7月4日未明から降り続いた大雨により「球磨川」が氾濫し、大きな被害をもたらした。
「球磨川」は、一級河川。
一級河川と二級河川の違いは?
河川は上流部から小さな河川が合流し、この合流を繰り返しながら徐々に海へ向かうにしたがい、大きな河川となっていきます。これら一群の河川を合わせた単位を「水系」と呼んでいます。
1965年に施行された河川法によって、国土保全上又は国民経済上特に重要な水系で政令で指定されたものを「一級水系」と呼んでいます。一級水系に係る河川のうち河川法による管理を行う必要があり、国土交通大臣が指定(区間を限定)した河川が「一級河川」です。「二級河川」は、一級水系以外の水系で公共の利害に重要な関係があるものに係る河川で、河川法による管理を行う必要があり、都道府県知事が指定(区間を限定)した河川です。
一級河川と二級河川とは、水系が違うので、同じ水系内に一級河川と二級河川が併存することはありません。このため埼玉県や滋賀県などには、二級河川がありません。一般的には、一級河川の方が規模も大きく、洪水等による災害が発生した場合の被害が大きいといえます。
一級河川、二級河川のほか、市町村長が指定した「準用河川」があります。これら以外の河川は「普通河川」とよばれていますが、これは河川法上の河川ではありません。 ところで、一級水系の定義で、「国土保全上」とは、洪水、高潮等の災害が発生した場合に想定される人命、財産等の被害が大きく、この防止が国家的な見知から治水上重要であることを意味し、「国民経済上」とは、上水道、工業用水道、灌漑、発電など河川の利用の影響度が一地方の経済にとどまらず、国家的に見て大きいものであることを意味します。このように治水上又は利水上特に重要な水系については、国において管理することが望ましいため、一級水系に指定されます。
二級河川の定義で、「公共の利害」とは、国土保全上又は国民経済上という利害の及ぼす影響について量的な差異があるのみで、質的な差異はありません。 河川は上流部から小さな河川が合流し、この合流を繰り返しながら徐々に海へ向かう にしたが い、大きな河川となっていきます。これら一群の河川を合わせた単位を「水系」といっています。
*https://www.mlit.go.jp/river/basic_info/iken/question/faq_index.html より
この「球磨川」は、熊本県南部の人吉盆地を貫流し川辺川をはじめとする支流を併せながら八代平野に至り八代海(不知火海)に注ぐ一級河川で、球磨川水系の本流である。熊本県内最大の川であり、最上川・富士川と並ぶ日本三大急流の一つでもある。
かつては人吉から八代まで巨岩がひしめく急流が続き水運に利用するのが難しかったが、相良氏22代当主相良頼喬の叔父で丹波篠山出身の林正盛が、1662年(寛文2年)から私財を投げうって開削事業に着手、無数の巨岩を取り除く難工事の末、1665年(寛文5年)には川舟の航行が可能な開削が完成した。以来、球磨川は外部との交通・物流の幹線として、また参勤交代にも利用され、人吉・球磨地方の発展に多大な貢献を果たした。
肥薩線の開業、道路の整備、森林業の衰退、ダム建設等のため、球磨川の水運は縮小し、現在は観光用の川下り船の運航程度である。しかし、川の水は、流域内の約14,000ha(ヘクタール)に及ぶ耕地の農業用水や、八代平野の臨海工業地帯で紙・パルプや金属加工製造業などの工業用水、流域内の20箇所で行われている水力発電等などに利用されている。
八代海に注ぐ河口付近には1,000haを超す干潟が形成されており、日本の重要湿地500に選ばれている。一年を通して野鳥が飛来し、その種類は90種類以上となることから、バードウォッチングが盛んであり、重要野鳥生息地(IBA)にも指定されている。
「球磨川」の支流は、「川辺川」が最大。
川辺川とは「人吉」で合流する。
今回の氾濫地域は、元々想定されていた地域。*http://www.qsr.mlit.go.jp/yatusiro/bousai/kuma_shinsui.html
ここからは仮定の話だが、もし「川辺川ダム」があったなら・・・
