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子供達が書いた衒(てら)わない、巧まない詩の魅力に吸い寄せられた。詩人の詩はさすがに説得力を持つ。だが、韻律を含む詩を、韻律を損なわずに声に出して読むというのは、難しいものだ。音量音質の匙加減で異質になってしまう。変化にどぎまぎどぎまぎした。
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子供達が書いた衒(てら)わない、巧まない詩の魅力に吸い寄せられた。詩人の詩はさすがに説得力を持つ。だが、韻律を含む詩を、韻律を損なわずに声に出して読むというのは、難しいものだ。音量音質の匙加減で異質になってしまう。変化にどぎまぎどぎまぎした。
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初心者でもお上手な人がいらっっしゃる。狭い教室に、声と音がニンフの踊りのように踊った。緩急と強弱とが大事のようだった。ゆっくり読んでもらうとゆっくり聞ける。
感情導入、思い入れを強くすると、却って聞きづらかった。これはわたしの場合。この領域はベテランの技の領域なのだろう。
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それから実践に進んだ。一行ずつ読み手を替える読み方もあったし、1小節ずつ担当するというのもあった。どれも恐る恐る。
その後の群読はどうも巧く行かなかった。メロデイー・リズムをつけて読むのはもっと巧く行かなかった。戸惑った。人様に合わせるだけで、集中力が切れそうだった。
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先日、市の公民館主催の「声に出して読む日本語講座」に参加した。読み聞かせ・朗読・音読・斉読の類いである。
講師の先生が絵本を数冊読んで下さった。お上手だなあ。参加者は6人。まずは子供の書いた詩を数編、それからショートポエム、それから日本の詩人の書いた詩を数編を手に取った。
黙読の後で、小さな声で読みの練習に進んだ。恐る恐る。
おやや、神鳴りさんの音がしだしたぞ、空の一角で。来るのかな、夕立が。雨が降ってくれないと植物は枯渇する。その寸前だ。
庭も畑も、ジリジリ焦げている。自然発火で火が点いて野原の山火事でも起こりそうな気配。
今や遅しと、みんなに待たれている神鳴りさん、いや、神鳴りさんは露払い。驟雨こそがお目当て。ザザザザザーっと来てくれないかなあ、大粒の雨が数時間ほど。
ふふっ。なあんだ。音も消えちゃった。神鳴りさんご出陣ならず。
さぶろうは妄想の塊である。であるから、思っていること、考えていること、口にしていること、書いていること、実行に移していること、みなここを源流としている。
こうすると、己の実際の力量では不可能とされていることでも、乗り越える。但し、みな嘘っぱちである。虚偽である。妄想デタラメである。ここを居住圏内としている。よって、さぶろう本人もデタラメである。
こうであることと、こうありたいことがぴったり同一の同心円を描いている。欲望以前と欲望以後が棲み分けをしていない。その間に引かれていて当然の境界線が引かれていないのだ。妄想効果である。
欲望以前が欲望以後に上手くすり替わってしまうのだ。後は、その振りをしてすませる。なったつもりに甘んじて、違和感を感じないでいる。安上がりと言えばこうまで安上がりな話はあるまい。
さぶろうは妄想の塊である。彼は己の立ち位置を無視できるらしい。著しく年を取っていることも忘れていられる。無力であることも不問にしていられる。無価値であるという事実にも拘束されない。
妄想はドラッグである。現実逃避の一種麻薬である。さぶろうの書く詩も短歌もエッセーもこの妄想のチリアクタの類いである。
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人間に渦がある。渦巻がある。ぐるぐる回っている。周囲の雑然とした力が、其の一点に吸いこまれて行く。生きている人間の、生きている渦潮が力強く巻いている。
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吸いこんで行く渦は、それを本能へ吸いこんで行く。そこが五体五心の中心蔵なのだ。理性が抗う。特に正義が抗う。不正をするなと抗う。しかし、本能は、正義も不正義も乗り越えてしまう。
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一つの本能は抱きたいと思う。逞しく荒々しい本能の方である。もう一つの本能は抱かれたいと思う。嫋やかで柔らかい本能の方である。抱く行為と抱かれる行為が渦になる。力を発揮する。
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それを称讃する。賞賛することが出来るほどの静観を得ているのだ。静観には、自力がない。己の中から溢れ出る力がなくなっているので、静かにしていられるのだ。
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わたしはもう老いた。すっかり老いた。本能も痩せて老いた。路端にみすぼらしくしてしゃがみこんでいる。若い人たちが寄り添いながら通って行く。夏の日射しが溢れている。
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若い彼らには青々とした渦潮がある。力が溢れている。溢れている力を見ている、僅かに残っている人間への興味を掻き集めて、人間の分析をしながら。
蜘蛛が巣を緑陰に張る 此処へ来る我がうつくしき人を見んとて 薬王華蔵
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蜘蛛は、次に何が起こるかという感覚、つまり先を読み取る神通力に優れている。で、早回りして、そこに巣を張る。夏の朝、大きな楠の木の青い緑陰がある。此処へ我が美しい恋人はやって来る。そのこ石のベンチが待ち合わせの場所だ。蜘蛛は美しい人間、ことさらその女性に興味があるのだ。一目見たいという衝動に動かされて巣の中心で彼女を待ち受ける。緑陰に風が渡る。巣が少しだけ揺れる。美しい人間の、その中でも特上の、美しい女性を、蜘蛛とわたしが待ち受ける。ハイヒールを履いた彼女の細い跫音が近づいて来た。
それだけのためじゃないけど、男のニンゲンの手は、もう一種類のニンゲンの、女のニンゲンの手を握るためにある。女のニンゲンの手は、もう一種類のニンゲンの、男のニンゲンの手を握るためにある。
ということは、知っているのだが、オレの手はこのところ箸と茶碗と杖を握るためだけに使われている。お嫁さんもいるのだが、お嫁さんの手からも遠い。気持ちも遠い。女のニンゲンの手であることを拒否されている。だから、それを尊重しているしかない。
オレはそれでも頑なに信じている。男のニンゲンの手は、もう一種類のニンゲンの、女のニンゲンの手を握るためにあるし、女のニンゲンの手は、もう一種類のニンゲンの、男のニンゲンの手を握るためにある。
箸を握っていりゃそれで手の役目を果たしているじゃないか。茶碗を握っていりゃそれで手の役目を果たしているじゃないか。杖を握っていりゃそれで手の役目を果たしているじゃないか。無理矢理そう納得させるが、納得は長く保たない。
じゃ、どうするか。方法はない。そこらに女のニンゲンの手がポロンと落ちている訳でもない。第一そんな手は、そこにポロンと落ちているような手は、女のニンゲンの手をしていても、血が通ってはいまい。この地球という星にいる間は、方法はない。
いま04時38分、もうすぐ夜明け。何度も何度も目が覚めて、部屋を明るくして、何度も何度もトイレまで通い、戻って来てから、何度も何度も水を補給して、ゴロンと横になって、わざと大袈裟に腹式呼吸をして、ああ、オレはチョロリチョロリ生きてるんだなあと確かめて、しばらく目を覚ましたままにして、ニコリと一度笑って、それから目を閉じる。するとまた夢の国へ入る。この繰り返し。やれやれだ。
2018年7月22日、日曜日、オレはこの日まではどうにか目を覚ました。それから先はどうなったか、知らない。日照りがかれこれ2週間ほども続いていた。外気温が体温を超えて来て、草木や人類は焼けて焦げていた。