武田信玄の兜は、紅屋・近藤藤兵衛の作で塗師は畑重兵衛であるという。
1864年(元治元年)の製作とするのが正しいようだ。
本体は粘土型の上に紙を張り一閑張りで仕上げる。鹿角は木型である。
兜の鉢の下、眉庇の上の中央にある飾り毛や面の白い毛は、
中国産のシャグマの毛を使用している。
武田氏の重宝は葦威鎧で、諏訪法性の兜の前立ては鹿角ではなく
幅の広い鍬(スキ)型で、片方は銀色、もう片方は金色である。
その付け根は金色の金具で飾られ、中央に武田菱が付いている。
また、シャグマの毛でおおわれ、面の飾りはなく、
吹返しも錣(シコロ)の先端を折り返して武田菱を中央に飾りつけ、
鉢は大型の鋲(ビョウ)を付けただけで筋はない。
眉庇もその先端は凹凸のない学生帽のひさしのように弧型になっている。
木綿町の武田信玄の兜は、絵図か文献を参考にしたのであろう。
正確な資料が集まらなかったことと、
曳山としての見栄えを考えて現在の型になったと思われる。
平松文書に記されている曳山順は本町の次に木綿町となっているが、
この時の曳山は現在のものではなく、古い張りぼてのヤマのことであろう。
曳山の幅は3.7㍍、高さは約6.2㍍。推定で1.6~1.8㌧ほどの重さがある。
木綿町では、上杉謙信から塩の救援をうけたと言う故事にちなんで塩を大切に取り扱い、
決して塩をまくことはしないという。
木綿町では兜の紐(しめ苧)の中のモミガラの詰めかえは、
幕洗いの日に行うのが習慣となっている。
ちなみに、昭和3年に曳山の塗り替えを行った際の塗り替え費用は、
百万円であったと伝えられている。
[参考:唐津くんち「ガイドブック」(1991)]