バッタモンのポタリング日乗

松本在住の自転車散歩日記です
  時々余計な話題も

木曽義仲ゆかりの地:長興寺の小枝御前墓

2021-09-29 23:11:29 | 木曽義仲
塩尻市洗馬にある曹洞宗の大きなお寺長興寺
ここに義仲の母小枝御前のお墓があるという
本堂横の山の斜面道沿いには石仏や石塔、墓石が整然と並びなかなか趣きある雰囲気を醸し出している
今回は拝観しなかったけれど池泉回遊式庭園というのも見ごたえある名園のようだ

この山の斜面にある古い石塔が小枝御前のお墓だと言われていて長興寺史の古い絵図にも描いてある
確かに古~い感じの石塔だが寺の創建は1527年ということで義仲の時代より300年以上後だ
また塔も800年の風雪に耐えた割には風化が少ない
もちろん伝説だけで確たる証拠は何もない
小枝御前の墓は宮ノ越の義仲一族の菩提寺といわれる徳音寺にもあった
この寺は義仲が小枝御前の菩提を弔うために建てた柏原寺が前進だという
「徳音寺畧縁起」に手厚く葬ったことが記されているようだが
徳音寺の中興は1579年ということなのでこれも確たる証拠ではない
義仲にゆかりの深い朝日村の光輪寺には小枝御前の伝承は無さそうだ
ひとつ確かなことは信濃のどこかに眠っているということだけだ
真実などどうせ分からないから妄想を楽しみましょう
                      
                      
                      




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木曽義仲ゆかりの地:長瀬判官代の墓

2021-09-28 21:02:14 | 木曽義仲
宇治川の戦いで義経配下の畠山重忠
渡河後、馬に乗って真っ先に進んでくる華麗な出で立ちの敵に
「ここにかくるはいかなる人ぞ、名のれや」といひければ
「木曾殿の家の子に、長瀬判官代重綱」と名のる
畠山は軍神への供え物にしようと馬から引きずり落として首を取ってしまった
平家物語で何だかあっけない最後だった長瀬判官代は義仲とは血縁関係があったらしい
ちなみにこの時の戦いで義経軍の先陣争いを制したのは佐々木高綱、後の了智上人だ

源氏の流れを汲む長瀬氏はもともとは丸子(上田市)の長瀬地区に居を構えていたということだが塩尻の長瀬地区にも関りがある
熊注意の看板を横目に奈良井川右岸の河岸段丘の暗く狭い道を降りて橋を渡ると3件ほどの民家がある
2軒は空き家のようだが表札には長瀬とある
ここに長瀬判官代の墓があるということでそこらをウロウロ探してみたが分からない
ちょうど唯一住人のいる家から娘に手を引かれたおじいさんが墓参りに出てきたので聞いてみたら
その家の裏手にあるということだ
大きな杉林の中のこんもりと古墳のように盛り上がった場所に小さな祠と横には長瀬判官塚の標柱が建っていた
後で知ったのだがグーグルストリートビューがこんな集落まで行ってるのにはびっくりだ

小曽部川から奈良井川左岸にかけて存在した洗馬荘
そこの地頭職は当初長瀬氏ということだったので役人としてこの地に来たのだろう
洗馬という字は義仲以前の平安時代にはすでにあったらしく
決して義仲の馬を洗ったからではない
地形が「狭まる」が由来とも聞くが定かではない
牧が置かれていたから馬の字を当てたのかも知れない

近くの河岸段丘上にある東漸寺は長瀬判官が建てた西光寺跡を子孫が復興したということで枝垂桜の古木が見事だ
                    
                    
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木曽義仲ゆかりの地:樋口次郎兼光墓

2021-09-26 21:56:39 | 木曽義仲
義仲と仲たがいした十郎蔵人行家を討つために遠征していた義仲四天王のひとり樋口次郎兼光
都で合戦が行われていることを聞き急行するが
今井兼平の家来に遭遇し
義仲は討たれ兼平が自害したことを聞いて涙する

家来に
「私は都へ上り討ち死にするが
諸君は落ち延びて殿の後世を弔うのもよい」
都に着くと500騎の兵は20騎ほどになっていた
義経に従軍していた児玉党と姻戚関係があり親しかったので
彼等から生き延びて木曽殿の後世を弔うように諭され投降した

