<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

弥陀如来の御誓い

2016年11月30日 12時15分30秒 | Weblog

一心一向に阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、後生たすけたまへと申さんひとをば、みなみな御たすけあるべしとおもひとりて、さらに疑のこころゆめゆめあるべからず。これすなはち弥陀如来の御ちかいの他力本願とは申すなり。    蓮如聖人「御文章」より

わたしさぶろうは智者の振る舞いをしているのでこれがなかなか信じられない。信じようとすればするほど遠退いて行ってしまう。弥陀も弥陀の誓いもわたしの力を遙かに遙かに超脱しているのに、そこまで網を打とうとする。網などが届くはずがないのである。わたしの自力の及ぶところなどには弥陀はいないのである。弥陀の本願は、しかし、このさぶろうのように無駄な大網を投げる人のためにある。わたしの智が弥陀の智を知るほどにはないのである。わたしの智くらいが仏の智を捕まえるくらいだったら、そんなものは偽者である。

だから「みなみな一人残らず御助けあるべし」と高を括っていればいいのである。

それが難しい。疑ってしまう。わたしの智が仏の智よりも正しいと思ってしまう。これほどの傲慢ぶりなのである。疑っても疑ってもなおなお「わたしの後生が助かる」のである。

それで他力の本願なのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

落ち着くところがない:山頭火を読む

2016年11月30日 10時42分12秒 | Weblog

鳴いて鴉の 飛んで鴉の おちつくところがない    種田山頭火

鴉が多い。真っ黒いのが大勢大勢いる。ガアガア鳴いてうるさい。田圃に下りてきて何を探しているのだろう。二本足でよたよた右へ左へも動く。何かを啄んでいる。蛙だろうか虫だろうか。田螺だろうか。硬い嘴をパタパタ鳴らしているのもいる。喰い漁っても悔い飽きないのか、どれもこれも落ち着かない。山頭火はそこに自分の姿を見ている。俺がそこに居ると思う。鴉を見下せない。落ち着きがないところは俺とそっくりだと思う。

落ち着きどころというのはどこだ。何処かにあるのか。一生涯こうなのではないか。死ぬが死ぬまでこれで終始しているのではないか。大層な御託を並べたところでこのざまだ。鳴いて句を読んで飛んで旅をして。人間の落ち着きどころとは何処にあるのだ。死んだら落ち着くのか。死なない前には落ち着きは確立できないのか。次々に疑問が起こる。答が浮かんでこない。名案なんかないことに至り着く。悲しくなる。へたりこむ。田圃の畦道にへたり込む。

山頭火の句を読みながらいつのまにかそれがさぶろうにすり替わっている。

現世(げんぜ)安穏、後世(ごせ)安穏。おだやかでいたい。安らいでいたい。いまここでそれができないとすれば、後世でもいい。落ち着きどころへ行って心底落ち着いていたい。行けども行けども青い山。僧になって漂泊の旅に出たところで、解決がない。安宿に来て酒を喰らって鼾を掻いて寝てしまう、その繰り返しだ。ときどきひょいひょい女を思う。肌の白い女を思う。そんなことをしたって答は出ない。真っ白な答えに会うばかり。答はいつもいつも明日だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おやっ 青空が見えて来たぞ

2016年11月30日 07時54分11秒 | Weblog

おやっ、青空が見えて来たぞ。そこに蜷局(とぐろ)を巻いていたはずの黒い雲が消えて、今度は白い雲が現れて来たぞ。白い雲を応援するかのように光が東から射してきたぞ。なんだか特別の祝祭行事がこれから始まるような、そういうめでたいお膳立てが出来上がった。屋根の瓦でさえもが輝いてらあ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人にはもともと自己治癒能力が備わっている

2016年11月30日 07時23分23秒 | Weblog

昨夜、気のことを書いた。これは使い慣れた言葉としては「手当」なるものがある。手を当てるのである。お腹が痛んだり頭痛が起きたりすると、人はそこに思わず知らず手を当てる。これで自己治療をするのである。手の平から、指先から、治療の電磁波が飛ぶ。冷えていたところがあたたまる。元に戻そうとする力、復元力が働き出す。これで自然回復を待つのである。人には自己治癒能力(僕はこれを省略して自治能力と称している)が備わっているのだ。古代人はこの能力をフル活用した。現代人は医者でないと治せないと思って医者へ急ぐが、なんでもかでも医者任せにしなくともいいのである。からだの内側からと外側から免疫力が増大して医療態勢が整うようになってもいるのである。手当は、この医療態勢をスイッチオンにするものなのかもしれない。

お手当をもらうというのは、ほかにお給料をもらうと意味もある。労働・勤務などの報酬などの他に支給される特別なプラス支給という場合にも使う。この意味合いの語源はどこにあるのだろうか。電子辞書には、「手立て」「手段」「対応策」「医者の処置」なども書いてあったが、「気、プラーナの活動を促すもの」という項目は立ててなかった。

