アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

日清戦争 日本勝利の後押しは西太后

2009年05月01日 | Weblog
 日清戦争(1894年~1895年)の軍備比較ですが・・・
 <日本軍> 兵力は、約15万。軍艦32隻、水雷艇24隻、捕獲艦艇12隻。
 <清 軍> 兵力は、約95万。兵数は多かったが近代軍としての素質は不十分であったと推測できます。「近代軍というには値しないものだった」と、いう記述が多いからです。
 戦争に参加したのは、軍艦25隻、水雷艇12隻だけだった。清は、軍艦を82隻、水雷艇25隻持っていたのになぜ参戦させなかったか?建造が古く、速力・火力が日本艦に劣っていたからでしょう。日本艦隊を撃破出来るように整備しておかなかったのはなぜか?整備できる海軍予算も時間も十分あったのです。ところが、なぜかその予算が消えた。
 清は、陸海軍共に日本を遙かに上回る兵力を保有していたのですが、戦争にはその一部しか使用できなかった…。「大男総身に知恵が回りかね」…。

 頤和園(いわえん)は、北京市街の西北約15kmのところにあります。12世紀に造営された皇帝の離宮で、第二次アヘン戦争の時(1860年)に英仏連合軍に焼き払われました。それを、西太后が再建しました(1888年)。ユネスコの世界文化遺産に登録されている庭園公園で、面積が、290平方キロメートル。そのうち75%が水面、つまり湖。庭園内に湖があるのです。

 290平方キロメートルの頤和園を再建する、莫大な費用がどこから出たか?「3,000万両」だとのこと…中国の1両は50グラムですから…。当時清朝は、日本との軍事的緊張が高まり、旧式の軍備をリニューアルし増強するための歳出を必要としていたのです。それにもかかわらず、北洋艦隊を整備する海軍予算3,000万両を頤和園の再建費に流用してしまった。
 このことが、日清戦争敗北の原因の一つと言われています。大軍であっても、武器が石斧であれば、少人数の村田銃に勝つことは出来ません。最も、清軍は、あちこちの戦闘で、「逃げまどうのみ」だったらしいです。日本の勝利は、西太后の頤和園再建のお陰というところ…戦争については勝っても喜べませんが。

西太后…どうして、そのような力があったのか?皇帝はどうしたぁ?

 中国の歴代女性権力者のなかで、西太后は、ナンバーワンでしょう。比較すると、西太后に叱られるでしょうが、悪逆非道で有名な女性権力者としては、漢の呂后(りょこう)、唐の則天武后がおりました…。この二人がどんなことをしたか…人間がすることではないですよ。気持ち悪くて書く気になりません。

 西太后は、残虐に人を殺したことは一度しかしなかったようですが、すさまじいばかりの権力欲と独占欲の持ち主だったと言われています。権力の座に着いてから実に半世紀もの長きに渡って中国最後の清王朝に君臨しました。前代未聞の権力掌握期間の長さです。

 西太后は21歳のとき、咸豊帝の側室として宮中に入った。咸豊帝は、数年後には結核で崩御。咸豊帝の死後、西太后が産んだ6歳の皇子が「同治帝」として後を継いだ。ここで、西太后は政治の表舞台に登場するわけです。同治帝は7歳で天然痘で崩御。と、なると、西太后の独壇場。
 同治帝のあと、5歳の光諸帝が継いだ。光諸帝は、西太后の妹の皇子。西太后の権力は絶対のものになって行ったわけです。
 西太后が、残虐に殺した一人というのは、光諸帝の側室であった、「珍妃」。「珍妃の井戸」という小説にもなっています。西太后は、珍妃を井戸に投げ込んだ…。まあ…とてつもない力を持っていたわけです。