ここまでは7月の氾濫から1週間以内に書いていた。
しかし、この「氾濫の原因と今後について」のことがたぶん話題になると思って放置していた(笑
ようやくいろいろなことがわかってきた。
まず「川辺川」について。
「川辺川」は、球磨川水系最大の支流で熊本県を流れる「一級河川」。
そしてその上流には「川辺川ダム」の計画が以前あった。
きっかけは1965年7月3日の大洪水で、81世帯が家を失い、半壊984戸、床上浸水1433戸(死傷者数は未発表)にのぼったことだった。
翌年、国が九州で最大級のダムをつくる計画を発表。*長周新聞2020年7月12日 より
「川辺川ダム」は当初1976年(昭和51年)の完成を目標としていたが、その後の事業変更で1981年(昭和56年)、1993年(平成5年)、2000年(平成12年)そして2008年(平成20年)の完成目標へと四度も完成予定を延期させていった。
用地取得・家屋移転・代替地造成は2013年時点で98パーセント以上が完了し、付替道路については90パーセントが完了しているが、関連工事として仮排水トンネルが1999年に完成しているとはいえ、ダム本体工事には着手できていない。その原因は強固な反対運動が長年続いているためである。九州地方におけるダム反対運動としては1958年から13年にわたって続いた大分県・熊本県の松原ダム(筑後川)・下筌ダム(津江川)反対運動である「蜂の巣城紛争」が有名であるが、川辺川ダムのそれは蜂の巣城運動を遥かに超える40年近くもの反対運動が続いている。このため一向に本体工事に着手できないダム事業の代名詞として「東の八ッ場、西の川辺川」と関係者の間ではささやかれている。
川辺川ダム建設計画がここまで膠着した状況に陥っている要因として、一つは「ダム事業により生じる補償案への賛否」、二つ目には「ダム事業そのものに対する賛否」、そして「ダム建設に基づく利水計画への賛否」が複雑に絡み合っていることが挙げられる。
その後いろいろあって(ありすぎだが)、2008年の知事の意見表明を受け、川辺川ダムは現行の計画を進めることが極めて難しくなった。当時の国土交通事務次官である春田謙は知事の意見表明を受けた記者会見で「ダムがなくても治水対策がとれるかどうか詰めなければならない」として治水計画の抜本的見直しに言及し、当時の内閣総理大臣であった福田康夫も「地元の考え方は尊重されるべきこと」と発言する など、現在のダム計画から大きくシフトした治水計画となることは必至と見られていた。しかし一方で春田事務次官は同じ会見の席で「河川環境も大事だが、治水の問題が第一」とも述べており、この時点で川辺川ダム事業を完全に放棄したわけではないという立場も示していた。
そのような中、2009年に行われた第45回衆議院議員総選挙において民主党はマニフェストに「八ッ場ダムと川辺川ダムの建設中止」を明記。選挙の結果、民主党が第一党となって政権交代となり鳩山由紀夫内閣が発足、国土交通大臣に就任した前原誠司は9月17日の記者会見で「(利水、発電、治水という)当初の3つの大きな目的のうち(利水、発電の)2つがなくなった。事業を見直すのが当たり前」と述べ、川辺川ダム建設事業の中止の意向を明言、鳩山由紀夫首相も同様の意見表明を行った。その後の国交大臣に就任した馬淵澄夫も川辺川ダム中止方針を踏襲したことにより、川辺川総合開発事業の全面的見直し、すなわち川辺川ダム建設事業の中止が決定した。*Wikipedia より
つまり「政争の具」となり計画は中止となった。
で、この有様。
長年にわたる「建設賛否の協議」は、「(当時の)政権の意向」によって中止されたが、「結果論」だったかもしれない。
でも「結果論」とはいえ、もしという仮定の上での話だが、「川辺川ダム」があったら「(ここまで大きな被害は)防げた」という結論が出された。
ただ一方で、7月豪雨以上の雨量が降った(これまた仮定)なら、ダムがあってももっと大きな被害がと・・・
政治家並びに専門家は、今後もっと多くの議論をすべきだろう。
「人の命は何事にも代えられない」
といいつつ、「莫大な費用」をかけることに疑問符がつくことだろう。
「球磨川」は、一級河川。
一級河川と二級河川の違いは?
