楽の音にあわせて

ブログは折々にアップしていきます。主にはSNS投稿の記事の掲載となります。

人とも自分とも

2015-08-16 18:32:00 | Sisterのねごと


周りの人の視線ばかり気にしても
他者の物差しで自分が幸せになることはないし、
自分のしたいようにばかりしていても
他者との関係なしに幸せになることはできないし… 



周りの人とも自分とも真実の関係を生きてこそ幸せになれるし、
相手をも幸せにできるものでしょうね。

自分が幸せを感じられてこそ、
周りの人に深い喜びを分かち合えるものなのでしょう。

そんなことを思う今日の午後でした。

明日の祈り

2015-08-14 20:46:00 | Sisterのねごと


明日は戦争が終わって70年目の節目の日。

戦闘や空襲などで命を奪われた人々、
大切な人、かけがえのないものを失った人々… 

日本の伝統のお盆の季節に合わせて、
この節目の季節にわたしたちのもとに、
無数の死者が姿も声もないけれど帰ってきているように思えます。

祈りの輪の内に暖かくお迎えしたい気持ちです。

教会では聖母被昇天を祝う15日、
聖母の祈りの眼差しに包まれて、
この国が、わたしたち一人ひとりが、
今後平和と一致の使徒として証ししていけますようにと祈ります。

人と人の関係を断ち切る力

2015-08-12 08:01:00 | Sisterのねごと


人と人とをつなごうとする力は神の想い、
人と人とを切り離そうとするのは悪魔の想い…

今日の福音(マタイ18章15~20節)にあるように、
「二人または三人がわたし(イエス)の名によって
集まるところには、わたしもその中にいる」のですから、
そのつながりを些細なあるいはもっともらしい理由を口実に
断ち切ろうとするのは、神さまの願いとは反対のことです。

もし誰か苦手に感じている人の否定的な側面を
本人に聞かれないところで囁かれたら、
耳を貸してしまうと「負け」です。



できれば避けたい人のことなら、直接接することは少なくても、
「イエスの名によって」違いを越えたレベルで
つながり続けていることが大事。

悪の力に負けない、ブレない姿勢をお与えくださいと祈りながら、
一日を過ごしたいと願います。

(無題)

2015-08-11 09:01:00 | Sisterのねごと


今日の福音朗読(マタイ18章1-5、10章12-14)で、
弟子たちはイエスに「いったいだれが、
天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねます。
するとイエスは「一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて」
次のようにこたえます。

(1)「心を入れ替えて子供のようにならなければ、
決して天の国に入ることはできない。
自分を低くして、この子供のようになる人が、
天の国でいちばん偉いのだ。」

(2)「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、
わたしを受け入れるのである。
これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。

まずは自分を低くして謙遜に生きること。
そして、何ももたない、自分を守る術をもたない「小さな人」を
軽視せずに心から受け入れること。



自分のポジションについて、人の目や自分の不満など、
いろいろ思い巡らしてしまうことも少なくないわたしたち「普通の人」も、
思い煩うことなく兄弟姉妹を大切にしたいと願える
この福音の道に生きたいですね。
今日も暑いですがそんな祈りを心に!

今日は、ご降誕の場面のイエスについて
「何と感嘆すべき謙遜、感嘆すべき貧しさなのでしょう」と
書簡にしたためている聖クララの記念日。
霊名・修道名の方すべてに「おめでとうございます!」

最大の防御は…

2015-08-10 21:13:00 | Sisterのねごと


最大の防御は攻撃である」と言われるが、ほんとうの防御は
「(戦わないといけなくなるような)敵を作らないこと」だ。

これは最近聞いた話です。

国同士の外交手腕が問われる話であると同時に、
個人的な人間関係でも大いに考えさせられますね。

世界の平和はわたしたち一人ひとりの姿勢から。
まずは周囲との対話、相違を認め合うことからでしょうか。