デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 




ヴィヴィエンヌ通りへ抜ける歩廊への曲がり角にジュソーム書店があるけれども、書店の手前には小さな階段があったりする。パサージュ・ジュフロワはクランク型歩廊に階段があったが、ギャルリ・ヴィヴィエンヌは歩廊の湾曲の手前にあり、これらの「工夫」はパサージュを単調なものにさせない遊歩者に散策をたのしませる要素となった。
パサージュ・ジュフロワのときにも書いたが、こういったイレギュラーの要素はパサージュを造るにあたって取得した土地が直線の通り道を造れない状態であったり、地面の高さが異なった状態ものを、苦肉の策として階段をつけたいわば禍転じて福となす?みたいなところがあったりするようである。





平板のガラス屋根を支える柱の内側はアーチ型になっているので目を惹いた




ギャルリ・ヴィヴィエンヌのメインの空間ともいえるこの歩廊は42mあるという。歩廊の左右に見られる店のアーチ型ファザードは、ナポレオン帝政下に建設されたリヴォリ通りの建築様式の特徴がでているという。
店を正面から撮るタイミングを逸したのでアーチ型ファザードの上半身?が多く写ってしまっている(笑)。リヴォリ通り(ルーヴル博物館の北側の東西に走る通り)の画像もいずれ紹介したい。

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ギャルリ・ヴィヴィエンヌの湾曲部にて

今回はギャルリ・ヴィヴィエンヌのなかに店を構える「ジュソーム書店」をタイトルにしてもいいかもしれない。
ジュソーム書店は古書店で創業1862年だが、リニューアルしてすっかり小奇麗になったという。私が店に着いた時間は開店時間直前だったようで、店主が準備を終える頃だった。






一言断って中に入らせてもらった。赤い表紙の『捨て子フランソワ』(ジョルジュ・サンド)が無いか、無謀にも少し探してみた。
いつリニューアルしたのかは知らないけれども、店は落ち着いた雰囲気でよかった。なじみの人がよく利用しているのだろうか。





昔からありそうな時計は止まったままだった



開店準備を済ませた店主が戻ってきた







現地から出した絵葉書の約半分は、この記事の画像に写っているものであったりする。150年近く続いている古書店で古本は買わなかったが、昔の白黒写真を用いた印刷面がきれいな絵葉書を買うというのはおもしろい体験だった。

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ジュソーム書店の方へ

パリでのブリュヒャー将軍の賭けっぷりについては、グロノウ著『大いなる世界より』(前掲書、五四―五六ページ)を見るとよい。彼は負けたときに、「フランス銀行」に一〇万フランの賭け金の前貸しを強要し、このスキャンダルが発覚するとパリを去らねばならなくなった。「ブリュヒャーは、パレ・ロワイヤル一一三番地の賭博場に入りびたりで、滞在中に、六〇〇万フランをすった。」パリから離れたときには、彼のもっている土地はすべて抵当に入っていた。パリは、戦争賠償金として支払った額より多くの収入を、ドイツ占領軍によって得た。   [O1,3]

盛り場の要素について、これまでいくつか触れてきたが、賭博場も欠くことはできないだろう。
『パサージュ論3』には賭博禁止令が出たところで、賭博場がすぐに姿を消したわけでなく、また賭博自体が恥と考えられていなかったことを示す断片もある。人間の三大道楽の一つはパリの盛り場の大きな要素の一つであり続けたのだ。
私は競馬にも競艇にも競輪にもお金を使わないけれども、ドストエフスキーの『賭博者』という小説を読んだときは物語だというのにそのルーレットが回る場面で異常に白熱した気分になったことがある。ドストエフスキーが賭博熱に取り憑かれ賭博場に入りびったエピソードは、ドイツのバーデン・バーデンでのものが印象に残っているが、ベンヤミンの『パサージュ論』で

一八三八年一月一日。「禁止令を受けて、パレ・ロワイヤルにいたフランスの胴元たちのうちブナゼとシャベールはバーデン=バーデンとヴィースバーデンへ行き、ほかの多くの使用人たちはピルモン、アーヘン、スパーなどへ行った。」エーゴン・セザール・コンテ・コルティ『ホンブルクとモンテ・カルロの魔術師』ライプツィヒ、三〇―三一ページ   [O7a,6]

このような断片を読んだとき、ひょっとするとドストエフスキーがドイツに逗留中のとき、そこにあった賭博場のなかにはパリの盛り場で胴元をやっていた人物が関わっていたり、その後継ぎのいる所があったかもしれぬと思ったものである。



壁面がきれいだな、と思っていたが、ギャルリ・ヴィヴィエンヌは1980年代後半に全面改装が行われていると、解説本にはあった。どうりで…。



プティ・シャン通りからヴィヴィエンヌ通りへの通り抜けられるギャルリ・ヴィヴィエンヌは歩廊を途中で左に曲げてつくられている。その曲がり角の所で、美術の授業か何かで地面に座ってファザードやガラス屋根を写生する学生の姿が見られた。パリでは歴史的建築物や美術館のなかでけっこうこういった光景を見かける。


