<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

詩「それだけで嬉しかったのなら」

2016年11月14日 20時02分34秒 | Weblog

山が/青葉を風に揺らして/嬉しい嬉しいと言っているのが/聞こえたんだね/だったら/いい一日だったね今日も/山を聞いているだけで/嬉しかったのなら

海が/ひかりを波に揺らして/嬉しい嬉しいと言っているのが/聞こえたんだね/だったら/いい一日だったね今日も/海を聞いているだけで/嬉しかったのなら

空が/夕日を雲に揺らして/嬉しい嬉しいと言っているのが/聞こえたんだね/だったら/いい一日だったね今日も/空を聞いているだけで/嬉しかったのなら

胸が/こころを歌に揺らして/嬉しい嬉しいと言っているのが/聞こえたんだね/だったら/いい一日だったね今日も/胸を聞いているだけで/嬉しかったのなら

星が/ことばを口に揺らして/嬉しい嬉しいと言っているのが/聞こえたんだね/だったら/いい一日だったね今日も/星を聞いているだけで/嬉しかったのなら

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詩「ほんとうだよ」

2016年11月14日 19時39分40秒 | Weblog

1)

雲が/流れて行くよ/ほんとだね/雲が流れて行くと/世界中がみんな/うつくしく/なるんだよ/ほんとうだよ

2)

薔薇が/芽を伸ばしたね/ほんとだね/薔薇が芽を伸ばしたら/世界中がすっかり/うつくしくなるんだよ/ほんとうだよ

3)

風が/流れて行くよ/ほんとだね/風が流れていくと/世界中がとっても/うつくしくなるんだよ/ほんとうだね

4)

人が/今日生まれたよ/ほんとだね/人が今日生まれたら/世界中が今日日/うつくしくなるんだよ/ほんとうだよ

5)

鳥が/歌を歌ったよ/ほんとだね/鳥が歌を歌うと/世界中がそろって/うつくしくなるんだよ/ほんとうだよ

6)

星が/光っているよ/ほんとだね/星がここで光ったら/世界中があっさり/うつくしくなるんだよ/ほんとうだよ

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時間は調和のために回っている

2016年11月14日 19時26分48秒 | Weblog

こどもは/おじいさんに/なりました/こどもがおじいさんに/なったので/なったので/おじいさんは/こどもになりました/AがBになると/BはAになるのです/これは不思議でも何でもありません/こうやってみんな/調和していくのです/全体を/一定化して行くためです/時間はそのためにまわっています/次へまた次へとまわっています/時間は調和のために/まわっているのです/これは不思議でも何でもありません/こどもは/おじいさんに/なりました/こどもがおじいさんに/なったので/なったので/おじいさんは/こどもになれました/こどもになれました

これが永遠のいのちの法則です。仏陀が説きおこしたのはこういうことでした。

これは、でも、さぶろうの理解です。さぶろう流の理解です。

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歌曲「今日もいろんなことがあったけれども」

2016年11月14日 18時28分36秒 | Weblog

雲を赤く染めるのは夕日/でも/夕日を赤くしたのはだあれ/重たいはずの雲が/空に浮かんでいる/そして/夕日が赤く/山の端に沈んでく

海を赤く染めるのは夕日/でも/夕日を赤くしたのはだあれ/暴れん坊の海が/静かにしているね/いつも/夕日が赤く/あたためているんだね

人を赤く染めるのは夕日/でも/夕日を赤くしたのはだあれ/今日もいろんなことが/たくさんあったけれど/それを/夕日が赤く/染めるときが来ている

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合唱曲「この不思議」

2016年11月14日 17時27分13秒 | Weblog

空が広がる/秋が澄み渡る/どこまで広がって行くのだろう/どこまで澄み渡って行くのだろう/何を見せようというのだろう/ぐいぐいぐい/空が秋を掘り下げる/ぐいぐいぐい/秋が空を突き上げる/空が広がる/秋が澄み渡る/こんなにも/こんなにも

わたしはだあれ/あなたは何者/どこまで分かり合えるものだろう/どこまで相手をまもれるのだろう/何をどう与えたいのだろう/くるくるくる/問いが問いを巻きこんで/くるくるくる/問いが問いを解き明かす/わたしはだあれ/あなたは何者/この不思議/この不思議

海が深まる/雲が盛り上がる/どこまで深まっていくのだろう/どこまで高く高くなるのだろう/何を見せようというのだろう/ぐんぐんぐん/海が雲に近くなる/ぐんぐんぐん/雲が海を遠くする/海が深まる/雲が盛り上がる/こんなにも/こんなにも

わたしはだあれ/あなたは何者/どこまで分かり合えるものだろう/どこまで相手をまもれるのだろう/何をどう与えたいのだろう/くるくるくる/問いが問いを巻き込んで/くるくるくる/問いが問いを解き明かす/わたしはだあれ/あなたは何者/この不思議/この不思議

 

 

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大相撲九州場所をテレビ観戦

2016年11月14日 17時10分07秒 | Weblog

昨日から大相撲九州場所が始まった。今日は雨で外に出ての農作業は出来ない。炬燵に入ってテレビ観戦をしている。先場所は大関豪栄道が初優勝を飾った。今場所は横綱昇進がかかる。面白くなりそうだ。僕の関心は迫力の大関戦まで。残り三番の横綱戦は見ない。

