2023年9月21日 15:48 富田林市別井五丁目 千早川沿いの氾濫原の田んぼ。標高65m
稲穂と彼岸花。河岸段丘崖の竹藪がきれいです。
見に行ったのが早くてまだつぼみの花が多かったようです。
田んぼの向こうに南別井(べっつい)の墓地が見えます。農業用水は上流の千早川に井堰を築き、井路により運ばれてきます。
2023年9月30日 15:43 北別井(別井一丁目)畑田井路
そこで9月30日に再度訪問しました。河岸段丘面の井路の彼岸花。標高72m。
ここの農業用水ははるか3.4km上流の千早川の畑田井堰で取水して運ばれてきます。
南別井(別井三丁目)の慈眼寺(じげんじ)近くの井路の彼岸花。標高79m。
南別井(別井五丁目)の井路の彼岸花。
寅ケ池行く河南京街道沿いの彼岸花。標高82m。
このあたりはおごろ(もぐら)除けのために、彼岸花がたくさん植えられています。
この道をまっすぐ行くと寅ケ池にぶつかります。
この周辺の田んぼは律令時代(飛鳥~奈良時代)に正方位条里地割が施行され、一辺一町(約109m)の坪並が良く残っています。
大阪府南部の条里地割についてはここをクリックしてください。
旧石川郡の正方位地割については ここをクリックしてください。
条里地割の説明については ここをクリックしてください。
そして空中写真で見ると坪並は南北を基調とした半折型地割であることも解ります。
別井地区の空中写真はここをクリックしてください。
1300年前からある道で、後の時代に千早赤阪村水分方面から、河南台地をまっすぐ下り、別井→大ケ塚→大黒→古市と結んで、東高野街道に合流する河南京街道として利用されました。おそらく楠木正成も表街道として利用したものと思われます。
河南京街道については ここをクリックしてください。
遠くに寅ケ池の堤防が見えます。寅ケ池は江戸期元禄時代に南北別井と下手の山城(やましろ)村の水不足を解消するために作られた溜池(皿池)です。この地区は井路の一番下手に当たり畑田三郷と呼ばれ、よく日照りに見舞われた地域でした。
下手より見ると、寅ケ池の堤防は数メートルの高さがあります。
この水源は河南台地の西半分の農業用水として作られ、各村の田んぼを潤す畑田井路の水を使っています。畑田井路はここ河南台地(中位河岸段丘)には農業用水に利用できる自然の川がないので、はるか3.4km上流の千早川に水を求めて畑田井堰を築き、西半分の各村の田んぼを潤している井路です。
井堰の水の利用は上流の村が有利で、日照りの時は下手の村がその影響を受けやすいのは自然の理です。
寅ケ池の築造に当たっては、となりの寺田村から猛反対があり、京都町奉行所において裁判が続けられたが、双方の言い分は真っ向から対立してなかなか解決に至りませんでした。
最終的に大坂谷町の虎屋七兵衛という商人が挨拶人となり、元禄十一年に両者の和談が成立しました。
晴れて溜池は完成し、虎屋の名前を取って「虎ケ池」と命名されました。現在は「寅ケ池」と呼ばれています。
金剛山(左)と葛城山の眺望がすばらしいです。
西の方を眺めると嶽山と正面小さく和泉山脈が望めます。
別井は富田林の米どころの一つですが、水をめぐって多くの苦難を乗り越えてきた歴史があります。
まもなく秋祭りですが、両別井は建水分神社に宮入りします。毎年この神社にはなんと18台の地車が宮入りします。
宮入り順は、原則的に「水上順」として、神社を起点に川上から川下へと決められています。
つまり、①水分 ②森屋 ③川野辺 ④二河原辺 ⑤桐山 ⑥芹生谷 ⑦中 ⑧神山 ⑨寛弘寺 ⑩白木 ⑪長坂 ⑫今堂 ⑬南別井 ⑭北別井 ⑮寺田 ⑯南加納 ⑰北加納 ⑱東板持 ⑲下河内。
別井の町の真ん中を畑田井路と河南京街道が通ります。その傍らに、灯籠三兄弟。左は「竿」に「日本大小神祇」、真ん中は「基礎」に「伊勢講中」、右は「基礎」に「長谷講中」と彫られています。
つまり左から「八百万(やおよろず)の神の灯籠」、「伊勢灯籠」、「長谷(寺)灯籠」です。
〈三連灯籠についてはここをクリックしてください〉
水路の際にも彼岸花。
南北別井の真ん中を南北にとおる河南京街道の起源は、もともと1300年前の律令時代の正方位条里にあります。この時代に富田林市の北部、河南町、千早赤阪村の南部の広い範囲に渡り、区画を整備して、あぜ道の南北に通し、水を曳き、田んぼの水準を整えた郡司(地方官、世襲制で地方の有力豪族が任命された)は誰なのでしょうか?
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