ジュソーム書店が扱っている絵葉書はセンスのいいものが多かった



彼女らに気をとられて曲がり角のガラス屋根を写すの忘れた(笑)


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ヴィヴィエンヌ通り側に抜ける歩廊

前回

>ちなみに「ギャルリ」という言葉だが、いずれ紹介しようと思っているギャルリ・ヴェロ=ドダが宮殿の中のギャルリのように高級感を漂わせるようにつくったから「ギャルリ」と名づけた影響なのだろうか、ギャルリ・ヴィヴィエンヌもそういった意味をこめて「ギャルリ」を用いているのかもしれない。

と書いたが、これは誤りの可能性が高くなった。
というのは、ギャルリ・ヴィヴィエンヌが1823年~1825年にかけて造られ、1825年には開業したというのに、ギャルリ・ヴェロ=ドダは1826年の開通だからである。
記事の参考にさせていただいている鹿島茂著『パリのパサージュ』(平凡社)のギャルリ・ヴェロ=ドダの章36ページには

 そして、これらの新機軸の仕上げとして彼らが用意したのが、「パサージュよりも高級なパサージュ」という意味での「ギャルリ」という新しい名称だった。ようするに、ヴェルサイユの『鏡の間(ギャルリ・ド・グラース)』みたいなものと言いたかったのである。
 かくして、ギャルリ・ヴェロ=ドダという名を得てスタートした新しいパサージュは豊かさを追求する時代の好みに合ったのか大変な賑わいとなった。

とあり、私は「新しい名称」という言葉を、あたかもパサージュのような建物でギャルリ・ヴェロ=ドダが初めて「ギャルリ」という名称を用いた、というふうに読んでしまったのである。
だが、よくよく考えると既に触れているギャルリ・ド・ボワ(パサージュではないが名称としてギャルリとある)や、他にパサージュの建築として

1807年~1810年のギャルリ(バザール)・サン・トノレ
1811年のギャルリ・モンテスキュー
1823年~1825年のギャルリ・ヴィヴィエンヌ

などがあり、決してギャルリ・ヴェロ=ドダが最初に「ギャルリ」という名称を用いたわけではないのだ。
となると、本にある

「パサージュよりも高級なパサージュ」という意味での「ギャルリ」という新しい名称

という記述はどうなのだ? ギャルリ・ヴェロ=ドダをヴェルサイユの『鏡の間(ギャルリ・ド・グラース)』をイメージさせるようなつくりにし、名称も「パサージュ」を用いず新機軸の意味を込めて「ギャルリ」を用いた、というのなら分かるのだが…。
おかげで、パサージュの歴史のページを見てこのことに気づくまで、

・「ギャルリ・ヴィヴィエンヌは、ベンヤミンが引用した書物の記述どおり元はパサージュ・ヴィヴィエンヌという名称で、後の改装のときに名前をギャルリに変えたのかな?」
・「先に出来上がったギャルリ・ヴィヴィエンヌを開業したマルショーという人物が、工事時期が重なりはしているパサージュ・ヴェロ=ドダの関係者から知恵を拝借してたんだろうか?」

などと勝手な想像までしてしまった(笑)。

細かいことかも知れぬが一応「訂正かも」というタイトルで記事を残す。

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ヴィヴィエンヌ通り側の入口

「パサージュ・ヴィヴィエンヌで、
 彼女はぼくに言った ヴィエンヌ地方の生まれよ。
 さらに彼女は加えて言った、
 伯父さまの家に住んでるの、
 父(パパ)の兄弟よ。
 伯父(オンクル)の面疔(フュロンクル)を手当てしているの、
 魅力に富んだ境遇だこと。
 パサージュ・ボンヌ・ルヴェルで
 娘さんとまた落ち合うことになっていた、
 でも、パサージュ・ブラディで
 待ちぼうけくらった。
 ……
 こんなものさ、パサージュ(通りすがり)の恋は!」(ナルシス・ルボー作詞)
レオン=ポール・ファルグ「パリのカフェⅡ」[『ヴュ』九号、四一六ページ、一九三六年三月四日]に引用  [A11,2]

ベンヤミンが引用した詞ではパサージュ・ヴィヴィエンヌとなっているが、たぶんこれはギャルリ・ヴィヴィエンヌのことだろう。
ちなみに「ギャルリ」という言葉だが、いずれ紹介しようと思っているギャルリ・ヴェロ=ドダが宮殿の中のギャルリのように高級感を漂わせるようにつくったから「ギャルリ」と名づけた影響なのだろうか、ギャルリ・ヴィヴィエンヌもそういった意味をこめて「ギャルリ」を用いているのかもしれない。


