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大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

2024年度 第3回(通21)とんだばやし観光会まち巡り「絵図で歩く富田林寺内町」2024.7

2024年08月14日 | とんだばやし観光会

2024年7月21日 8:42 

富田林観光ボランティア とんだばやし観光会の今年の第3回目は「絵図で歩く富田林寺内町」。

 

7月の暑い日でしたので、参加者は少ない目の10名。

「絵図で歩く富田林寺内町」は富田林市指定文化財第1号の絵図で、江戸時代中期から後期の富田林村絵図7枚です。絵図の記載された場所を巡ります。

 

寺内町の北の入口(三昧口) 本町地蔵 2班に別れて出発です。

 

昔の濠の上を歩きます。現在は暗渠になっています。

 

北口地蔵のある巡礼街道の出口 巡礼街道は西国4番札所 槇尾山施福寺と5番 葛井寺を結びます。

 

念西口 町の出入口は三叉路か屈曲しています。ここは日本に道百選の「城之門筋」。ここへ入ると時代が変わったような気がします。

 

城之門筋には入らず、濠に沿って歩きます。濠は寺内町の北側を弓なりに曲がって進みます。

 

一里山口 東高野街道の出口 

昔はここに門がありました。そして一里塚と高札場もありました。

 

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「年代不詳 宝暦十年(1760)~明和三年(1766)カ」の絵図右上に一対の一里塚と高札場が描かれているのが解ります。

 

高札場の近く公園に高札場ふうの案内板が設置されています。

 

富田林街道 山中田坂を下ります。

山中田口は寺内町の東の玄関口。堺から富田林を経由して、石川を渡り、河南町寛弘寺、千早赤阪村森屋、水越峠、御所市名柄と進み、最終的に下街道に至ります。

 

比高10m。崖の上が富田林寺内町。

 

下の河川敷を進みます。ここが亀ヶ坂。

 

河川敷にある富田林町公園。

江戸中期の安永年間はここまで石川が蛇行して流れていたことの解説。

 

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石川が亀ヶ坂の階段を降りたところまで来ていたのがわかる安永七年(1778)の絵図です。

 

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付箋の部分に変更した流路が描かれていて、付箋をめくると以前の流れと竹藪が描かれています。おそらく絵図を描いた後の大水が出て流路が変わり、付箋を付け足したのではないでしょうか?

 

公園には石上露子の小板橋の碑があります。

 

さらに進み、山ケ坂。寺内町四坂のうち最も原始的な急坂です。

 

竹藪が残ります。昔は富田林から喜志までの河岸段丘面は竹藪で覆われていましたが、現在ではここと中野自然緑地公園など2、3ヶ所しか残っていません。真竹の竹藪。

 

小板橋跡

この竹藪の崖面よりに引き込まれた水路がかつて存在し、そこに木橋の「小板橋」があったようです。石上露子の長詩「小板橋」です。

 

河岸段丘の坂をまた上がって向田坂口。これで4坂を巡りました。写真左が急坂の東高野街道。右のまっすぐの道が明治の始めにできた新道。

 

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宝暦三年(1753)の絵図では4つの坂が描かれています。

 

そしてここには天保期に門がありました。向田坂門です。仲村家文書『年中録』によると、杉山長左衛門の寄進とあります。

 

向田坂門は現在は南大伴 旧円照寺(岡田家住宅)にあり、富田林村にあった門で唯一現存しています。(以前撮った写真)

 

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天保八年(1837)の絵図では村の入口に初めて4つの門が描かれています。

また、前述『年中録』においては、天保八年に町内の有力者によってそれぞれ12の門を寄進と記されています。しかし、どこまで完成したかという記述はありません。そして、『南河内東部教育会 郷土史の研究』においては、「用心門―天保の初め、各地に騒動起こりし故、用心のため、富田林村の入口八ケ所に大小の門を建造し、夜は閉じて、通行を禁じた。」とあります。

 

町の南西の入口には道標があります。これが富田林市で一番古い宝暦元年(1751)の道標です。

「左 ふし井寺道 / 右 まきの尾 高野山 道」と巡礼街道の行先を示す道標ですが、他の道標と少し異なる点があります。

 

「町中くわえきせる、ひなわ火無用」の道標がです。町を行き交う人々に防火をよっびかけます。この道標は享保の毛人谷・富田林村の大火の後、21年を経た宝暦元年(1751)に建てられました。

 

 

 

