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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

最上川の虹の断片

2016年11月03日 21時37分15秒 | Weblog

ああ、うつくしいと思う。ことばが絵を描いている。それを僕はこころの目で見ている。ぼんやり者なのに鮮やかに見えている。短歌は読む者のこころのキャンバスに写して描かせる絵なのか。

最上川の上空にしてのこれるは未だうつくしき虹の断片      斎藤茂吉

この歌の歌碑が山形県大石田町今宿虹ヶ丘に建っている。昭和21年の作。

虹が立つには雨がいる。降っていた雨が上がったのだ。雲が晴れ、最上川が爽やかになってそこに光が溢れている。しばらくそうしていても虹の断片は容易に毀されない。空をうつくしく飾っておきたいという善意が、虹をいつまでもそうさせているらしい。季節はやはり夏か。夏に入るころか。空をうつくしくさせている虹は、この時、見上げる者の目をも同時に等しくうつくしくしている。自然のものの意思が放つ光沢に対して人間の佇立が止まない。

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お元気な方はお元気だ

2016年11月03日 21時17分09秒 | Weblog

お元気な方はお元気だ。隣に102歳のお爺さまがおられる。奥様をつい先年亡くされて今は一人暮らし。でも買い物にも行かれる。農作業もされる。炊事洗濯掃除もこなされる。体調に悪いところがないようだ。矍鑠たるものだ。100才になるまで車に乗っておられた。農業用軽トラックだが。息子さんもおられるが別所帯。どうしてどうして気合いが入っている。体に悪いとされるタバコもお構いなし。ときどきお見かけするが、腰も曲がっておられない。お元気な方はお元気だなと思う。もちろん耄碌もない。眼鏡の奥の眼光がきらきらしている。お爺さまの爪の垢を煎じて飲んだらあやかれるだろうか。

 

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細い月が出ている

2016年11月03日 21時03分34秒 | Weblog

今夜は月が出ている。細い細い月。繊月。この月を見ていると、いよいよ寒くなりそうだ。予報では当地の明日の最低気温は7度、最高気温は18度らしい。急に冷え込んで来たので近所には風邪気味の人も居るようだ。キャベツが虫にやられているので、夕方かけて噴霧器で殺虫剤をかけて回った。なんと匂いの強い春菊まで虫が食い荒らしている。これは予想外だった。茄子の株を引いて回った。秋茄子ももう終わりだろう。根張りがしっかりしているので引くのに一苦労した。こんなそんな植物の世話を、しばらくでもしているとこころが和む。不思議なものだ。

 

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一つの推論 わたしの中の無量寿と無量光 その3

2016年11月03日 18時47分23秒 | Weblog

21)そこへ来たらにっこりする。「心配は要らなかったね」と安堵の胸を撫で下ろすことになる。

22)しばらく死ぬ自分がいる。ずっと死なない自分がいる。昼が夜になるように。夜が朝になるように。代わる代わる。変容する。

23)いのちが地球のように回り回る。そして太陽の周りを公転する。地球を含めたその太陽系も銀河系を転回して行く。銀河系ももう一つ大きな周期を回る。

24)微視的見方と巨視的見方がある。微視的見方をすれば肉体は死んで行くように見えている。

25)連続で見ていれば、そこからまた新しい始まりがあることが分かる。ここを見られるようになる。

26)巨視的見方ができるようになって、われわれは一つの進歩に行き着く。

27)進歩も無限である。

28)いのちも無限である。計り知ることができない。進歩も無限である。計り知ることが出来ない。

29)わたしたちは無量寿と無量光である。寿は時間の帯。光は空間の帯。そのどちらも無量なのだ。推量を超えている。

30)わたしたちのいのちは阿弥陀仏である。阿弥陀仏が外にいるわけではない。わたしたちがその内に阿弥陀仏を含めているのである。

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一つの推論 わたしの中の無量寿と無量光 その2

2016年11月03日 18時45分25秒 | Weblog

11)「すぐに再会するから寂しくはないよね」「寂しくなんかないよ」などとも言葉を交わして微笑んでいる。

12)ちっとも心配していない。どちらも不安にもなっていない。

13)死ぬ自分と死なない自分とがいる。まるでもみじの葉の裏と表のようだ。

14)もみじの葉はひらひら舞っている。見えている部分が表、見えなくなった部分が裏だ。両者は切り離せない。

15)見えている部分にいるのが霊体、死なない自分。見えなくなった部分にいるのが肉体、死ぬ自分。

16)死なない前はこれが逆だった。見えている部分が肉体で、見えなくなった部分にいるのが霊体だった。

17)それが死を契機として引っ繰り返る。これで互を認識し合うのだ。

18)僕らはしかし自分をそんな風に二つに分けては考えていない。肉体の死が死の全容だと思い込んでいる。

19)だもんで、不安だ。心配だ。いらぬ詮索もする。悪い方へ悪い方へ考えたりもする。或いは絶望したりする人も現れる。

20)でも、ほんとうはそれはまったくの独り合点。妄想であったということが分かる時が来る。

 

