立秋を過ぎたとたん、日本列島は最高気温40度に達するほど酷暑。夜になっても気温は下がらず、30度。例年なら、夜の間は窓を開けっ放しにすると、外からひんやりとした爽やかな風が吹いてくるはずなのに、今日は風が全然出てこなくて湿っぽい空気。夜の間はエアコンを使うことは滅多にないのに、最小限モードでON。
職場でも、最小限モードなので、吹き出てくる汗でシャツが濡れてしまうことも・・・。
1993(平成5)年、2003(平成15)年の夏は冷夏なので、今年2013年は10年ごとの冷夏になるのではと予想していましたが、見事に外れ、今年は酷暑です!!
今から10年前の2003年も異常気候。例年なら暑いはずのお盆だというのに、最高気温は20度くらい、10月上旬と同じだとニュースで報じられたことも・・・。
この暑さだと、海の底まで透き通って見える、きれいな海(小笠原の兄島瀬戸、青ヶ島・三宝港、新島、式根島、神津島・・・)で立ち泳ぎでぷかぷか浮かんでいたい・・・
スーパー白鳥19号が竜飛海底駅に停車しても、安全確保のため、すべてのドアは開きません。2号車と3号車の間にあるドアのみ、車掌さんが非常ロックを使い、開閉。
警備員らしき人が降りた人をカウンターで確認。降りた人はもちろん全員、次のスーパー白鳥25号で強制的に帰ることになるので、駅で取り残されないようにしっかり確認しているようです。
JR北海道のコーポレートカラー(萌黄色)のジャケットを羽織った方は、案内人。
たぶん、現役時代はJR北海道函館運輸所の乗務員、定年後はボランディアとして来ているかも知れません。
友人と手話で話していたこともあり、「あなた方は聞こえない方?」と、案内人からパンフレットをもらいました。 参列者全員に配布しているわけではなく、音声で説明する内容はほとんどパンフレットに載っているものと同じだと私たちにくれたかも知れません。
案内人は音声日本語のみの、モノリンガルなので、外国人の方が見学に来られたら、外国語版のパンフレットを配布しているかも。ろう者はある意味で外国人!? 青函トンネルの開業は昭和63(1988)年3月13日。JR発足は昭和62年4月1日なので、青函連絡船は国鉄からJR北海道になっても、1年近く継続。
本州と九州を結ぶ、関門トンネルは昭和11(1936)年に着工、戦時中の昭和17(1942)年開通。関門トンネル工事中、本州と北海道を結ぶべきだと青函トンネルを開通させる構想が出たのはその頃。(昭和14年頃)
下関~門司のトンネル部分3.6キロに比べると、竜飛海底(本州)~吉岡海底(北海道)のトンネル部分は23キロ。関門トンネルより7倍以上の難工事。話がうやむやになろうとしたところ、1954(昭和29)年9月26日、国鉄青函連絡船「洞爺丸」が台風15号接近中でも関わらず、当時の船長がこの船が青森港に到着後、15号は最も接近する頃だと見通しを誤り、就航を決断。今の時代だったら、そのような状況だと安全確保のため、欠航するに決まっていますが、渡る手段が船しかなかった昭和時代は容易く欠航にされては困るという風潮もあったらしい。 (昭和時代の村営連絡船「あおがしま丸」も三宝港が無茶な状態でも無理やり就航)
千人以上も乗せた洞爺丸が青森に向かう津軽海峡で転覆する事故が発生。戦前に出ていた本州と北海道を結ぶトンネル構想は早期実現が必要だと、ようやく重たい腰を上げ、1964(昭和39)年5月、北海道側吉岡調査斜坑の着工にこぎつけ。 20年以上もわたり、海底工事中に水が浸水するなどの難工事と挫折を繰り返し、1985(昭和60)年3月には本坑全開通。その後、試運転を繰り返し、3年後の昭和63年3月13日、ついにJR北海道・海峡線として営業開始。
パンフレットを見ながら文章を作ったので、たぶん、案内人も同じようなことを言っていたかも知れません。
江差線の文字が見えますが、来年(2014年)5月になれば消滅。
工期20年以上。
本州と北海道は昭和39年に着工したトンネル。本州と四国は、昭和53年に着工したJR線と高速道路併用型の瀬戸大橋。日本の国際的技術水準は世界レベルだと垣間見できる空間。
昭和39年から始まった工事が昭和60年に本坑全開通できたときの喜びは計り知れないかも・・・。