<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

即興詩 「お誘い」

2019年10月05日 10時47分13秒 | Weblog
今日の僕の即興詩 「お誘い」

「ねえ、僕と遊ばない?」という者がいます/
遊んでくれる人のない僕ですから/
浮き足立ちます/
きょろきょろ見回してみます/
ところが、そこには誰もいません/
「ねえ、僕と遊ばない?」もういちど誘いがかかります/

風なのかもしれません/
風の神さまなのかもしれません/

しばらくしてやっと正体が現れました/
それは高い高いところにいました/
秋空の羊雲だったのです/

僕に彼と会話をする能力があるということを/
羊雲は見抜いていたのでした/
僕はすぐさまイエスと返答しました/
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10月の詩 その2 「1分の1=1」

2019年10月05日 10時32分27秒 | Weblog
「1分の1=1」

1分の1。
すべてこう。
いつ死んでも、こう。
どこでどう死んでも、こう。
分母が生きたかった時間。
分子が生きた時間。
分母がやりたかったこと。
分子がやりおえたこと。
分母が光る予定量。
分子が光った実際量。
なにがどうなっても、
そこでたちまち1になって、
落ち着くことが出来る。
やり残しはない。
後腐れがない。
後ろ髪を引かれることは、
ない。
ここですべて滞りなく、
終了完了を見る。
そして出で立つ。
何処へ? 
今度はオリオン座へ。
そこへ行っておれは光る。
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僕の書いた10月の詩

2019年10月05日 10時21分28秒 | Weblog
 「すべてはいいことである」

すべてが/いいことである
そういうふうに思って見る
息をしている/これはいいことである
血管に血が流れている/これはいいことである
朝に日が昇って行く/これはいいことである
月が明るく照らしている/これはいいことである
すべてが/いいことをしている
そういうふうに思って見る

風はいいことをしている
空はいいことをしている
海はいいことをしている
虫はいいことをしている
鳥はいいことをしている
魚はいいことをしている
すべてが/いいことをして去って行く
そういうふうに思って見る

芒の野の秋が枯れる
雁が北へ向かって飛んで行く
ひとり人が老いて死んで行く
日が雲を染めて/沖合に落ちて行く
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外は光が跳ねている

2019年10月05日 10時11分56秒 | Weblog
10
今日は秋晴れ。早朝6時は21度しかなかった。いま、午前10時を過ぎたところ。室内気温は25度まで上昇している。
さっきちょっと外に出た。畑を見て回った。外は光が跳ねている。光のこどもたちが発芽した大根葉のまわりで嬉々として遊んでいる。ああ、僕を除くみんなは、たやすく常寂光土しているなあとも思う。

さ、ブレイクタイム。珈琲でも飲もうかな。古い羊羹の残りでも口にしようかな。

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一道しかない

2019年10月05日 10時10分48秒 | Weblog
地獄に堕ちる者は常寂光土には行けないという考えがある。悪業を積み重ねた者は、相応の業火に焼かれなければならないとう説もある。僕はこれらの不安を選択しない。仏陀は差別をなさらないからである。仏陀の慈悲救済は一道しかない。すべての者を救うという一道しかない。
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この道を歩いて行けば、まちがいなく仏陀に遭えるという信

2019年10月05日 10時02分15秒 | Weblog
僕は、ではどうか。僕は、煩悩のただなかにある。迷妄の渦に飲まれている。あっぷあっぷしている。とてもとても寂光土開眼はできない。遅れに遅れている。このまま悪業にまみれているだろう、死ぬが死ぬまで。しばらくオアズケである。(なにしろいまだに、やさしいおんなの人のことを思っているのである。距離が空きすぎているねえ)

うん、無量光明土を目指してとぼとぼと歩いて行くしかないな。この道を行けば、間違いなく仏陀に遭える。智慧の光の放たれているところへ辿り着ける、その信を大事にあたためているしかないなあ。意気揚々とはしていないなあ。お粗末。

しかない。
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この道を歩いて行けば、まちがいなく仏陀に遭えるという信

2019年10月05日 10時02分15秒 | Weblog
僕は、ではどうか。僕は、煩悩のただなかにある。迷妄の渦に飲まれている。あっぷあっぷしている。とてもとても寂光土開眼はできない。遅れに遅れている。このまま悪業にまみれているだろう、死ぬが死ぬまで。しばらくオアズケである。(なにしろいまだに、やさしいおんなの人のことを思っているのである。距離が空きすぎているねえ)

うん、無量光明土を目指してとぼとぼと歩いて行くしかないな。この道を行けば、間違いなく仏陀に遭える。智慧の光の放たれているところへ辿り着ける、その信を大事にあたためているしかないなあ。意気揚々とはしていないなあ。お粗末。

しかない。
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大空は、常寂光土を現出している

2019年10月05日 09時59分41秒 | Weblog
大空も常寂光土なのだ。山も川も寂光土の景色を見せているのだ。草木も寂光土を生きているのだ。風も光も水も、浄土を具現して見せてくれているのだ。彼らは未来を待たずして悉く成仏を果たしているのだ。そういう仏陀の智慧の眼がある。透徹した眼がある。仏陀の透徹貫通した眼で見れば、此処はすでに清浄国土なのだ。


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苦界を楽界に転じてしまうという転の実践

2019年10月05日 09時55分05秒 | Weblog
仏教には「転」の実践がある。苦界即楽界。苦界を楽界に、転じてしまうのだ、くるりと。くるりとひっくり返してしまうのだ。裏を表にしてしまう。元々一枚の板。セットになっているのだから、ひっくり返すことだって可能なのだ。そうすると楽土も常に此処にあるということになる。仏陀の教えを聞いて信仰に生きた者には、仏陀の智慧がハタライて来る。それをそうせしめてくれる。苦や苦界に寄り添っているものがある、ということが信じられてくる。


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「常寂光土(じょうじゃっこうど)」という浄土がある

2019年10月05日 09時52分06秒 | Weblog
「常寂光土」という浄土がある。楽土がある。未来も現在もここには引っくるめられている。時間の境界線がない。時間の国境がない。すなわち地続きである。未来も過去も現在も一平面にある。重なり合った点としてある。この寂光土は常である。時間の仕切り線がない。いつからいつまでの制限がない。瞑想すればたちどころにそれが現出する。寂光土は涅槃界である。涅槃寂静界である。争い心がない。争いがない。互いが泰然自若としていることができる。


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