デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



メアリー・マッカーシー『アメリカの鳥』(1971)(中野恵津子訳、河出書房新社)を読了。

子どもの頃に私個人が持っていたアメリカという国のイメージは洋楽のベスト10、スポーツでは一番、映画産業が最も華やか、アメリカンドリームが頻繁に起こる、など、とにかく最も豊かで幸せしかないような自由な国といったものだった。
少し大きくなると、

アメリカ人が旅行先のロンドンでテムズ川を見て「アメリカにはミシシッピ川のような長くて広大な川があるけど、それに比べてテムズ川はなんら大したことないな」と言い放つと、イギリス人のガイドはすました顔で「この川には歴史が流れているのです」と応えた、

というジョークの意味を頭では分かるようになった。
『アメリカの鳥』を読んでいてしばらくしてから上のジョークのことを思い出した。そして改めてなぜそれが一般にうけることがあるのか、そのことに気づかせてくれるような作品とも思うようになった。
北アメリカの文芸作品の名作とされているものはけっこうあるが、それらを大して読んでないのに『アメリカの鳥』について、先日(読書中ではあったが、)

>現代アメリカの精神史を表現しているものとしては卓抜した作品であるような気がしてきているのである。

と書いたけれども、精神史というよりは現代アメリカの教養小説(ビルドゥングスロマン)の逸品というほうが合っているように思う。と同時に、アメリカ人の作家でも新興国であることから自国の伝統の欠如に悩む青年というテーマを採り上げて書くことがあるのだ、という驚きがあったのは否めない。これは単にアメリカの文芸作品について知らなさ過ぎる私の馬脚を現しているわけだが、やっぱり私はまだまだアメリカにはいろいろな「移民」で成り立っていると思いつつも、どこか画一的なイメージをもったままで『アメリカの鳥』に接したということであろう。
作品の主人公ピーターは自分の中の反米主義に苦しむが、日本でも自分の中の反日主義に苦しむ人たち、中国でも自分の中の反中主義に苦しむ人たちにとっては、青年期のピーターの苦しみが痛いほどわかるのではと思う。理不尽なことや、議論のすり替えや自己欺瞞が嫌いで、自意識が過剰で常に良心がうずいて仕方のないピーター青年の心情に、共感できる人も多いだろう。そして作品は先ほどのジョークで笑われる側となると暗澹たる気持ちになる人がいることに少しは忖度を促させ、川の大きさだけを誇る以外に世界と自国との歴史的関わり合いについて考えることも大事だと気づかせてくれると思うのである。

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