ギャルリ・ヴィヴィエンヌの歩廊のモザイク

都市が一様だというのは見かけだけのことにすぎない。それどころか、その名前さえ、都市の地区ごとにその響きを変えてしまう。夢の中を別とすれば、それぞれの都市においてほど境界という現象がそれ本来の姿で経験されうる場所はほかにない。その町を知っているということは、高架沿いや家々の間や公園の中や川沿いを走る境目としてあのいくつもの線を知っているということ、そしてこれらの境界とともに、さまざまな領域の飛び地をも知っているということにほかならない。境界は〔まるで別の世界への〕敷居のように街路の上を走っている。そこからは、虚空へ一歩踏み出してしまったときのように、まるでそれに気づかないままに低い階段に足を踏み出してしまいでもしたかのように、ある新たな区域が始まるのである。  [C3,3]

通過(パサージュ)儀礼――死や、誕生や、結婚や成人などに結びついた儀式を民俗学ではこう呼ぶ。近代の生活ではこうした節目は次第に目立たなくなり、体験できないものになってしまった。われわれは、別の世界への敷居を超える経験にきわめて乏しくなってしまっている。おそらく眠りにつくことが、われわれに残された唯一のそうした経験だろう(したがって目覚めも同様である)。敷居を越えることで夢が形態を変化させるように、会話でのやりとりの変化や愛における役割変化も敷居ぎわを大波のようにゆれ動いているのである。アラゴンは言う。「人間は、想像力の戸口に立ちつくすことをなんと好むことか!」(『<パリの>農夫』パリ、<一九二六年>、七四ページ)。愛する者や友人同士はこの想像力の門の敷居からばかりでなく、敷居たるものすべてから、力を吸い取りたがるものである。ところが、娼婦たちは逆に、この夢の門の敷居が好きなのだ。――敷居というものは、境界線とはっきり区別されねばならない。敷居は一種の領域である。変化や、移行や、満潮などの意味合いが、「溢れる」〔schwellen〕という言葉には含まれている。語源研究はこれらの意味合いを見逃すべきではない。しかしその一方で、この言葉がそうした意味合いを持つようになった直接の構造的、儀式的な連関を確定することが必要である。■夢の家■  [O2a,1]

このような境目についての表現はけっこう好きなのだが、日常生活であっても外国の旅行先でも思った以上に境目に慣れてしまうというか、そこまで気を止めなくなっているものだ。特別な目的意識を持っている場合は別だが。


古本がずらりと並んでいた


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メアリー・マッカーシー『アメリカの鳥』(1971)(中野恵津子訳、河出書房新社)を読了。

子どもの頃に私個人が持っていたアメリカという国のイメージは洋楽のベスト10、スポーツでは一番、映画産業が最も華やか、アメリカンドリームが頻繁に起こる、など、とにかく最も豊かで幸せしかないような自由な国といったものだった。
少し大きくなると、

アメリカ人が旅行先のロンドンでテムズ川を見て「アメリカにはミシシッピ川のような長くて広大な川があるけど、それに比べてテムズ川はなんら大したことないな」と言い放つと、イギリス人のガイドはすました顔で「この川には歴史が流れているのです」と応えた、

というジョークの意味を頭では分かるようになった。
『アメリカの鳥』を読んでいてしばらくしてから上のジョークのことを思い出した。そして改めてなぜそれが一般にうけることがあるのか、そのことに気づかせてくれるような作品とも思うようになった。
北アメリカの文芸作品の名作とされているものはけっこうあるが、それらを大して読んでないのに『アメリカの鳥』について、先日(読書中ではあったが、)

>現代アメリカの精神史を表現しているものとしては卓抜した作品であるような気がしてきているのである。

と書いたけれども、精神史というよりは現代アメリカの教養小説(ビルドゥングスロマン)の逸品というほうが合っているように思う。と同時に、アメリカ人の作家でも新興国であることから自国の伝統の欠如に悩む青年というテーマを採り上げて書くことがあるのだ、という驚きがあったのは否めない。これは単にアメリカの文芸作品について知らなさ過ぎる私の馬脚を現しているわけだが、やっぱり私はまだまだアメリカにはいろいろな「移民」で成り立っていると思いつつも、どこか画一的なイメージをもったままで『アメリカの鳥』に接したということであろう。
作品の主人公ピーターは自分の中の反米主義に苦しむが、日本でも自分の中の反日主義に苦しむ人たち、中国でも自分の中の反中主義に苦しむ人たちにとっては、青年期のピーターの苦しみが痛いほどわかるのではと思う。理不尽なことや、議論のすり替えや自己欺瞞が嫌いで、自意識が過剰で常に良心がうずいて仕方のないピーター青年の心情に、共感できる人も多いだろう。そして作品は先ほどのジョークで笑われる側となると暗澹たる気持ちになる人がいることに少しは忖度を促させ、川の大きさだけを誇る以外に世界と自国との歴史的関わり合いについて考えることも大事だと気づかせてくれると思うのである。

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