<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

寒い 風邪を引きかねない

2016年11月24日 17時58分37秒 | Weblog

寒い。風もある。しきりにクシャミが出る。クリニックの待合室にいた人たちの咳こみに煽られたかもしれぬ。風邪は引けない。明日から東京へ出る。

医師から血液検査の結果が伝えられた。嫌疑が晴れた。ほっとした。しかし、危険水域にあることは否めない。常に病に寄り立てられるようになった。

帰途、種物屋さんに立ち寄り、運良く晩稲と赤玉葱の玉葱苗を見つけて買って来たが、植える段にならない。寒い。外にいられない。暖かい日でないとからだが冷え込んでしまう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日脚伸ぶ お慈悲の日脚伸ぶ

2016年11月24日 08時25分21秒 | Weblog

東の空に上がって来た太陽が西の空までを明るく青く照らしている。所々に浮かんでいる白い雲がこれを受けて眩しく光っている。僕はこれを仰いでいる。夜明け方の突風のあの横暴さは一体何だったのだろう。寒気団襲来の予兆だったのだろうか。いまはすっかり収まって静かになっている。東京は54年ぶりの11月の初雪だそうな。

仏陀の慈悲は大悲と呼ばれる。大悲は人々に仏の智慧を獲得させるために実行される。これは仏智とも呼ばれる。仏の眼で見ることである。煩悩の眼ではなく真如の眼で見ることである。そうすれば「忘己利他(もうこりた)」ができるようになる。これで己が煩悩の人間を生きていることを忘却することができるようになり、その延長線に利他が可能になる。ということは、仏陀の慈悲に連結したということである。仏陀の智慧はこうして仏陀の慈悲に帰還する。仏の眼を求めるこころを菩提心という。菩提心をわたしに与えるために仏陀はさまざまに工夫を凝らす。人間の受け取る悲しみも苦しみも仏陀の工夫である。病もその果ての死も工夫である。心のこもった工夫は心のこもった慈悲である。この触媒が功を奏して衆生はみな仏智への道を辿っていくのである。

わたしを目当てにして仏陀が光という慈悲を垂れている。朝日が日脚を伸ばしている。それがわたしの書斎の中にまで進んで来る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする