常寂光土、すなわち仏の国土とはどんなところなのか。その説明がその後の「常波羅蜜 所摂成処」である。現世に生きている間は常と無常とを行き交いして揺れに揺れている。泣いて悲しんで笑って苦しんで安らぐ暇もない。それは仏の智慧の眼で見ていないからである。常寂光土に導かれて来れば、仏の智慧の眼で見ることができるようになる。これは嬉しいことだ。
これは嬉しいことだ。これは嬉しいことだ。法華経には嬉しいことが書かれている。ここへ招かれてくるときがやがて来る。そうしたらわたしが仏陀の目、すなわち智慧の眼で見ることができるようになる。そうすればそこがたちまち常寂光土に見えて来るはずである。
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でも、いま此処も常寂光土である。法華経の経典がこの位置を示している。これを読んだ者はだから、ここを辿ったのである。いま常寂光土を味わったのである。さぶろうの読みだとこうなる。勝手気ままな解釈をするさぶろうである。