河川は上流部から小さな河川が合流し、この合流を繰り返しながら徐々に海へ向かうにしたがい、大きな河川となっていきます。これら一群の河川を合わせた単位を「水系」と呼んでいます。
1965年に施行された河川法によって、国土保全上又は国民経済上特に重要な水系で政令で指定されたものを「一級水系」と呼んでいます。一級水系に係る河川のうち河川法による管理を行う必要があり、国土交通大臣が指定(区間を限定)した河川が「一級河川」です。「二級河川」は、一級水系以外の水系で公共の利害に重要な関係があるものに係る河川で、河川法による管理を行う必要があり、都道府県知事が指定(区間を限定)した河川です。
一級河川と二級河川とは、水系が違うので、同じ水系内に一級河川と二級河川が併存することはありません。このため埼玉県や滋賀県などには、二級河川がありません。一般的には、一級河川の方が規模も大きく、洪水等による災害が発生した場合の被害が大きいといえます。
一級河川、二級河川のほか、市町村長が指定した「準用河川」があります。これら以外の河川は「普通河川」とよばれていますが、これは河川法上の河川ではありません。 ところで、一級水系の定義で、「国土保全上」とは、洪水、高潮等の災害が発生した場合に想定される人命、財産等の被害が大きく、この防止が国家的な見知から治水上重要であることを意味し、「国民経済上」とは、上水道、工業用水道、灌漑、発電など河川の利用の影響度が一地方の経済にとどまらず、国家的に見て大きいものであることを意味します。このように治水上又は利水上特に重要な水系については、国において管理することが望ましいため、一級水系に指定されます。
二級河川の定義で、「公共の利害」とは、国土保全上又は国民経済上という利害の及ぼす影響について量的な差異があるのみで、質的な差異はありません。 河川は上流部から小さな河川が合流し、この合流を繰り返しながら徐々に海へ向かう にしたが い、大きな河川となっていきます。これら一群の河川を合わせた単位を「水系」といっています。
*https://www.mlit.go.jp/river/basic_info/iken/question/faq_index.html より
この「球磨川」は、熊本県南部の人吉盆地を貫流し川辺川をはじめとする支流を併せながら八代平野に至り八代海(不知火海)に注ぐ一級河川で、球磨川水系の本流である。熊本県内最大の川であり、最上川・富士川と並ぶ日本三大急流の一つでもある。
かつては人吉から八代まで巨岩がひしめく急流が続き水運に利用するのが難しかったが、相良氏22代当主相良頼喬の叔父で丹波篠山出身の林正盛が、1662年(寛文2年)から私財を投げうって開削事業に着手、無数の巨岩を取り除く難工事の末、1665年(寛文5年)には川舟の航行が可能な開削が完成した。以来、球磨川は外部との交通・物流の幹線として、また参勤交代にも利用され、人吉・球磨地方の発展に多大な貢献を果たした。
肥薩線の開業、道路の整備、森林業の衰退、ダム建設等のため、球磨川の水運は縮小し、現在は観光用の川下り船の運航程度である。しかし、川の水は、流域内の約14,000ha(ヘクタール)に及ぶ耕地の農業用水や、八代平野の臨海工業地帯で紙・パルプや金属加工製造業などの工業用水、流域内の20箇所で行われている水力発電等などに利用されている。
八代海に注ぐ河口付近には1,000haを超す干潟が形成されており、日本の重要湿地500に選ばれている。一年を通して野鳥が飛来し、その種類は90種類以上となることから、バードウォッチングが盛んであり、重要野鳥生息地(IBA)にも指定されている。
「球磨川」の支流は、「川辺川」が最大。
川辺川とは「人吉」で合流する。
今回の氾濫地域は、元々想定されていた地域。*http://www.qsr.mlit.go.jp/yatusiro/bousai/kuma_shinsui.html
ここからは仮定の話だが、もし「川辺川ダム」があったなら・・・
ここまでは7月の氾濫から1週間以内に書いていた。
しかし、この「氾濫の原因と今後について」のことがたぶん話題になると思って放置していた(笑