城之門筋まで進み、富田林御坊、興正寺別院に到着しました。

浄土真宗興正派 。応永年間(1394~1412)に毛人谷(えびたに)に御坊草創。(毛人谷地区の小字に「古御坊」と出てきます。)

永禄3年(1560)寺内町建設時に、興正寺第16世証秀上人が現在地(城之門筋・堺町)に移し、興正寺別院を中心として真宗系計画的自治自衛都市(寺内町)を建設しました。

本堂(御堂)は寛永15年(1638)再建。富田林の新堂大工町の新堂組大工の製作。外陣が内陣に比して大きいようです。浄土真宗の寺院本堂としては大阪府内で最古の建造物です。

 

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「年代不詳 天保八年(1837)カ」の絵図にも興正寺別院の伽藍配置が丁寧に描かれています。

 

山門は桃山調の薬医門で、もと伏見城の城門であったと伝わります。後、興正寺(京都)北門として移築され、さらに安政4年(1857年)に興正寺別院に再移築されたことが、資料により確認されています。

城門であった為、通常の寺院山門に比べて建物規模が大きいのが特徴で、馬に跨って通行できる高さを確保したものと言われています。本堂のほか山門・鐘楼含め、国の重要文化財となっています。

 

事前にご住職にお願いして、本堂の参拝をさせていただきました。本尊は阿弥陀如来立像 。伝鎌倉末ですが、江戸前期の説もあります。

 

右側 「松図」

江戸前・中期の狩野派画家、後に御用絵師の狩野寿石敦信(初名 秀信)筆の襖絵である、「松図」と「竹梅図」があります。

松図の右端下に「狩野寿石筆」の墨書と朱印があります。寿石は後に江戸城松の廊下の襖絵を描いた有名な狩野派御用絵師ですが、どうも江戸に下る前は京都に住んでいて、本堂が寛永15年(1638)再建された後、わざわざここに来て描いたようです。

 

左 「竹梅図」

「富田林興正寺別院伽藍総合調査書」によれば、寿石は元禄十年(1697)、京都から江戸に下り、同十三年に浅草猿屋町に屋敷を拝領、正徳元年(1712)には五人扶持を与えられました。幕府より建設された江戸城、大坂城、二条城、内裏、仙洞御所などの障壁画制作に参加し、幕府から朝鮮へ贈る屏風も制作しました。以後敦信の家系は猿屋町代地狩野と呼ばれ、「奥絵師」に次ぐ「表絵師」の家系として幕末まで続いたようです。

江戸時代の狩野派は、狩野家の宗家を中心とした血族集団と全国にいる多数の門人からなる巨大な画家集団であり、ピラミッド型の組織を形成していました。「奥絵師」と呼ばれるもっとも格式の高い4家を筆頭に、それに次いで格式の高い「表絵師」が約15家あり、その下には公儀や寺社の画事ではなく、一般町人の需要に応える「町狩野」(旧杉山家住宅の襖絵・障壁画はおそらく「町狩野」)が位置するというように、明確に格付けがされ、その影響力は日本全国に及んでいたということです。

〈リバイバル・アーカイブス〉【長編】旧杉山家住宅の障壁画と襖絵、板戸絵 2023.6.23

 

筍で有名な「孟宗」

真宗寺院の本堂の蟇股によくある彫刻。中国の儒教説話「二十四孝」。

 

二十四のうち8つの説話が彫られています。

富田林市はほかにも、専光寺(若松町)、円光寺(若松町)、月光寺(喜志宮)、正信寺(喜志大深、ここは欄間)にもあります。

二十四孝の彫刻は特に南河内・和泉地方に多く、北河内・摂津に少ないようです。江戸期に幕府の儒教奨励政策もあって流行したようです。ですから江戸期以前に造られた真言宗などの寺院では見る事ができません。

 

旧西野薬局

亀ヶ坂筋に残る大正・昭和の始めの洋館作りの建物。この界隈にあと2軒残ります。「紋屋(モンヤ)」澤武・船内家住宅と中内眼科医院(旧国分銀行の本社屋)です。

じないまち 大正ロマン~洋館めぐり 2022.9.6 

 

昨年11月にオープンしたバンリノハルビアホール。

かつて江戸時代、河内で一番の日本酒の大産地であった「富田林」では、俗謡に「富田林の酒屋の井戸は底に黄金の水が湧く。」と詠われました。その流れを汲む、万里春酒造は最後の造り酒屋として、昭和58年まで日本酒を造っていました。

