バッタモンのポタリング日乗

松本在住の自転車散歩日記です
  時々余計な話題も

木曽義仲ゆかりの地:伊和神社

2021-09-13 22:30:43 | 木曽義仲
惣社(総社)は特定地域内の神社を合祀した神社で
律令時代国司着任後の最初の仕事は赴任地の神社を順に巡って参拝することだそうで
面倒くさいなぁ、いっぺんに済まそう
ということで国府の近くに設けられた

上田から松本に移転した信濃国府が置かれていたといわれる所が惣社という地区だ
そこにある伊和神社
境内にある欅の大木は樹齢1000年とも言われ
明治18年に枯れて伐採したのはもっと古かったということだ
ここに国府が置かれていたのは平安時代だから神社もその頃造られたのか?
源氏ゆかりの源頼光とその四天王、渡辺綱、薄井貞光、坂田金時、卜部末武も祭ってある

義仲の養父中原兼遠は当時権守(副知事)としてここの国府に勤務していた
(国守、今で言う知事は京都に住んでいたということで政務は兼遠が執り行っていた)
車で1時間もかかる館があったという木曽から通うはずもなく近くに官舎(館)があって住んでいたのは当然だろう
武蔵国から逃避してきた駒王丸はとりあえずそこに身を寄せたのか?
旅の疲れを癒すために当時から京都まで名の知れた白糸の湯(日本書紀には束間の湯)に入ったのかもしれない

館の存在はもちろん惣社地区の発掘調査でも国府の存在は明らかにされていない

                      
                      
                      
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木曽義仲ゆかりの地:中原兼遠屋敷跡、林昌寺、手習天神

2021-09-12 22:02:44 | 木曽義仲
軽トラしか通れないような中央西線の陸橋を渡って中原兼遠屋敷跡へは田んぼのあぜ道だ
屋敷跡と言われる場所には1本の松の木と案内板があるだけで10メートル四方くらいの平地に遺構は何もない
大き目の石がいくつか転がっているが礎石でもなさそうだ
案内板には
「貝原益軒の岐蘇路記に宮の腰の1里下に上田と云所あり、兼平が父木曽の仲三兼遠が屋敷の跡あり・・・」とあった
調べてみると岐蘇路記は1709年に書かれたものだ

日義村村史によると「義仲はここで兼遠の息子、兼平、兼光らと育てられた」とある
朝日村村史と塩尻市史には「1国の権守(今の副知事)の子供3人、しかも女の子までが、山の中の木曽まで来て源氏の孤児に従うというのは不自然である」
と述べている
また塩尻市史では
「群馬県に木曽三社神社がある。義仲の死後落ち延びた遺臣達が義仲の崇拝した『岡田・沙田・阿禮神社』を勧進して建てられてということから
義仲は筑摩郡居住の可能性もある」
とも述べている
平家物語などの軍記物語は創作や聞き違いが多く、玉葉など公家の日記類は信用度が高いが非常に簡単だということだ
結局、確たる証拠資料は何もなく推察するしかない
当初木曽の地に匿われていたけれど源義平の死(1160年、義仲7歳くらい)により追討の恐れがなくなり比較的早い時期に筑摩郡に移り住んだのかもしれない

200メートルほど離れた田んぼの中の竹林には兼遠の塚がある
建立年号は明治22年とあった

権守の退官後出家したという兼遠が建立したという林昌寺には兼遠のお墓がある
また、近くの旧中山道沿いには兼遠が義仲のために勧進したという手習天神がある
                       

                       
                       

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義仲ゆかりの地:旗挙八幡宮、南宮神社

2021-09-11 22:42:35 | 木曽義仲
鉄柱で支えられた今にも朽ちそうな欅の大木は樹齢800年余りで義仲元服を祝って植えられたと言われてる
落雷で裂けてしまって痛々しい姿だが隣には2代目の欅がすくすくと育っている

13歳で元服した駒王丸は木曽次郎義仲と改めここに館を築き
27歳の時に平家打倒の旗挙げをしたといわれる旗挙八幡宮
館跡を主張する大きな石碑が建っているが遺構などはない
旗挙げに1000騎余りを従えたというがどう考えても無理がある

国道沿いの南宮神社は義仲が産土神として美濃関ヶ原の南宮大社を分祀勧進して戦勝祈願したといわれる神社
裏には落差20メートルほどの旭乃滝があってこれがなかなか良い
一時期枯れてしまったが導水して復活したそうだ



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義仲ゆかりの地:義仲館と徳音寺

2021-09-10 23:06:36 | 木曽義仲
信濃国府が置かれていた松本から40数キロ
木曽街道の山吹トンネルを抜けると宮ノ越だ
この地に駒王丸が2歳から隠れ育ったと言われており周辺には義仲関連の伝承地がいくつかある