 

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嬉しい嬉しいで過ごしていいところなのに

2016年11月14日 12時17分52秒 | Weblog

時空中声 即説是語 釈迦牟尼仏 名毘盧遮那 遍一切処 其仏住処 名常寂光

妙法蓮華経「仏説観普賢菩薩行法経」より

その時に空中に声あって即ち是の語を説く。「釈迦牟尼仏は毘盧遮那(びるしゃな)遍一切処(へんいっさいじょ)と名づけられたり。其の仏の住みたまふ処は常寂光(土)と名づけられたり」と。

毘盧遮那:梵語のバイローチャナの音訳語。意味の上からは「光明遍照」とか「遍一切処」とかに訳されています。光明返照(仏)は光明もて遍(あまね)く照らす仏。遍一切処(仏)は一切処に遍き仏、どんなところにもいてくださっている仏さまです。ですから法身仏です。永遠の仏陀です。永遠不変に宇宙中を照らしておられる仏、あるいは宇宙そのものの仏ということでしょうか。

常寂光土:毘盧遮那仏のおられる世界、仏土、仏国土、法界を指しています。「寂」は「不動」「不変」。常寂光土は、常に揺るぎのない光明に満ちている仏の国です。

ここもその常寂光土です。常寂光土に内包されているところです。嬉しいですね。光明遍照ですから、ここにもその光明が満ち満ちています。嬉しいですね。ここにも毘盧遮那仏が遍満しておられます。別世界におられるのではなくいっしょにいてくださっているのです。嬉しいですね。生きているときにもいっしょであり、肉体を閉じて死んで行くときにもごいっしょされています。嬉しいですね。過去から現在から未来までは含まれています。釈迦牟尼仏はだから、久遠実成(くおんじつじょう)の法身仏と呼ばれています。

実は嬉しい嬉しいで過ごしていいところなのに、この老爺は嬉しがっていません。でもそれでいいのです。ほんとうは嬉しい嬉しいで過ごしていいのだということが分かっていればそれでいいのです。これだけ長くこの世を生きていながらまだ嬉しがっていません。嬉しがるところに到達していません。それでときどきこうして法華経を読経してみるのです。そしてやっとしばらく嬉しがって過ごすときを得ています。

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小鳥が鳴いているのでいい気持ちだ

2016年11月14日 11時53分07秒 | Weblog

ああ、いい気持ちだ。小鳥が鳴いて鳴いて鳴いている。これを聞いているといい気持ちだ。小鳥が庭先に来てそこで楽しくして過ごしているようだ。空はまだ雲っているが、雨の音はしていない。「ああ、いい気持ちだ」でずっとこのままいられたらよかろう。何かそれを阻むものがあってもそれでもそれはそれとしてやっぱり「ああ、いい気持ちだ」を通せたらよかろう。ここは小鳥が来て鳴いているところだというだけであれば、変化はあるまい。あるとすればそれはわたしの境遇の変化であって、その変化に追従しただけであって、小鳥が秋を爽やかに鳴いていることそれ自体には変化はないであろう。何に束縛されているか、何を見ているか、何に執心しているか、それによっていい気持ちにもなるし、それを剥奪されたりもする。

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今日は月曜日 新しい週の始まり

2016年11月14日 08時32分08秒 | Weblog

夜来の雨が上がったようだ。もう雨音もしない。小さくぴいぴいぴいと鳴いているがその小鳥の姿は見えない。鵯だろうか。金木犀の木に巻き付いた山芋の蔓と葉っぱが枯れてすっかり黄色くなっている。風はないようだけど、蜘蛛の巣に絡まった黄葉が一枚だけくるくる回っている。気温は20度近くもある。寒くはない。洗濯ものの干し竿に丸い水滴が幾つも垂れて、透明な玉(ぎょく)をなしている。空は遠くまで灰色をしている。まだすっかり上がったわけではないのかもしれない。

鳩尾(みぞおち)が痛む。どうしたのだろう。昨日草取りをしている時に感じてそのまま。呼吸するときに肋骨の谷間に痛みを感じる。強張っているようにも感じる。耐えられないほどではない。何か内蔵辺りに異変が起こったのだろうか。椅子の座ったまま芋掘りをしたときにスコップで土を掘り上げながら進んだので、その時上半身に力みが続いていた、それが今頃になって強張ったのだろうか。分からない。しばらく様子を見よう。

今日は月曜日。新しい週の始まり。

 

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堂々としてみる

2016年11月14日 03時40分46秒 | Weblog

わたしは大根の種の神様である。大根の種からするとそれくらいに見えているはずである。神様級に見えているはずである。ふっふっふ。おっほっほ。えっへっへ。なにしろ命の恩人なのである。昨日種蒔きをしてあげたというだけだけど。今は土の中で雨に濡れている。産声を上げている。小さい小さい小さい産声を上げている。生まれる歓びを噛みしめている。これで蘇りができるのだ。大根の種はやがて根を下ろして芽を伸ばして来る。葉を付けて来る。まるまると太って来る。大根のためになったのである。わたしが大根のために役立ったのである。だから神様級に堂々としていてもいいのである。真夜中、堂々としてみる。

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