<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

明るい一日をいただけました 感謝します

2015年11月05日 21時06分57秒 | Weblog

さあ、9時を過ぎました。もうやすみます。明るい一日をいただけました。感謝します。

今日のさぶろうは法華経をひもどいて、わたしが仏さまの変化身(へんげしん)であるということ、わたしをこの世に遣わしたのはほとけさまであったということ、これを明らかにしてもらえました。有り難い一日に成りました。感謝します。

川土手では野菊の花とヒメジョンの白い花を見せていただけました。清らかで美しい花に出会えました。秋のおだやかな光が野道の花々にもわたしにも降っておりました。感謝します。

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人は仏に遣わされた変化身であって収斂すれば仏そのものである

2015年11月05日 20時05分41秒 | Weblog

若し人が憎悪のこもった刀や杖、瓦石(がしゃく)を加えんとすれば、則ち変化(へんげ)の人を遣わして、之が為に衛護(えご)を作(な)さん    妙法蓮華経より

もしも人が憎しみのこもった刀を振り下ろしたり、杖で打とうとしたり、瓦や石ころを投げようとしたりすれば、わたし(=釈迦牟尼仏)はすぐさま仏の使いを遣わして仮に人の姿をとらせ、仏道を歩むこの人のためにぴったり付き添って守らせよう。

人は変化(へんげ)の人である。仮に人の姿をとった仏の使いである。われわれは互い互いに変化(へんげ)して仏の使いをしている。相手が仏道を歩むことができるように、相手に寄り添って衛(まも)る役目を負っている。これはお釈迦様のご意思である。だからわれわれはここで仏道の修行をすることができるのであるし、そうしている。相手を衛ること、相手に寄り添うことがすなわち仏道の修行でもあるのだ。我々は恒に、一生涯、変化(へんげ)の人(=仏が変化した姿)である。仏に遣わされた身である。われわれはここで仮に人の姿を取っているが、その真相は仏の意思であり、仏そのものである。

変化身(へんげしん)とは芝居の役者のようなものである。人を演じてはいるが、お釈迦様の分身であって、仏の意思そのものである。法華経がそう教えている。役目を終えて収斂すれば、すなわちこの世を後にするときには、われわれはもとの仏におさまっていくのである。嬉しいではないか。生涯、仏の意思を演じているというのは。

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渋柿の柿渋は粘着する

2015年11月05日 19時52分50秒 | Weblog

手の平や指のまわりに渋柿の渋が付着して、洗っても猶取り去れず、乾いて糊状になってぴんと張り付いています。干し柿作りをしました。皮剥きが苦になりません。むしろ、楽しいのです。なにしろ上手に剥くことができます。早くはありません。丁寧です。剥き終わったら紐に結んで、これをベランダの竹の竿に吊します。11月、12月が最盛期です。1階と2階のベランダの天井下に渡した竹竿にずらりと列びます。冷え込みがきつくないと黴が生えてしまいます。少し時期尚早のきらいがありそうです。

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川土手の野菊の花

2015年11月05日 19時40分08秒 | Weblog

サイクリングに行って来ました。5時を過ぎてから。城原川の川土手を南下してJR長崎本線の鉄橋まで。片道3・6キロ。往復7・2キロ。ペダルをゆっくり漕いでいたのに、汗を掻きました。川土手に咲いている野菊(嫁菜)が今日はなぜかよく目に付きました。白いヒメジョンも。散歩中のご夫婦や犬の散歩をさせておられるご婦人、ジョギング中の若者たちに「こんにちは」の挨拶をして通り過ぎました。帰り着いたと同時に日が暮れました。

 

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有償と無償

2015年11月05日 14時19分00秒 | Weblog

三輪が清浄であってはじめて布施が成立する。三輪とは、布施をした者、された者、そして布施の中身だ。これがすべてさらりとして清浄でなければならない。布施をした者は布施をしたことにこだわってはいけない。布施をされた者は布施をされたことにこだわってはならない。布施の中身が相互をこだわらせるものであってはいけない。水が流れていくようにさらりとしたものでなければならない。

空気も水も光もこれを見事にクリヤーしているから、布施の達人である。つねに無償である。償いを求めてこない。すぐに償いを要求してくるわれわれのようなものだったら、われわれは利用を諦めざるを得なかっただろう。有り難いことに、自然界のものは無償である。澄み切った空が澄み切った空を見せたからといって、観覧賃を要求したことはない。山が紅葉したからといって入園料を請求したこともない。海が魚を提供する代わりに代金を求めたこともない。