義経が院の御所に申し上げて許されたが
公卿、殿上人などが法住寺合戦の怨恨を叫んで結局死罪にさせられた

義仲、兼平らの首が大路を引き回される時に伴をしたいと願い出て
藍摺りの水干、立烏帽子で一緒に引き回され翌日斬首された

家臣が持ち帰った首を埋葬したという墓は
辰野町の樋口地区にひっそり佇んでいる
近くにある荒神社には戦勝祈願したといわれている
                                             
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木曽義仲ゆかりの地:洗馬、朝日地区の伝説

2021-09-26 09:08:58 | 木曽義仲
洗馬、朝日地区には義仲や兼平にまつわる伝説が多い
兼平が義仲の馬を洗った太田の清水
義仲の馬が蹄の跡を付けた岩
光った岩に驚いた馬から落馬した鏡岩
義仲が箸として使った柳が根付いたさかさ柳
義仲の命を狙って来たものが凍傷になって死んだ足無し様
義仲が木曽から峠を越えてきた御馬越え・・・
等々

こういった伝説地は平和になった江戸時代に
いろんなものを義仲と関連付けて伝説化して楽しんだのだのだろう
江戸時代に流行った多彩な名所図会のひとつ木曽路名所図会には
義仲馬洗水ほか関連の伝説地が何か所か載っている

                         
                   

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木曽義仲ゆかりの地:宝輪寺、諏訪神社

2021-09-22 22:20:07 | 木曽義仲
昔の豪族は現世の幸福を祈る祈願寺と後世の冥福を祈る菩提寺持つものであるが
宝輪寺は今井四郎兼平が祈願寺として中興したといわれる
山門は木曽贄川宿本陣の千村家のものを移築したそうだ

下今井にある諏訪神社も今井四郎兼平の再興と棟札にあるようだ
この神社には兼平の形見石というのがある
明治初年にクヌギ林を開墾していた人が土中から掘り出したと伝わる
年号は剥離してしまって判別できないが鑑定によればそれほど古いものではなさそうで
後世の人が兼平の顕彰供養の為に建てられたらしいが詳しいことは謎だということだ

ここ今井の地には兼平にまつわる伝承が他にいくつもある
出生地はともかくある時期この地に在していただろうことは想像がつく

                      
                        
                      
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木曽義仲ゆかりの地:今井神社

2021-09-21 22:25:38 | 木曽義仲
「これからは誰をかばうために戦おうか、その必要もない。これを御覧なされ、東国の殿方、日本一の剛の者の自害する手本だ」
と言って太刀の先をくわえ、馬から飛んでさかさまに落ち、太刀に貫かれるようにして死んでしまった。
義仲四天王今井四郎兼平の壮絶な最後だ
真偽のほどはともかくドラマチックに仕立てられた平家物語の木曾最後の巻の義仲と兼平のやり取りは感涙間違いない
芭蕉も芥川龍之介もこんなところに惹かれたのかも知れない

その兼平を祀ったのが今井神社
今井村史によるとここに居館があったといわれているが
他にも何か所か居住説がありいずれも確証となる資料はないとのこと
また、兼平との縁を名乗る地は全国に数多くある
しかし生まれた地、死んだ地、今井を名乗った地は一か所しかない
その中で一つだけはっきりしているのは琵琶湖畔の粟津ヶ原の死んだ地だ
と結んでいる
立派な神殿脇にはその粟津ヶ原の兼平の墓から持ってきた土を祀った兼平塚がある

死なば一緒にと契った義仲、兼平は容易に行き来できる距離内で育ち信頼を育んだに違いない
となると松本成長説の義仲は桂入(朝日村辺り)と兼平は今井の地に居住していたと信じたい
何せ800数十年も前のことだ
正解はだれも出せない
                                    
                      
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木曽義仲ゆかりの地:元町開運弁財天と7本松

2021-09-20 18:07:45 | 木曽義仲
元町中公民館の場所にはかつて開運弁財天があり
脇には7本に枝分かれした松の大木があったそうだ
近くにの惣社辺りには国府があったといわれその守護神だったそうで
伝承では弁財天も松の老大樹も清水丸義高にゆかりがあるということだ
義高お手植えの松?