「その黄金の水」をたたえる井戸は今も健在で、クラフトビールの仕込みに使われています。

 

すぐ隣でビールが醸造されていますので、作りたてのビールが楽しめます。約10種の「黄金の水」の自家製クラフトビールを品揃え。

私はアルコールはからきしダメですが、ビール通の知り合いに言わせると、すごくおいしいとのこと。

今回はまち巡りで、開店前にお許しを得てお邪魔しましたので、ビールでの乾杯はなし。残念でした。改めておうかがいします。

 

この大きなホールがかつての酒蔵です。60年前、私が小学生の頃この酒蔵を通るとなんともいいお酒の香りが酒蔵の通気口から漂っていました。

 

お酒を造っていた頃の「万里春」の一合瓶。「聖丘 万里春」はPL御用達の銘柄。桜が描かれています。(以前に撮った写真)

 

今度は亀ヶ坂を降りてみました。前方に石川が見えます。宝永年間(江戸中期)にはこの下まで川筋が来ていました。

 

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「年代不詳」(おそらく江戸後期)の絵図

この亀が坂を下りたところは江戸中期の宝永期(1704~1711)以降はすぐ川岸になっていて木橋が架けられていたことが絵図で分かります。

ちなみにこの絵図では興正寺別院と妙慶寺の位置が一筋間違っています。こういうミスもあるんですね。

 

浄土宗 天正山西方寺に到着。

富田林の民話「仏と腹痛武士」が伝承されています。

『豊臣秀吉の家来の伊藤左馬という狩りの上手な侍が西方寺の近くを通ったおり、たまたま獲物が全く取れない腹いせに、ゴーンとなった鐘の音に腹を立ててお寺の仏像を家来に命じて残らず寺の池に投げ込んでしまいました。ところが急に左馬が腹痛で苦しみ出し、沈んだ仏像が頭に浮かんできたので、すぐに家来に命じて仏像を元に戻すと腹痛がうそのように快方に向かいました。その後左馬はここに立派な堂宇を建てて、天正山西方寺と名付けたそうです。西方寺は富田林寺内町の南西の毛人谷と富田林の水が集まる谷川のほとりにあります。』

 

西方寺の境内ある与九郎稲荷

また富田林の民話「碁の上手なきつね」の舞台でもあります。

『西方寺の境内にある「与九郎稲荷」。ご住職と碁を打った「碁の上手なきつね」の伝承があります。碁の上手な狐が「与九郎」という老人に化けて、西方寺の住職らと毎夜、寺で碁を打っていました。ある日「きつね」であることがばれてしまい、負かされた留吉と与八はとても腹をたて罠を仕掛け、それにかかり死んでしまいました。可哀そうに思った住職は、祠を建てて冥福を祈りました。それが西方寺の与九郎稲荷です。』

 

河岸段丘の坂をまた登り、浄谷寺に向かいます。

 

蓮の花が咲く融通念仏宗 半偈山三仏院 浄谷寺。

富田林寺内町地区にある、融通念仏宗の寺院。つまり、真宗の計画都市である寺内町に他宗の寺院が存在することになります。寺伝によると、弘安九年(1286)に隣の旧毛人谷(えびたに)村に開かれ、戦国時代の天正二年(1574)に当地に移転したと伝わります。

 

本堂には西国観音霊場三十三度巡礼行者「富田林組」の御背板(オセタ)5基が、完全な形で残っており、また本堂の右横のある二尊堂という建物には、きれいなお地蔵さま。このお地蔵さま、これがまた古く、「応長元年(1311)」と見え、なんと鎌倉時代。境内には「永仁元年(1293)」の年号の鎌倉時代の石造の笠塔婆もあります。

 

とにかく暑い。じないまち交流館で水分補給。

 

休憩できるところは必ず休憩と水分補給しました。じんないまちの中は休憩できるところが多いので助かります。

 

きらめきファクトリー

 

ここでアンケート書いてもらって解散。近鉄 富田林駅は目の前。

今回は江戸時代の富田林村の絵図をご案内しました。

 

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最後に1枚7枚目の絵図。この地図も興正寺別院と妙慶寺の位置が違っていますよ。地元ではない絵師が描いたのでしょうか? 絵図や古文書をそのまま信じてはいけない例。

よく確認する必要がありますね。

 

 

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撮影:2024年7月22日 

2024年8月14日 HN:アブラコウモリH 

 

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