これほどの無償の中に生かされていながら、われわれはひとり飽くことなく有償にこだわっている。おれがあいつにこれだけのことをしてやったのに、あいつはおれにそれを返してこない。不服をいい不平を申し立てて、我慢がならないとしている。結局のところ、布施をしたことで腹を立てている。

仏陀がわれわれを救済しているけれども、救済が完了してもその後はさらりとしたものである。とことん無報酬でとことん無償である。

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芋掘り体験

2015年11月05日 13時55分09秒 | Weblog

弟の奥さんと長男さんと娘さんとその娘さんが4人でやって来た。弟の仏壇用の遺影写真を我が家の仏壇にひととき飾るために。話が済んでそれからお孫さん(2才半)に芋掘り体験をしてもらった。畝の2列でサツマイモがたくさん収獲できた。お孫さんがきゃあきゃあとはしゃいだ。芋と各種の野菜を持ち帰ってもらった。今週末には娘さんが東京に戻る。長男は今日で特別休暇を返上して北九州に戻り仕事に復帰する。弟の遺族はとたんに寂しくなりそうだ。奥さんと奥さんの母親と次男坊が残る。次男坊も仕事に復帰する。平常に戻ってもしばらくが辛いだろう。フカネギが弟の好物だったのでこれも掘り上げた。鍋物なぞの料理をして弟にも食べてもらうことにした。

 

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おろおろおろおろ

2015年11月05日 10時02分31秒 | Weblog

便秘してしまった。出るべきものが出ない。うんうん唸るけれども。甲斐なし。冷たいものがよかろうと言うので、冷蔵庫のヨーグルトを飲んでみる。(似たようなものだろうが、牛乳はまるでだめ)下腹は張ってその気だ。痛みもある。便座に座る。トイレ読書は進むが出るべきが出ない。さぶろうはおろおろおろおろ。お天気はいいのに、これじゃ何処へも行けないぞ。

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こうしてほしいが要らなかった

2015年11月05日 09時44分10秒 | Weblog

こうしてほしいが要らなかった。こうなっていた。こうしてほしいを聞かさないでも、鼻先に息を吸う空気が届けられていた。こうしてほしいを叫ばなかったのに、大空が澄み渡っていた。こうしてほしいが無用だった。わたしがここに仏の子になって生まれていた。こうしてほしいとねだらないですべてが正しく美しく働いていた。大いなる慈悲と智慧のただ中で死なされて、また新しく生まれて往くのだった。

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われわれは宇宙の働きと一つであって二つはない

2015年11月05日 09時27分08秒 | Weblog

法(ダンマ 宇宙の働き)と一つでありながら、それを疑って迷っている。ふさぎこんでいる。法そのものでありながら、別れて自己をこしらえ、これに執着して、法の大海に溺れている。さぶろう、いい加減にしたらどうだ。さぶろうがどうしようとも、ここは安心の法、法の大海だから、沈んで浮かばないことはないのだけれど。

われわれは宇宙の働きと一つであって二つがない。どれだけ疑おうとも、どれだけ迷おうとも、どれだけ戦き恐れようとも。それを秋のすずやかな大空が告げてきて今日は嬉しい。

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お前これでもまだ不服か

2015年11月05日 09時00分05秒 | Weblog

善導大師の「散善義」にあるように、わたしは罪悪生死の凡夫である。久遠劫よりこのかた常に沈み恒に流転して出離の縁あることがない。これがわたしである。救われることがない。この永遠に救われることのないわたしを救ったのが阿弥陀仏である。

わたしの自力ではわたしは永遠に救われることはなかった。そのわたしの救出に全力を傾けたのが宇宙の意思の阿弥陀仏だった。宇宙の智慧と慈悲だった。救出は成った。そこへ生まれて出たのが「往生」で、仏智にぴったり合致したのが「成仏」であった。

念仏の咳が出る出る南無阿弥陀仏。これは妙好人源左のことばだ。口にすることもおこがましい者が阿弥陀仏を口にすることができた。これが何よりの証拠ではないか。しばらく懺悔(さんげ)と歓喜(かんぎ)の咳が咳き上がる。

秋の空が青く澄み渡って広がっている。ここがわたしの住み処であった。今朝は風もない。鵯(ひよどり)が裸木のてんぺんに来て鳴いている。さぶろう、お前これでもまだ不服か。戦(おのの)きと恐れをかこっているか。この世にいる間は罪悪生死のただ中であった。

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