説明板によると弁財天は公民館の中に祀られているということだろうか
脇の常夜灯や石仏がわずかに弁財天の面影を偲ばせる
                       
                       
                             
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木曽義仲ゆかりの地:岡田神社

2021-09-17 13:44:21 | 木曽義仲
源親義、岡田冠者親義の方が通りが良いだろう
以仁王の令旨を受けて大将格として義仲とともに連戦したが
倶利伽羅峠の戦いで清盛の末子(?)平知度(とものり)と遭遇して相打ち戦死したという
この激闘のくだりは「源平盛衰記」にはあるらしいが手元の「平家物語」には「大将軍三河守知度討たれ給ひぬ」としかない
享年45歳ともいわれている

その岡田親義の館があったのは「延喜式神名帳」にも載ってる歴史ある岡田神社参道脇だ
車道を左右に分ける旧参道の一の鳥居前には2本の見事な欅の木がそびえている
本殿はここからさらに500メートルほど先だが
途中で参道が不自然にクランクしている
どうやらこれは式年造営の際岡田館を避けたためらしい

この辺りは水利の悪い所で後年用水路の開削と同時に館跡地を国府庁舎するために
堀や土塁を整地撤去したと説明板にあった
今は普通の住宅地で遺構は何もない

廃仏毀釈で廃寺になってしまった伊深の慶弘寺公園に息子の重義が埋葬したという岡田親義の墓がある
刀二振りと頭蓋骨、宋銭多数が出てきて「元暦霊神」(元暦は1184、1185年)と記されていたそうだ
勿論何の証拠もなく伝承ではあるが岡田の地を見下ろすこの場所に岡田親義が眠っていることを信じたい

                       
                       
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木曽義仲ゆかりの地:地蔵清水

2021-09-16 18:27:03 | 木曽義仲
安土桃山時代の深志城整備の時に土中から浄水とともに出てきたといわれるお地蔵さん
蟻ケ崎の激坂上の生安寺の境内に安置してある
「文治4年」(1188年)と刻まれていて松本最古だということだ

義仲の死も頼朝の元に人質として行っていた嫡男清水冠者義高が殺されたのも1184年だ
義高と仲睦まじく暮らしていた頼朝の娘大姫が義高の死を嘆き悲しみ病に伏せたことは前回触れた

お地蔵さんの制作年と石材が伊豆石だということで
どうも義高の供養の為に鎌倉から届けられたのではないかという説もある
大姫の母北条政子が娘の病を苦に免罪符的に作らせたのか?

出土した所は地蔵清水と呼ばれ碑の脇には清らかな湧き水が溢れている
義高の住んでいた清水丸屋敷はこの辺りにあったという説もある
                      
                      
                      
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木曽義仲ゆかりの地:槻井泉神社

2021-09-14 22:20:18 | 木曽義仲
義仲の嫡男は清水冠者義高と言われている
信濃で勢力を広げてきた義仲が頼朝と険悪な雰囲気になったとき
義仲は他意はないと11歳の義高を頼朝の長女大姫の婿という名目で海野幸氏、望月重孝等を伴って鎌倉へ送って一件落着
要するに人質だ

二人は仲睦ましく暮らしていたが
最終的に義仲が討たれたことで義高の立場が悪化した
復讐を恐れた頼朝に誅殺されることを察して逃げたが結局入間川辺りで討たれてしまった
それを知った大姫は嘆き悲しみ病の床に伏してしまった
母親の(北条)政子はそれは義高を討ったせいだと頼朝に迫り
討った内藤光澄を晒し首にした

そんな悲劇の義高が生まれ育ったという清水丸館はこの槻井泉神社の辺りにあったとも言われている
傍らにはこんこんと湧水が沸いていて地名はそのまま清水だ
上水道のない時代において湧き水の豊富な場所は一等地だったのだろう
この泉水を義高の産湯に使ったのかも知れない

また館はここから少し離れた地蔵清水の辺りとも言われているがそこは後日触れよう
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