ようやくいろいろなことがわかってきた。
まず「川辺川」について。
「川辺川」は、球磨川水系最大の支流で熊本県を流れる「一級河川」。
そしてその上流には「川辺川ダム」の計画が以前あった。
きっかけは1965年7月3日の大洪水で、81世帯が家を失い、半壊984戸、床上浸水1433戸(死傷者数は未発表)にのぼったことだった。
翌年、国が九州で最大級のダムをつくる計画を発表。*長周新聞2020年7月12日 より
「川辺川ダム」は当初1976年(昭和51年)の完成を目標としていたが、その後の事業変更で1981年(昭和56年)、1993年(平成5年)、2000年(平成12年)そして2008年(平成20年)の完成目標へと四度も完成予定を延期させていった。
用地取得・家屋移転・代替地造成は2013年時点で98パーセント以上が完了し、付替道路については90パーセントが完了しているが、関連工事として仮排水トンネルが1999年に完成しているとはいえ、ダム本体工事には着手できていない。その原因は強固な反対運動が長年続いているためである。九州地方におけるダム反対運動としては1958年から13年にわたって続いた大分県・熊本県の松原ダム(筑後川)・下筌ダム(津江川)反対運動である「蜂の巣城紛争」が有名であるが、川辺川ダムのそれは蜂の巣城運動を遥かに超える40年近くもの反対運動が続いている。このため一向に本体工事に着手できないダム事業の代名詞として「東の八ッ場、西の川辺川」と関係者の間ではささやかれている。
川辺川ダム建設計画がここまで膠着した状況に陥っている要因として、一つは「ダム事業により生じる補償案への賛否」、二つ目には「ダム事業そのものに対する賛否」、そして「ダム建設に基づく利水計画への賛否」が複雑に絡み合っていることが挙げられる。
その後いろいろあって(ありすぎだが)、2008年の知事の意見表明を受け、川辺川ダムは現行の計画を進めることが極めて難しくなった。当時の国土交通事務次官である春田謙は知事の意見表明を受けた記者会見で「ダムがなくても治水対策がとれるかどうか詰めなければならない」として治水計画の抜本的見直しに言及し、当時の内閣総理大臣であった福田康夫も「地元の考え方は尊重されるべきこと」と発言する など、現在のダム計画から大きくシフトした治水計画となることは必至と見られていた。しかし一方で春田事務次官は同じ会見の席で「河川環境も大事だが、治水の問題が第一」とも述べており、この時点で川辺川ダム事業を完全に放棄したわけではないという立場も示していた。
そのような中、2009年に行われた第45回衆議院議員総選挙において民主党はマニフェストに「八ッ場ダムと川辺川ダムの建設中止」を明記。選挙の結果、民主党が第一党となって政権交代となり鳩山由紀夫内閣が発足、国土交通大臣に就任した前原誠司は9月17日の記者会見で「(利水、発電、治水という)当初の3つの大きな目的のうち(利水、発電の)2つがなくなった。事業を見直すのが当たり前」と述べ、川辺川ダム建設事業の中止の意向を明言、鳩山由紀夫首相も同様の意見表明を行った。その後の国交大臣に就任した馬淵澄夫も川辺川ダム中止方針を踏襲したことにより、川辺川総合開発事業の全面的見直し、すなわち川辺川ダム建設事業の中止が決定した。*Wikipedia より
つまり「政争の具」となり計画は中止となった。
で、この有様。
長年にわたる「建設賛否の協議」は、「(当時の)政権の意向」によって中止されたが、「結果論」だったかもしれない。
でも「結果論」とはいえ、もしという仮定の上での話だが、「川辺川ダム」があったら「(ここまで大きな被害は)防げた」という結論が出された。
ただ一方で、7月豪雨以上の雨量が降った(これまた仮定)なら、ダムがあってももっと大きな被害がと・・・
政治家並びに専門家は、今後もっと多くの議論をすべきだろう。
「人の命は何事にも代えられない」
といいつつ、「莫大な費用」をかけることに疑問符がつくことだろう。
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