デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



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パリでのブリュヒャー将軍の賭けっぷりについては、グロノウ著『大いなる世界より』(前掲書、五四―五六ページ)を見るとよい。彼は負けたときに、「フランス銀行」に一〇万フランの賭け金の前貸しを強要し、このスキャンダルが発覚するとパリを去らねばならなくなった。「ブリュヒャーは、パレ・ロワイヤル一一三番地の賭博場に入りびたりで、滞在中に、六〇〇万フランをすった。」パリから離れたときには、彼のもっている土地はすべて抵当に入っていた。パリは、戦争賠償金として支払った額より多くの収入を、ドイツ占領軍によって得た。   [O1,3]

盛り場の要素について、これまでいくつか触れてきたが、賭博場も欠くことはできないだろう。
『パサージュ論3』には賭博禁止令が出たところで、賭博場がすぐに姿を消したわけでなく、また賭博自体が恥と考えられていなかったことを示す断片もある。人間の三大道楽の一つはパリの盛り場の大きな要素の一つであり続けたのだ。
私は競馬にも競艇にも競輪にもお金を使わないけれども、ドストエフスキーの『賭博者』という小説を読んだときは物語だというのにそのルーレットが回る場面で異常に白熱した気分になったことがある。ドストエフスキーが賭博熱に取り憑かれ賭博場に入りびったエピソードは、ドイツのバーデン・バーデンでのものが印象に残っているが、ベンヤミンの『パサージュ論』で

一八三八年一月一日。「禁止令を受けて、パレ・ロワイヤルにいたフランスの胴元たちのうちブナゼとシャベールはバーデン=バーデンとヴィースバーデンへ行き、ほかの多くの使用人たちはピルモン、アーヘン、スパーなどへ行った。」エーゴン・セザール・コンテ・コルティ『ホンブルクとモンテ・カルロの魔術師』ライプツィヒ、三〇―三一ページ   [O7a,6]

このような断片を読んだとき、ひょっとするとドストエフスキーがドイツに逗留中のとき、そこにあった賭博場のなかにはパリの盛り場で胴元をやっていた人物が関わっていたり、その後継ぎのいる所があったかもしれぬと思ったものである。



壁面がきれいだな、と思っていたが、ギャルリ・ヴィヴィエンヌは1980年代後半に全面改装が行われていると、解説本にはあった。どうりで…。



プティ・シャン通りからヴィヴィエンヌ通りへの通り抜けられるギャルリ・ヴィヴィエンヌは歩廊を途中で左に曲げてつくられている。その曲がり角の所で、美術の授業か何かで地面に座ってファザードやガラス屋根を写生する学生の姿が見られた。パリでは歴史的建築物や美術館のなかでけっこうこういった光景を見かける。


ジュソーム書店が扱っている絵葉書はセンスのいいものが多かった



彼女らに気をとられて曲がり角のガラス屋根を写すの忘れた(笑)


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