上鳥羽には大きな造り酒屋を転用したカリントウ屋の蔵久がある
カリントウの販売は勿論喫茶や食事コーナーもある
時にはコンサートもやるようだ
建物は登録有形文化財だそうだが
建てられたのは加助の没後100年以上経ってからだ
カリントウの販売は勿論喫茶や食事コーナーもある
時にはコンサートもやるようだ
建物は登録有形文化財だそうだが
建てられたのは加助の没後100年以上経ってからだ
道なりに上鳥羽を走っていくと掘割の残る鳥羽館跡があった
標柱の説明には
「熊倉街道の要衝であり、鳥羽郷の開発拠点としての館」とある
なるほどこの道は熊倉街道なのか?
ただ糸魚川方面から来て豊科の成相から熊倉へ行く道も熊倉街道らしい
要するに熊倉の渡しへ至る主だった道は熊倉街道と言うのだろう
鎌倉街道がいくつもあるように
標柱の説明には
「熊倉街道の要衝であり、鳥羽郷の開発拠点としての館」とある
なるほどこの道は熊倉街道なのか?
ただ糸魚川方面から来て豊科の成相から熊倉へ行く道も熊倉街道らしい
要するに熊倉の渡しへ至る主だった道は熊倉街道と言うのだろう
鎌倉街道がいくつもあるように
加助生家前の道は中萱山道と言うらしい
これを大糸線中萱駅方面に下る
駅舎脇には加助の立派なレリーフ像がある
今でも米作りの盛んなこの地において
農民のために命を投げ出した加助は半ば神格化されているのだ
立石の交差点で糸魚川街道に合流し
数10メートル北進して上鳥羽方面に右折する
これを大糸線中萱駅方面に下る
駅舎脇には加助の立派なレリーフ像がある
今でも米作りの盛んなこの地において
農民のために命を投げ出した加助は半ば神格化されているのだ
立石の交差点で糸魚川街道に合流し
数10メートル北進して上鳥羽方面に右折する
1686年に松本藩で発生した百姓一揆貞亨騒動の主導者多田加助は
今なお地域のヒーローとして語り継がれている
騒動は落着したものの結局主導者たち28名は捕縛され磔、獄門の刑に処されたのだ
その加助が中萱の地から松本城下の勢高処刑場まで護送された道を辿ってみたいが
特に中萱~熊倉間のルートが良く分からない
手始めに三郷の貞亨義民記念館に行き情報収集
館長さんにもいろいろ話を伺い
中萱からは熊倉街道と言うのがあるということが分かった
しかし300年以上前のその道ははっきりしないのは当然だ
早速地図を見ながら加助の生家跡からそれらしきルートを探してみる
今なお地域のヒーローとして語り継がれている
騒動は落着したものの結局主導者たち28名は捕縛され磔、獄門の刑に処されたのだ
その加助が中萱の地から松本城下の勢高処刑場まで護送された道を辿ってみたいが
特に中萱~熊倉間のルートが良く分からない
手始めに三郷の貞亨義民記念館に行き情報収集
館長さんにもいろいろ話を伺い
中萱からは熊倉街道と言うのがあるということが分かった
しかし300年以上前のその道ははっきりしないのは当然だ
早速地図を見ながら加助の生家跡からそれらしきルートを探してみる
江戸時代初期、年貢の減免を求めて騒動を起こした多田加助が処刑される時に妻と別れを惜しんだと言われる場所が、松本トンネル下の車道から旧道に入った集落にあります。
道祖神、梅の木、惜別の岩と松の木、小さな踏み切り。
何となくいい雰囲気の場所です。
ここから少し下って国道19号線に合流し、しばし国道を走ることになります。
多田加助の住んでいた安曇野市三郷には記念館や碑があり、地元の英雄として語り継がれているのです。
道祖神、梅の木、惜別の岩と松の木、小さな踏み切り。
何となくいい雰囲気の場所です。
ここから少し下って国道19号線に合流し、しばし国道を走ることになります。
多田加助の住んでいた安曇野市三郷には記念館や碑があり、地元の英雄として語り継がれているのです。