葡萄がおいしい梨がおいしい。蜜柑がおいしい。柿がおいしい。栗がおいしい。新米がおいしい。高く澄んだ秋空がおいしい。鰯雲の下の空気がおいしい。そこに座って逞しくする空想もまたおいしい。食べ尽くせないほどの秋のおいしさ。どうしようどうしようどうしよう。秋の内に食べ尽くさねばならないこともあるまい。焦らず悔やまず。胃袋を小さくして、その胃袋が食べられるだけにして、あとはのんびり寝椅子に掛けて、眠くなって寝るばかり。
晴耕雨読。雨が降るには読書によろし。晴れた日は田畑を耕してよろし。よろしい日ばかり。
耕しもせず本の虫にもならず、何をしないでいてもよろし。のんべんだらりとしていても、それでもよろし。
怠け者していてもよろし。ふて腐れていてもよろし。ぶうぶう不平を呟いていてもよろし。スウスウ鼻呼吸して瞑想していてもよろし。
死んでもよろし。死なないでもよろし。この世はよろしいことばかりが続くところである。よろしいよろしいなら、ここは極楽浄土である。死なない前からすでに極楽浄土の住民である。
今日は雨。アガサ・クリスティの推理小説が面白そうだ。枕元に積んである。それに飽きたら、昼寝だ。
真夜中。そろそろ4時。雨の音がしている。霧雨ほどだろう。ぽつりまたぽつり。雨垂れの音がしている。
雨は無差別である。雨がほしい人にも、雨が嫌な人にも、両方に降る。それぞれの事情を吟味したりはしない。一斉である。恵みの雨とする人がいたり、災いの雨と受け取る人がいたりする。降っても困るが降らないでも困る。
傘屋をしている息子は、雨が降った方がいい。ピクニック弁当屋をしている次男には雨は禁物である。二人の母親は、雨が降ると客足が途絶えた弁当屋の次男のことを案じて涙に暮れ、雨が降らなくなると、客が遠退いた傘屋をしている長男が不憫になってまた涙した。これじゃ涙は乾かない。涙が乾くためにはどうすべきかを聞こうと和尚を尋ねたら、和尚はそりゃ簡単なことだと言った。雨が降る日には傘屋が儲かっていると思って手を叩き、雨が止んだら、弁当屋が繁昌している様を思い浮かべて喜んだらいい。和尚はそう言った。そうすれば、雨になってもその日はよい日であり、雨が上がってもまたよい日となる。
死もまた無差別である。安らかに死にたい人にも、まだまだ死にたくない人にも、お構いなしに訪れて来る。死そのものは無色透明である。それを吉と取るか、凶と取るかはそれぞれの腹積もりに任されている。どちらに取っても救われていなければならない。助かっていなければならない。それがよい結果になっていなければならない。
それがよい結果になっていなければならない。雨が降ったことがよい結果になっており、雨が止んだことがよい結果になっている。そうあるべきで、事実そうなっているに違いないのである。途中経過がどうあれ、良い結果に導かれていればそれでよいのである。安心をしていていいのである。