善人なほもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや。悪人こそが阿弥陀如来の正機である。
☆
宗教は悪人を助ける。倫理や国法は善人を助ける。これで善人も悪人も助けられて行く。
☆
宗教は倫理や国法では助けられない悪人を助け、倫理や国法は宗教では助けない善人を助けることができる。
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宗教は倫理や国法に背いている。倫理や国法は宗教に背いている。
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背いてまでも守らねばならない者がいるからである。背いてまでも助けなければならない者がいるからである。
善人なほもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや。悪人こそが阿弥陀如来の正機である。
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宗教は悪人を助ける。倫理や国法は善人を助ける。これで善人も悪人も助けられて行く。
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宗教は倫理や国法では助けられない悪人を助け、倫理や国法は宗教では助けない善人を助けることができる。
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宗教は倫理や国法に背いている。倫理や国法は宗教に背いている。
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背いてまでも守らねばならない者がいるからである。背いてまでも助けなければならない者がいるからである。
死ぬように見せておいて実は生まれ生まれて行くのである。何処までも何処までも生まれ生まれて行くのである。
われわれは肉体の死だけに目が会ってしまうが、マクロに見ればそこは切り返し地点であってそこで一つのチェインジが起こるのである。
これはさうろうの理解である。さぶろうの受け取る「いのち」は切断がない。いのちは両端のある木の棒ではない。そこに落ちて顧みられることのない木の棒ではない。いのちは成長点が無限に伸びていく豆の木である。どうもシリウス星人が言い出しそうな理解である。
微視的なミクロ視点では恐怖がなんども襲って来るが、巨視的なマクロ視点ではそれは跳躍台に過ぎないということもあるのである。
仏教の経典では仏陀は億劫の時間、阿僧祇(あそうぎ)劫を生きて修行をしたり瞑想をしたりしているようだ。時間の単位が頗る長いのが特徴的だ。
「倶会一処(ぐえいっしょ)」とは「またともに一つの場所であなたにお会いします」という伝言文である。墓石になどに刻んである。一つの場所とは阿弥陀仏の極楽浄土である。ここがいのちの旅の集合場所である。みな此処に集まる。「やあ、またお会いしましたね」ということになる。安堵する。
でもここで終わりでもない。終点ではない。そこにまた飛行場のようなものがあってそこからまた思い思いにそれぞれのミッションを胸に秘めて次の活動地点に飛び立って行く。父にも母にも此処で会うことになっていたのだが、すでに次の活動にかかっているという場合もあるかもしれない。でも大丈夫。その先でまた倶会一処することができるからだ。
5)
往生成仏してもなおこの前進は止まらない。仏陀はさらなる仏陀を目指して行く。(仏陀の二乗三乗、百乗千乗が繰り返されていく)ここまで来るとわれわれの明るさ、耀き度は果てしもないので、もう光そのものに成っているのだけど、それでもなお輝いていくことになる。膨張をしている宇宙にあって輝き出す星々と同じだ。
3)
いまはこの人生、地球上に生きているこの生涯が全生涯に映っているが、前世・現世・来世の3点セットは今後どれだけでも重ねて行くことになるのだ。
4)
絶え間がないのである。われわれは永遠の命を生きているのである。切れていないのだ。切断がないのだ。生きて生きて上昇していくのだ。向上を果たして行くのだ。無限の前進を遂げて行くのだ。
2)
地球で暮らした時間は「夢幻(ゆめまぼろし)の如し」として受け止められるかもしれない。別に比較の対象が大きく現れて来れば、この人生は露の干(ひ)ぬ間として感覚されるかもしれない。別の比較対象にする世をわれわれはこれから数千回数万回数億回と経験することになるからだ。
1)
時間は感覚だから短くも感じるし長くも感じる。「一生は刹那だった」という古人の述懐もある。過ぎてみれば果たして刹那かもしれない。「たったいっときだった」という感想も生まれるかもしれない。
これはもう一つのブログ(アメーバブログ)「おでいげにようこそ」8888waohに書いたことだけど、ここにも複写する。わたしの嬉しさを複写することになるからだ。
*
わたしなりにだけど、後生の一大事が解決したのである。帰って行くところが見つかったのである。元々それはそこにあっただけの話だけど、わたしがそれをそうとしないで苦しんでいたのである。
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画家のゴーギャンが「われわれは何処から来たのか」「われわれは何者か」「われわれは何処へ向かうのか」の疑問をキャンバスに書き留めていた。どう答えるのもその人の自由裁量である。わたしはみずからに向かってこう答えておこう。みなさんはそれぞれ独自の答を用意されているはずだ。
1
「我々は何処から来たのか」
答え: 「われわれはいのちのふるさとから此処へやって来た」
2
「われわれは何者か」
答え: 「われわれはいのちの旅の旅人である」「われわれは楽しい旅をしているところだ」
(此処を経たことがあとで重大な明るい跳躍事件へと発展するが、それはいまは内緒、秘密事項にされている。今知ったら天空まで飛び上がってしまうから、重石をしてある)
3
「われわれは何処に向かうのか」
答え: 「われわれはいのちのふるさとに帰って行く」「ふるさとを出発して来た者はふるさとへ戻って行く」
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後生の一大事が解決をした。楽になった。
いのちのふるさとのことを仏国土とも呼んでいる。阿弥陀仏国土である。アミダはインドのサンスクリット語。無量寿・無量光の謂。無限寿(限りないいのち)・無限光(限りない智慧の輝き)としてもいい。永遠を生きるいのち、永遠を目指して行く智慧としてもいい。ともかくわれわれの自身のいのち、いのちのハタラキのことだ。いのちのふるさとに戻って来たら、我々自身が阿弥陀仏であったことを知る。これが成仏だ。成仏したら、仏としての活躍をほしいままにするのだろう。
許されていればもう少し此処で楽しい旅をして行こう。時は秋。一面に秋が広がっている。空が高くなって来た。澄んだ明るい空だ。おいしい空気を腹一杯に吸いこんでみる。
長崎市脇岬町にある「観音寺」を尋ねて行こうと思っています。自動車修理会社の待合室の本棚で旅の写真雑誌を見つけました。ここに巨大な「木像千手観音菩薩立像」があることを知りました。たちまち行ってみたくなりました。ネット検索もしてみました。いよいよ期待が高まります。これは平安時代末期の作らしい。毎月18日がご開帳。このお寺は野母崎半島近くの山の中の古刹のようです。ここにはお湯の出る宿もありますから2泊してゆっくりしたいと思います。一人では寂しいでしょうが、仏像鑑賞に付き合ってくれる人はいません。寂しく一人で行くつもりです。千手観音菩薩を見上げれば、しかし、寂しさなどは吹っ飛んでいくでしょう。
asakawaさんのブログを訪ねたら「庭の千草」のことが書いてありました。わたしもメロデイーをついつい口ずさんでしまいました。庭の千草のなかには白菊が咲いていました。そうでしたか。原曲は薔薇の花だったんですね。ちょっと寂しくなる曲ですね。我が家の庭にもちょうど菊の花が咲いています。黄色と紫の小菊です。