お母さんはこどもが熱を出すとすぐにこどもの額に手を当てる。すぐにこれで熱が下がるわけではないけれども、するとこどもはこれで安心をする。大丈夫だという気になる。この場合は安心剤を挿入した効果がある。だから手当は愛情がとる基本動作なのかもしれない。神さまや仏さまにもこの種の大きな大きな手、愛情の手があるのである。この手を感じるとそこで一気に気が発動するのだろう。その交流の接点でばちばちばちばちと音を立てて火花が散るのだろう。

手というのは、偉大だなあ。いろんなことをやってみせる。ドクターにもなるのである。ナースにもなるのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

からだがもぞもぞしているだろう

2016年11月30日 06時56分44秒 | Weblog

おはようございます。今日は11月の月末の日である。ということは? 明日から12月、歳末ということだ。窓を開ける。空一面に黒雲が垂れ込めている。雨はまだ降っていない。降るという予報だ。

昨日はカリフラワーとブロッコリーの畑の草取りをした。土を掘り起こして化学肥料を撒いた。ついつい長時間に及んだ。ひたすらこれにのめり込んでしまった。雑念が消えて、座禅しているに等しい。見渡すと掘り起こされた土がほかほか黒々としている。

今日は裏手の梅の木の下あたりの草取りを続けようと考えていたが、雨になるならそれはできないだろう。読書をして過ごそう。先日庭一面に蒔いた芥子の種(ほんとに芥子粒ほどの小ささだった)が、この雨をもらって発芽の準備態勢に入るだろう。みんなさぞかし嬉しがるだろう。今時からだがもぞもぞしているだろう。

夕方、家内が今夜は鍋物料理をするというので、畑に育てている九条葱をスコップで掘り上げた。両手いっぱいになるほど大量に掘り上げた。これを洗い場で土を落とし一株一株丁寧に洗った。ほかに黄金菜も間引きした。これはやわらかい。こうして鍋にはたくさんの自家製野菜がぐつぐつ煮えた。有り難い話だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さっきのブログを書くのに1時間かけてしまった

2016年11月30日 03時25分20秒 | Weblog

さっきのブログを書き上げるのに1時間かけてしまった。もう3時半だ。新聞屋さんのバイクが回って来た。東洋医術は気を回すということを大切にしているようだ。これはプラーナとも呼ばれる。宇宙の磁力線のようなものだ。我々を健康にしようとしているのがこの宇宙磁力線だ。宇宙はそれで我々を調和さて秩序あらしめている。だからまあコントローラーのようなものかもしれない。これに身を委ねるということかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思い込みの威力

2016年11月30日 02時16分54秒 | Weblog

8時には目が閉じてしまった。いま真夜中の2時を過ぎたところ。トイレを探す夢を見て目が覚めた。ということは、6時間も行かずにすんでいたということだ。3時間ごとに行かねばならなかったのに。

我が輩の自己治癒はたいした効き目だ。泌尿器科医なみだ。では、我が輩は何をしたか? 

宇宙に充満している健康プラーナを我が身に注射注入したのである。注射器は我が輩の10本の指と掌である。注射注入の部位はチャクラである。躰に7箇所以上ある。但しゆっくりゆっくりだから時間がかかる。最低でも30分から40分はかかる。先日したのは90分を要した。

瞑想が実に気持ちがいいのである。イマジネーションの力を借りる。指の電動注射器が全身を這い回る。するとその部位が反応して熱を帯びる。熱くなる。胃や腸が音を立て始める。明らかに歓喜の歌声だ。

指と掌はセンサーである。宇宙の中継基地なのだ。天空の稲光のごとき健康プラーナが発動してこの指センサーに投射されて来る。それを受け取ればいいのである。掌と指が磁力線の磁力を感じてジンジンする。モーターが駆動したサインだ。これをチャクラの部位にぐいぐいぐいぐい押し当てて押し込む。その具体的動作を繰り返す。

健康プラーナは気である。宇宙のエネルギーである。磁力線である。もっと有り体に言えば、いのちをいのちたらしめている宇宙の意思である。我々を生かそう生かそうとしているオールマイティな力である。

静止せずに活動するダンマである。仏陀の慈悲の具現である。我が輩はそのように受け取っている。

これが宇宙中に充満しているのだ。これがカラダに取り付けられているスシュムナーを通ってくまなく循環する。まあ、そういうマジネーションをしてみたわけである。

そうすることで巨大な宇宙モーターが実力を発揮したということだろう。清浄な、活動的健康プラーナが我が輩の全身を健康にしようと努めてくれたということだろう。健康は着実に回復しているはず。そう思い込んでいるだけかもしれないが。

しかし、思い込みの威力はばかにはできない。実際それを味わってもいるのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする