格差は悪者か?
格差、格差と指をさされての悪者扱い。「格差は当然」などと言おうものなら、非国民扱いされそうです。格差の何が悪い?2人の人間がいる。一方は俊足で、もう一方は鈍足。これ格差でしょう。悪いですか?1歳で歩き出した子と、まだハイハイ(這う)の子。格差でしょう。悪いですか。小2で九九をおぼえた子と小五になっても九九が不十分な子。格差です。悪いですか?一生懸命勉強して、スポーツにも取り組み安定した仕事を得た子と、非行を繰り返し、定職を持たずブラブラしている子。格差です。悪いですか?
格差には、問題にしなければならない格差と、問題にする必要がない格差があると考えます。問題にしなければならない格差は、「仕事、教育、医療などの重要なファンクショニングが(格差によって)達成できないもの」です。そうでない部分で「格差」を言う人がいる(大勢)から、単なるはやり言葉、大衆受けするお題目の様相を呈しているのです。
格差がなければ国が滅びる
問題にしなければならない格差についても、「格差をなくしてしまう」のでは国は滅びます。
上海へ行くたびに、「緑波廊酒楼(リュポーランジウロウ)」へ行きます。各国の国賓も多数訪れる老舗で、上海料理だけでなく、点心料理のレベルも高いです。ただ、特に行きたくて行くのではなく、初めて上海を訪れる人は、「緑波廊酒楼へ行ってみたい」かなと思って御案内するのです。それで…行くたび必ず嫌な感じを受けます。注文を取りにくるまでは、いいです。料理や飲み物を運んでくるのもいいです。問題はその後。接客係さん達は少し離れたところにたむろ。私はペースが早いので、ビールは30秒ももたずに一本空きます。「ビア!ビア」と、大きな声で言っても、まず聞こえないふり。やむなく歩いていって、「ビア!」。これでようやく動いていただける。
あるときなど、通りかかった接客係に、「ビア!」といったところ、「イエース」と、言い…接客係がたむろしているところへ行った。そして、私らのテーブルの係と思われる接客係と口論を始めた。内容を想像するに・・・
「おまえの担当の客が、ビールだってよ。サボッテんじゃないよ」
「あんたが頼まれたんだろう。自分で持ってけよ」
「おまえのテーブルの客だぜ」
「ったくゥ。客が来なけりゃいいのに!」
どうしてこんなことになるのでしょうか。働こうが、サボろうが給料格差をなくしている社会だからですよ。接客係は、れっきとした国家公務員です。同じ給料なら、最低限の仕事をして時間をひたすら潰して帰る。中国で、「社会資本主義」なる奇妙な主義に転換した後も、中国の威信をかけた緑波廊酒楼の従業員の実態は、共産主義そのものでした。格差をなくしようとすると、停滞→硬直→滅亡への道を歩むことなりますよ。
新大陸に作られた植民地、ジェームスタウンの例では・・・入植3年目(1607年)に、半数以上(一説には、8割)の住民が餓死。原因は、町の制度を本来的共産主義とし、収穫物を平等に分けていたからでした。(平等という考え方自体良くないですが、まあそれは置いておいて)大量の餓死者が出たという事実。大男も、小男も。働く人もサボル人も。3人家族も10人家族も平等に食料を分けたのでしょうか。乳幼児、病人が次々と亡くなっていったのでしょう。ジェームスタウン絶滅の危機は、資本主義の導入で救われました。タバコで財をなした住民も現れました。格差社会の現出が、自分たちを救ったわけです。(還暦パパは、ジェームスタウンで説明を聞いて、後頭部をチリトリで叩かれるようなショックを受けました。たいした衝撃でないだろうって?後頭部、薄くなってるんですよ!大変なショックです!)
是正は出来るがなくすことは出来ないのが格差
「格差をなくします」の合唱。秋に選挙あるとしたら(あるのでしょうが)、各党の公約には、前回の参院選同様このフレーズが躍るでしょう。
私は、格差は必要との考えですが、それ以前に、「だまっていても格差はできる。どんな状況でも必ずできる」と思っています。なくすことは出来ません。なくしようとすると、緑波廊酒楼状態となります。
なくすことは出来ないし、なくそうとはしないほうがよいのですが、是正が必要な格差はあります。それは、「収入格差」。なぜこれだけを挙げたかと申しますと、「教育格差(重要なファンクショニング)」に繋がるからです。与えられる教育は、(使いたくない言葉ですが)平等の方がいいです。意味が薄まるかもしれませんが機会均等と言ってもいいです。格差社会の上の方へよじ登る機会は、全員に提供しなければ、国という単位で物を見た場合大損失です。均等に教育を与えた結果として、成績の格差が出来ます。それも確かに格差ですが、問題にしなくても良い格差です。冷たいこと言うなって?人間は、生まれる前にすでに格差があるんです。親ですよ。そして、頭がいい子、悪い子。運動能力に優れた子、劣る子。体格のいい子、ガリガリくん。みんな格差。それらをなくす?出来るわけないでしょう。是正する…これなら少しは出来ます。
成績格差の前の教育格差、その前の収入格差。これは、何とかしなくてはなりません。「貧しくて進学させられない」というケースもあります。北海道の某市のように、「生活保護費を2億円詐欺された」という例もあるので、収入格差の是正は・・・今の流れでは、多くの人と時間が必要で、そのうちに世紀が変わってしまいそうです。しかし、「やる気」でやれば簡単なことです。
格差、格差と指をさされての悪者扱い。「格差は当然」などと言おうものなら、非国民扱いされそうです。格差の何が悪い?2人の人間がいる。一方は俊足で、もう一方は鈍足。これ格差でしょう。悪いですか?1歳で歩き出した子と、まだハイハイ(這う)の子。格差でしょう。悪いですか。小2で九九をおぼえた子と小五になっても九九が不十分な子。格差です。悪いですか?一生懸命勉強して、スポーツにも取り組み安定した仕事を得た子と、非行を繰り返し、定職を持たずブラブラしている子。格差です。悪いですか?
格差には、問題にしなければならない格差と、問題にする必要がない格差があると考えます。問題にしなければならない格差は、「仕事、教育、医療などの重要なファンクショニングが(格差によって)達成できないもの」です。そうでない部分で「格差」を言う人がいる(大勢)から、単なるはやり言葉、大衆受けするお題目の様相を呈しているのです。
格差がなければ国が滅びる
問題にしなければならない格差についても、「格差をなくしてしまう」のでは国は滅びます。
上海へ行くたびに、「緑波廊酒楼(リュポーランジウロウ)」へ行きます。各国の国賓も多数訪れる老舗で、上海料理だけでなく、点心料理のレベルも高いです。ただ、特に行きたくて行くのではなく、初めて上海を訪れる人は、「緑波廊酒楼へ行ってみたい」かなと思って御案内するのです。それで…行くたび必ず嫌な感じを受けます。注文を取りにくるまでは、いいです。料理や飲み物を運んでくるのもいいです。問題はその後。接客係さん達は少し離れたところにたむろ。私はペースが早いので、ビールは30秒ももたずに一本空きます。「ビア!ビア」と、大きな声で言っても、まず聞こえないふり。やむなく歩いていって、「ビア!」。これでようやく動いていただける。
あるときなど、通りかかった接客係に、「ビア!」といったところ、「イエース」と、言い…接客係がたむろしているところへ行った。そして、私らのテーブルの係と思われる接客係と口論を始めた。内容を想像するに・・・
「おまえの担当の客が、ビールだってよ。サボッテんじゃないよ」
「あんたが頼まれたんだろう。自分で持ってけよ」
「おまえのテーブルの客だぜ」
「ったくゥ。客が来なけりゃいいのに!」
どうしてこんなことになるのでしょうか。働こうが、サボろうが給料格差をなくしている社会だからですよ。接客係は、れっきとした国家公務員です。同じ給料なら、最低限の仕事をして時間をひたすら潰して帰る。中国で、「社会資本主義」なる奇妙な主義に転換した後も、中国の威信をかけた緑波廊酒楼の従業員の実態は、共産主義そのものでした。格差をなくしようとすると、停滞→硬直→滅亡への道を歩むことなりますよ。
新大陸に作られた植民地、ジェームスタウンの例では・・・入植3年目(1607年)に、半数以上(一説には、8割)の住民が餓死。原因は、町の制度を本来的共産主義とし、収穫物を平等に分けていたからでした。(平等という考え方自体良くないですが、まあそれは置いておいて)大量の餓死者が出たという事実。大男も、小男も。働く人もサボル人も。3人家族も10人家族も平等に食料を分けたのでしょうか。乳幼児、病人が次々と亡くなっていったのでしょう。ジェームスタウン絶滅の危機は、資本主義の導入で救われました。タバコで財をなした住民も現れました。格差社会の現出が、自分たちを救ったわけです。(還暦パパは、ジェームスタウンで説明を聞いて、後頭部をチリトリで叩かれるようなショックを受けました。たいした衝撃でないだろうって?後頭部、薄くなってるんですよ!大変なショックです!)
是正は出来るがなくすことは出来ないのが格差
「格差をなくします」の合唱。秋に選挙あるとしたら(あるのでしょうが)、各党の公約には、前回の参院選同様このフレーズが躍るでしょう。
私は、格差は必要との考えですが、それ以前に、「だまっていても格差はできる。どんな状況でも必ずできる」と思っています。なくすことは出来ません。なくしようとすると、緑波廊酒楼状態となります。
なくすことは出来ないし、なくそうとはしないほうがよいのですが、是正が必要な格差はあります。それは、「収入格差」。なぜこれだけを挙げたかと申しますと、「教育格差(重要なファンクショニング)」に繋がるからです。与えられる教育は、(使いたくない言葉ですが)平等の方がいいです。意味が薄まるかもしれませんが機会均等と言ってもいいです。格差社会の上の方へよじ登る機会は、全員に提供しなければ、国という単位で物を見た場合大損失です。均等に教育を与えた結果として、成績の格差が出来ます。それも確かに格差ですが、問題にしなくても良い格差です。冷たいこと言うなって?人間は、生まれる前にすでに格差があるんです。親ですよ。そして、頭がいい子、悪い子。運動能力に優れた子、劣る子。体格のいい子、ガリガリくん。みんな格差。それらをなくす?出来るわけないでしょう。是正する…これなら少しは出来ます。
成績格差の前の教育格差、その前の収入格差。これは、何とかしなくてはなりません。「貧しくて進学させられない」というケースもあります。北海道の某市のように、「生活保護費を2億円詐欺された」という例もあるので、収入格差の是正は・・・今の流れでは、多くの人と時間が必要で、そのうちに世紀が変わってしまいそうです。しかし、「やる気」でやれば簡単なことです。