先ずは義仲館がリニューアルしたということで再訪してみた
館の前には義仲と巴御前の立派な銅像が堂々と鎮座している
平家物語延慶本には美男と書かれている義仲だが像はちょっと武骨な感じがして
粗野だったという俗説イメージを上塗りしてしまいそうだ
没した31歳にしては老けすぎる
も少しジャニーズ寄り、巴御前はAKB寄りだとイメージアップするだろうに
などと思いながら入り口に行くと
「コロナのため12日まで休館」

臨済宗妙心寺派で義仲の菩提寺だったと言われている徳音寺は義仲館のすぐ近くだ
山門をくぐると愛馬にまたがって野を駆ける元気そうな少女時代の巴御前の銅像が目を引く
平家物語の木曾最後には巴は色白く髪長く、器量よしで強弓を引き荒馬を乗りこなせるとある
となると先の像はAKBより美人女子プロ系か?
足元にはその馬の蹄が岩を貫いたという「つらぬき石」というのがある
確か小曽部や麻績にも岩に付いた義仲の馬の足跡があった

境内には義仲霊廟や母小枝御前、巴御前、今井四郎兼平、樋口次郎兼光などの墓碑や供養塔がある
寺が再建されたのは江戸中期ということなのでもちろん後年建てられたものだ
再建は1700年代のようなので義仲が没して600年近くは経っていただろう
以前訪れたことのある義仲の墓は大津市の義仲寺にあり隣には芭蕉が眠る
今井兼平の墓も大津市にあるのだがここ徳音寺の墓碑の裏には今井村と刻んである
昭和初期以前に出身地と言われる今井村が寄進したのだろう
もちろんここが菩提寺であったとする確たる証拠は何もないし義仲がこの地で育ったことさえ不明だ
しかしこうして伝説を可視化すると何となく本当らしく思えてしまうのだった

                    
                    
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木曽義仲松本成長説

2021-09-08 17:54:51 | 木曽義仲
明治時代の歴史家重野安繹(しげのやすつぐ)博士の「木曽義仲の松本成長及佐久挙兵説」(昭和8年発刊松本市史P103~P105)
がとても興味深い。

武蔵国から母小枝御前ともに逃れてきた駒王丸(義仲幼名)が松本で成長したとする理由は
育ての親中原兼遠は当時信濃国権守(ごんのかみ、いわば副知事)であり
「国府たる松本にありて信濃国中の政務を執りしなり」と松本に館があったと思われる。
今日の木曽谷と称するところは当時は人跡稀なるところで人を教育成長させられるようなところではなかった。
「何を苦んで人跡稀なる木曾山中に育てんや」
鳥居峠を開き驛路を設け人が住めるようになったのはもっと後年のことだ。
義仲四天王の今井兼平、樋口兼光は中原兼遠の子息でそれぞれ今井村、樋口村におり義仲と成長を共にした。
中原娘の巴御前(実在は?)も義仲と「振分髪の昔より馴れ染めたるものなり」
とお互い行き来できる距離であったのだろう。
駒王丸を追討しようとした悪源太義平については
「義平が義仲を左程厳重に捜索せざりしは其時の事情に依て明らかなり」
などと説いた。
という訳でわざわざ現在の木曽谷あたりに隠れ住む必要はなかったということだ。

「平家物語・延慶本」には「信濃国安曇郡木曽、木曽の山下で木曽仲三兼遠が育てた」
「吾妻鏡」には「中三権守兼遠は義仲を抱いて信濃国の木曽に逃れ」とある。
当時奈良井川は木曽川と呼ばれ明治7年に奈良井川に改名されたようだ。
更に鳥居峠以南は美濃国だったそうだ。
となると、朝日村や小曽部辺りも木曽に括られていたのだろうか?
小曽部は木曽部から転訛したとの説がある
この辺り当時はかなり辺鄙な所だったであろうから隠れるにはちょうど良いし
今井村の兼平や兼光とも容易に行き来ができる。
朝日村の光輪寺始め近隣には義仲にまつわる言い伝えがいろいろあるし
松本の神社、寺にも義仲の子供義高(清水冠者義高)に関する口伝(?)がいくつかある
また義高の住んでいた屋敷は清水にあったとされる。

俗説では義仲は木曽の山猿で京都上洛後狼藉略奪をしたと言われているが
それも負ければ賊軍として後年刷り込まれた虚像のようだ。
松尾芭蕉や芥川龍之介も惚れた木曽義仲
歴史的資料が少ないので諸説あるが松本成長説を信じつつ汚名返上を願う。


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