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一つの推論 わたしの中の無量寿と無量光 その1

2016年11月03日 18時06分43秒 | Weblog

1)死ぬ自分と死なない自分とがいる。そういう想定をしてみる。

2)死ぬ自分は肉体としての自分であり、死なない自分は霊体としての自分である。

3)肉体は摩耗して死んで行くが霊体は死なない。

4)死にようがないし、死ぬ理由もない。

5)肉体もいったんは姿を消すがそれだけのことであって、里芋の葉の上の水滴が落ちてもまたすぐにふくらむように、新しい肉体を満たしてくるからまあ同じようなことだけど。

6)霊体は永続するが肉体は断続する。ちょっとの間インターバルがある。

7)それだけの違いだ。どちらも続いて行くことに変わりはない。

8)死ぬ自分と死なない自分は、死に直面して対面する。互を見遣る。

9)死ぬ自分は死なない自分を見ているし、死なない自分も死ぬ自分を見ている。

10)「じゃまたね」「See you again」「 See you later」などと挨拶を交わしている。

 

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しばらく秋野菜の間引き

2016年11月03日 17時34分30秒 | Weblog

日暮れが早い。早くなった。いま17時半。もう薄暗い。室内の気温は18度。僕は炬燵の電気をオンにしている。唐津くんちの唐津から七山越えをして戻ってきて、しばらく秋野菜の間引きをした。プランターに種を蒔いて育てていた秋野菜の。風が寒くてひんやりした。二種類の野菜を2つの籠にいっぱいにした。台所で丁寧に洗った。根株の上をちょこんと切り捨ててそれからまた洗った。一つは鍋物に、一つは明日朝の味噌汁の菜にできるように切り揃えた。こんなことをしていると気が休まる。不思議だ。19時に娘たちを駅に迎えに行く。娘たちは唐津くんちを見飽きるまで見てそれから電車で帰ってくる。老夫婦は雰囲気を味わったらもうそれでいい。興味が長続きしない。で、一足先に帰ってきた。人混みがあまり好きではない。

 

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昨日から唐津くんち

2016年11月03日 07時56分50秒 | Weblog

11月に入ると「唐津くんち」が始まります。昨夜が宵山でした。2,3,4日と続きます。唐津神社の秋季例大祭です。14台の豪壮華麗な山を曳く祭り衆と見物の人人人で溢れます。各町の特長を生かした曳き山がたくさん出ます。大鯛を象ったヤマ、兜を象ったヤマなどです。エンヤーエンヤーの勇ましい掛け声が走り抜けます。唐津は佐賀県の北部に位置しています。玄界灘に面した美しい港町です。この三日間は無礼講で、「おふんみゃあ」に預かれるようです。各家庭の振る舞いの酒肴の料理です。わが家族もこれからここへ出掛けて行きます。まんなかの娘が帰ってきています。このくんちを見るために帰ってきています。わたしの家内は唐津の出身だから、これを見て育っているので、見ないですますわけにはいかないようです。毎年の人出は50万人。賑わいます。

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佐賀平野はただいま世界熱気球大会

2016年11月03日 07時10分39秒 | Weblog

おはようございます。佐賀平野はいま熱気球大会が開催されています。世界熱気球大会が。会場は佐賀市の西、嘉瀬川河川敷。すぐ傍に電車の臨時駅ができていますから、見物客はここで電車を降りて歩いてやってきます。競技は朝6時と昼2時の2回。11月の空いっぱいに気球が飛んでいます。稲刈りが済んだ広大な田圃の真ん中に印がつけてあります。ここへ空中からマーカーを落として競技します。バーナーを焚いて上昇します。消すと下降します。でも進んで行く方向は吹いている風まかせです。空の高さによって吹いてくる風の流れが違っています。ですから風読みレースでもあります。諸外国からたくさんの外国選手がやって来ていますから、いきなり佐賀は国際都市になっています。わたしの住んでいるここ神埼市は佐賀市の東に位置していますから、滅多に飛んで来ることはありません。今朝は快晴。佐賀平野から白石平野にかけて多くの気球が飛び回っているはずです。レースがすむと気球は田圃に降りてきます。折り畳まれて小型トラックに積み込まれて戻って来ます。折り畳むのも積み込むのもヘルパーが必要です。この競技には支援者が、だから、たくさんいないといけません。

わたしはしかしただ見ているだけです。わあいわあいと歓声を上げているだけで、加担することはありません。競技のことも新聞テレビで見聞きした情報です。

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