富田林百景+ 「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!「ええとこ富田林」

大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

〈リバイバル・アーカイブス〉寺内町の煉瓦塀

2019年05月29日 | 私の富田林百景

〈リバイバル・アーカイブス〉2022.11.28~12.12

原本:2019年5月29日

 興正寺別院 城之門筋・堺町

富田林寺内町(富田林市富田林町)には、明治期に造られた煉瓦構造物が今もたくさん残っています。

まずは町の中央、興正寺別院から。本堂の上がるところに煉瓦が敷きつめられています。

 

 モルタルが塗られていたようですが、だいぶん剥がれてきています。 

 

 「富田林開基證秀上人紀念碑」前の通路の煉瓦

紀念碑は、明治28年(1895)、富田林村の初代村長の仲村一郎氏が富田林の繁栄は、この地を開発した証秀(しょうしゅう)上人のおかげであると考え、紀念碑をここに建之されました。

本堂は大阪府で現存する一番古い真宗本堂。寛永十五年(1638)、となりまちの新堂大工町の記録が残ります。

新堂の大工町の大工さん、江戸初期には80名もいたそうですが、国宝の観心寺金堂での豊臣秀頼の慶長の修理にも参加し、柏原の安福寺や近隣のお寺を数多く建立した大工集団です。

 

 

 万里春(ばんりのはる)酒造の酒蔵 東筋南会所町

江戸中期には多い時で7軒近くあった富田林の造り酒屋。明治期に起業し最後まで酒造りをしていた万里春酒造。

酒造りの時期には酒蔵の窓からお酒の甘い香りが昭和57年頃まで漂っていました。

富田林の酒造りについては ここをクリック

富田林の酒造家の年表については ここをクリック

 

 酒蔵の敷石脇に敷きつめられた煉瓦

 

 このように道路沿いの酒蔵に敷かれた敷煉瓦。よく見ると...

 

煉瓦には刻印が...

〓を左右にずらした記号の刻印。これは堺市少林寺町の丹治煉瓦合資会社の社章に酷似。

 

 これは十字のマークですね。

「×」のマークは岸和田煉瓦の社章。元岸和田藩士である山岡尹方(やまおかただかた)が、明治20年(1887)年に第一煉瓦製造会社として設立しました。山岡がキリスト教信者だったため、「×(クロス)」の刻印が刻まれています。共同出資者の一人には有名な寺田財閥の寺田甚与茂(てらだじんよも)がいます。

 

越井家住宅 東筋・北会所町

明治末期に建てられた黒漆喰、むくり屋根、八棟造りの重厚な母屋

 

 黒漆喰の長大な米蔵

 

 見越しの松が顔を覗かせる巨大な煉瓦塀

 

 

 明治期にイギリス積みで積まれています。

 

 煉瓦の腹には刻印

「ハ」の字の刻印は、どの製造所のものかわかりませんでした。

 

 

(北)越井家住宅 亀ヶ坂筋・富山町

東高野街道の一里塚や高札場のあった一里山口近く、越井家住宅と並んで建っています。

 

 北越井家の巨大な煉瓦の基礎 ここもイギリス積みです。

北側は寺内町の境となっており、谷川が東に流れています。開析されて深く削られた谷には、江戸期には寺内町の北側の濠の水や「悪水」が排水されてきました。

 

 別の角度から見ると、地下室のようにも見えます。

 

 

薬師堂 富筋・南会所町

ご近所の方に慕われている薬師さまがおられる薬師堂。早朝よりお花の水替えやお掃除されているのを目にします。

 じないまち薬師堂の説明 2016.5.19.

 

 ところでここにも煉瓦塀があります。おとなりの葛原家の納屋との間に造られた煉瓦塀。

 

 

山中田(やまちゅうだ)坂 

千早街道、観心寺道など、石川の東地区や大和地方(水越越え)につながる重要な街道の出口でした。天保期には門が設置されたこともありました。

 

 坂を降りてすぐ左側、今は駐車場となっている法面の新しい施行の壁の下、基礎部分に煉瓦が積まれています。モルタルで表面加工したのが剥がれているようにも見えます。積み方は長手積みです。

 

 

本町公園 市内本町8

近鉄 富田林駅より南へ寺内町方向に200m程進むと右手に本町交番見えてきて、隣に本町公園があります。

ここは富田林にゆかりのある石上露子の歌碑や織田作之助の記念碑があります。

 

 この公園の南面に煉瓦塀がありました。

明治41年(1908)にここに富田林警察が富田林町(旧寺内町の富田林保育園のところ)より移転して来た時に作られたもので、イギリス積みの当時の煉瓦積みの面影をよく残していました。

ありましたと過去形になっているのは、今年2月に強度に問題のあるブロック塀・煉瓦塀の改修を進めている富田林市により改修工事が行われたからです。

 

 公園とよくマッチしたこの煉瓦塀を惜しむ市民の方もおられ、文化財課の協力を得て、地元住民と協議のうえ、今年3月には写真の通り、保存と安全性の両立という観点から、地面から1.2m(公園側からは50cm)残して、割竹風の垣根で仕切る内容に変更していただきました。

よみがえった煉瓦塀、垣根とよくマッチングしています。

関連記事:生き残った煉瓦塀 2019.3.19.

 

 公園の周りの基礎部分もイギリス積みの煉瓦

 

平尾街道(富田林街道)沿いに残っていた煉瓦塀 富田林市本町5

モルタルで上塗りの中に煉瓦が見えます。花崗岩の基礎石とつっかえが年代を感じさせる煉瓦塀でしたが、昨年撤去されました。

 

 積み方はイギリス積みではなく、変則の長手積みのようです。

 

 

本町の越井家住宅 富田林市本町15

 粋な黒塀と見越しの松、黒漆喰の本二階が美しい。

 

反対側は巨大なイギリス積みの煉瓦塀

 

そして、戌亥(いぬい)蔵の横にも煉瓦塀

 

深瀬家の煉瓦塀 富田林本町16

日本の城郭建築技術(石積み)である、算木積みと、

西洋の煉瓦積みの技術である、イギリス積みを融合した折衷様が見事です。

 

深瀬家の煉瓦塀から覗く一輪の赤い花 2018.8.2.

「じないまち煉瓦塀めぐり」については ここをクリック

関連記事(寺内町):

 路傍の石 - 富田林じない町 2015.6.28.

 じないまちのカモフラ 2014.8.24.

 寺内町の牛乳箱 2014.8.10.

撮影:2019年3月22日、25日、5月29日ほか

 2019年5月29日 (HN:アブラコウモリH )

 


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