<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

秋の落ち葉は乾けるものを

2016年11月06日 14時08分57秒 | Weblog

ふんわりとかぶさる手と手湿りをり 秋の落ち葉は乾けるものを     釈 応帰

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小葱の青葉摘み

2016年11月06日 13時24分48秒 | Weblog

すんすんすんすんと小葱の青葉が伸びる。伸びきって重みで倒れてしまうまで伸びる。これを摘んで回った。椅子に掛けながらゆっくりゆっくり。秋晴れの空がうっすらして青いので、うっとりいい気持ちにさせられている。こんなに喰うのかと呆れるくらいに小葱を植えて育てている。これはトクワカとも言うようだ。球根が太ってくるとこれwも食べる。酢味噌にするとうまい。細い青葉は吸い物に浮かべてもいい。熱に弱いのですぐに小さくなってしまう。ので、料理が出来上がる最後がいい。小葱を摘むのに飽きると草取りに向かう。それにも飽きると白菜の畑へ行って間引きをする。泥根を落として水洗いする。それにも飽きると? もうなんにもしない。ひとりだから拘束されることがない。近所に住んでいる老猫のチビがお尻の辺りに来てミャアミャア鳴いている。猫嫌いなのに遠ざけないでいる。チビは痩せ猫。たぶん餌にありついていないのだろう。それを案じて、家族の者が残り物の魚などをときおり食べさせている。日曜だから郵便屋さんも来ない。キャベツに卵を産み付けようとして紋白蝶が飛び交う。のんびりしたもんだ。あんなに生きたいと思っていた弟は死んでしまって、ここにはいない。死なないで生かされている兄者(あんじゃ)はだらりだらりだ。気圧の薄い、温度の低い生き方だ。利己の勉強もしない。利他のために働くこともない。こんなんでいいのかなあ。

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これを罪業の業(ごう・なりわい)というのかもしれぬ

2016年11月06日 11時16分42秒 | Weblog

当流の安心といふは、なにのやうもなく、もろもろの雑行雑修のこころをすてて、わが身はいかなる罪業ふかくとも、それをば仏にまかせまゐらせて、ただ一心に阿弥陀如来を一念にふかくたのみまゐらせて、御たすけ候へと申さん衆生をば、十人は十人百人は百人ながらことごとくたすけたまふべし。これさらに疑ふこころつゆほどもあるべからず。かやうに信ずる機を安心をよく決定せしめたる人とはいふなり。

蓮如上人の「御文章」その21より

「阿弥陀如来、御(おん)助け候(そうら)へ」が念仏である。阿弥陀如来に我が身をそっくりあずけてしまう。お頼みごと、おまかせごとである。その後は阿弥陀如来のお仕事である。阿弥陀如来の采配にまかせておけばいいのである。阿弥陀如来のなさることに間違いはないのである。これで我が身はどっちみち安心である。雑行(ぞうぎょう)も雑修(ざっしゅう)も無用である。我が身が図ることはないのである。御助けごとは、とうてい自力では及べないのだから。御助けの及ぶところは我が身の罪業の深さ浅さを超えている世界である。

「阿弥陀さまお助け下さい」は我が身のプライドが高くなればなるほど、しかし、言えることではないなあ。阿弥陀さまなどおよそ見も知らぬ方だからなあ。罪業の深さをプライドの高さで打ち消してしまえると思ってしまうだろうなあ。「お助け下さい」はよほど身を低くしないと口の端に登る言葉にすらできないなあ。これを罪業の「業(ごう)」というのかもしれぬ。生業(なりわい)の業である。

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この世のことはみなもてそらごと

2016年11月06日 10時03分19秒 | Weblog

朝の10時。室内温度25度。秋晴れの空。空からは明るい光。地には小菊。花の芳香を花虻たちが嗅いでいる。僕は? 僕は庭の散策。散策に飽いたら椅子を出して遠くの山々を眺める。

我が郷土の名勝「九年庵」はもうすぐもみじが色づくだろう。観光バスがひきも切らないことになる。同じ敷地の仁比山神社公園一帯のもみじの苑も深い情趣が漂っていて落ち着ける。

昨日は我が弟の一周忌法事が行われた。この世のことはみなもてそらごとたわごと、まことあることなきに、念仏のみぞまことにおわしましける。ご院主さまのご法話にこうあった。仏を念い仏の智慧と仏の国を念じる念仏。

そのまことの仏の国に往生している弟を思った。信(まこと)の国、お浄土に往生すれば成仏するしかない。弟の法名は釈信慧(しゃくしんね)居士。いい名だ。信は仏の智慧である。それをいただいた弟。安からん。

未だしそらごとたわごとに拘わっている兄者(あんじゃ)もいずれ後を追うことになる。法事は仏法のご縁にあずかる日。弟に引き寄せられて法を聞いた。空事(そらごと)譫(たわごと)の日々を送っている者にもやがて辿り着くところがある。

それが頼もしいではないか。

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