が、ますますその緑色を深く濃くしていた。

ターサイは中国菜。成長するとお正月の飾りにする花甘藍に似て平たく横にたわわに広がっている。

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「十方世界が朗らかになった」という瞑想を試みる

2015年11月16日 10時11分53秒 | Weblog

功祚成満足 威曜朗十方      浄土真宗経典「重誓偈」より

こうそじょうまんぞく いようろうじっぽう

功祚は成って満ちて足り、威は曜(かがや)きて十方を朗らかにす。 (さぶろう用の読み方)

仏としての覚りの段階に達し得てその完成に満ち足りただけではなく、威力威光がすぐさまに輝きだして生きとし生ける者の暮らす十方世界が朗らかとなった。

功祚(こうそ):覚りの位に達したこととその成果。

この「重誓偈」の主人公は後に阿弥陀仏と成られた方、法蔵菩薩である。だから、十方世界を朗らかにされたのは法蔵菩薩である。功が成って仏の位に達せられたのであるから阿弥陀仏とした方がいいかもしれない。

今日のさぶろうはこの中の句「威曜朗十方」を瞑想していい気持ちになっている。仏の威光がかがやきだして十方世界を朗らかにした、この風景を読み取る瞑想である。瞑想し得ているわけではない。しようとしてその端緒にいるだけで、いい気持ちがするのである。すると現実のこの世の中の苦しみ痛み悲しみを忘れていられるのである。逃げを打っているだけかもしれない。イマジネーションの世界はイマジネーションだけで終わりとしないはずである。大概の場合、その世界はやがて遠からず現実化してくるはずである。

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豊かな国にも貧しい国にも双方不満がある

2015年11月16日 09時33分29秒 | Weblog

パリへは2度行った。30才のころと45才のころと。初めは一人で。後は友人と二人で。一人で行った折にはパリの地下鉄に乗って迷い子になってしまった。英語が通じない。困った。フランス人はフランス語を誇りにしていて容易に英語を話してくれない。電車の中で異様な身なりの集団に取り囲まれそうになった。ドーバー海峡を渡ってイギリスに戻ったときに英語を聞いた。お風呂に落とした牛乳のように安心が広がったことを覚えている。2度目はフランス新幹線に乗った。前の席にカップルが座っていて始めから終わりまで大袈裟なキスと愛撫をしていて、面食らった。国民性の違いとは言え、いっこうに恥らいがなかった。セーヌ川沿いで絵描きさんが列んだようにして絵を描いていた。夜、モンマントル(?)の丘へ行って音楽を聞いたけれども、もう何にも思い出せない。

今度の事件でパリは厳戒態勢が敷かれていて観光客の姿がまばらになったと新聞が報じていた。此に続くシリア難民受け入れの是非がまたぞろ火種にならないといいが。イスラム教徒のみんなが、今回の事件の当事者と名乗り出たISの主義主張を持っているわけでは絶対にないのだが。不安が不安を呼んでくるかもしれない。限りなく貧しい国と限りなく豊かな国。双方に不満があって、正義の名の下に追い詰め、追い詰められていく。豊かな国がする戦争と貧しい国がする戦争の、戦争の仕方も同じではない。大量殺戮の戦闘機が買える国と買えない国。非常手段に頼らざるを得ない国。事情がさまざまだ。こころ豊かな人でいられる場合といられない場合とがある。平和を愛して止まないのに平和が訪れてこないときに、双方がこころ豊かでいるということは至難のはずだ。

 

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真空風船玉

2015年11月16日 09時18分59秒 | Weblog

へえ。こんなことをして一日が暮れていくんであります。お目出度い男であります、さぶろうという唐変木は。他愛もないことばっかしをやってひとり戯れています。他への影響なし。影響力ゼロのさぶろう。こいつはぽっかりした風船玉の真空の中にいるんじゃないか。このイマジネイションの中に居て、座って、くるくる回っている。真空風船玉、ここがよほど気に入っているらしい。

そこへいきなり珠子が姿を現してくる。さぶろうがストンと飛び上がる。珠子にはオニオンスープの匂いがする。なあんだ、朝食にこれを吸ってきたんだな。くんくんと鼻を近づけるので、珠子がこれを嫌がって遠くなる。おしまいには消えてしまう。今朝の珠子は一段きれいだった。背中にふんわり天使の翼。いつのまにか、珠子は宗旨替えをしたらしい。や。おっぱいが透けて見えた。

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スーパーマン願望

2015年11月16日 08時58分42秒 | Weblog

お天気がイマイチ冴えない。煙突から出た煤煙のようにしている灰色雲。届かない光。蕭々とした空気。こうしたものが頭上に覆い被さって重たい。そこへシュッと息を吹きかけるだけでからからからりと晴れ渡ってくれたりはしないだろうか。するような気もする。もししえたなら、さぶろうは「神力演大光(神力が大光を演ぶ 神通力がとたんに発揮されて来てバシバシバシっと大光明が放たれてくる)」級、スーパーマンだ。スーパーマンになれるか、さぶろう。さぶろうにはこの願望がある。やってみたいな。でもこの高齢で? そりゃ、無理だよ。そうかなあ。無理かなあ。シュッシュッと息を空へ吹きかけてみる。愛すべき児戯を実行する男さぶろう。息は空へは届かない。なにしろ相手は広い広い天空だ。でも、いつかはこれができそうな気がする。そのときは、さぶろうは仏陀に成っているはずだ。天空と同じくらいの身の丈を持つ仏陀に成っているはずだ。この仏陀には利他救済・大悲のエネルギーが充満していてパンパンに膨れあがって、西の空も東の空も南の空も北の空も仏陀以外にはもうなんにも見えていない。そしてたちまち眩いばかりの光が差し込んでくることになる。夢のような話だ。夢のようなさぶろうだ。

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愛と憎しみの双方を超えて行く道はないか

2015年11月16日 07時52分49秒 | Weblog

開彼智慧眼 滅此昏盲闇 閉塞諸悪道 通達善趣門      浄土真宗経典「重誓偈」より

かいひちえげん めっしこんもうあん へいそくしょあくどう つうだつぜんしゅうもん

彼の(世界の)智慧の眼を開かせて、此の(世界の)昏盲の闇を滅せしめん。諸々の悪道を閉塞して、善趣の門に通達せしめん。

わたし(法蔵菩薩)は人々に仏の世界の智慧の眼を開かせて、此の現実界の昏(混迷)と盲(無知無明)の闇をなくしてあげたい。手を染めている悪道から身を引かせて、することなすことが善趣となるところへと導いて行ってあげたい。   (さぶろう用の訳)

ときあたかもフランスでは無差別襲撃による被害者が血に染まって倒れている。ここは人類の迷路だ。愛し合うことができるはずの人間が殺し合いをして解決を図ろうとしている。憎しみで解決されたためしがないのに。まさに昏であり、まさに盲であり、まさに闇である。人類が悪道から身を引くことができるのはいつになるのか。どうやったら善趣の門に通達して行けるのか。仏教の答は「開彼智慧眼」である。混迷と無明に沈む人間の知恵に頼ることではない。愛と憎しみの双方を超えていく智慧が待ち望まれる。

 

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