年のせいか、あるいは顔面麻痺の後遺症かで、日常ふと、耳や目の不調を感じると、また何か別の神経性の疾患に襲われるのではないかというような不安がわくことがある。
もし、目が見えなくなったら動きがとれない。暗闇のなかで生きていくのは辛すぎる。それなら耳が聞こえないほうがまだいいかとも思う。耳が聞こえなくても自分で家事ができるし、文章を書くこともできる。でも、二度と家族の声も世のなかの音も聴くことができなくなったらと思うと、耐えられない。
目や耳以外の別の部分でも、体の機能が失われて、自分で動けなくなったら、と思うと恐ろしくてしかたがない。貧乏でもいいから、とにかく元気で動きまわっていたいと思う。恐怖におびえつつ、何かを喪失したことを想定して、そうなったら、何に生きがいが持てるかを考えてしまう。立ち直れそうなものと、答えが出ないものがある。完全なすべての喪失が死である。
事故であれ、自ら発病したのであれ、人間は昨日の自分ではなくなることがある。また、自分は健全でも、周りの状況が昨日とは一変してしまって不幸が訪れることがある。
それは、テレビなどでドラマやニュースを見ていて感じることも多いが、自分自身がある日突然顔面神経麻痺になってそれきり元にもどらないという経験にもよるものである。
顔面麻痺は少なからず私の人格や性格に影響を与えている。
北野武の映画が公開されているそうで、死が意識された作品だといわれたりしている。
私は映画を見ていないから、映画については何ともいえないが、北野武は数年前に大きな事故をして、生死にかかわるような体験をしている。だから、今現在に何か要因があるわけではなくても、常に死を意識して生きているということはいえると思う。
本人は「映画の製作中に、頭の具合が悪くて、脳梗塞ではないかと思って病院にかかったが何でもないといわれた」とかテレビの取材の中で言っていた。映画の題名には、「たけしたち」「たけしのもの」「たけし死す」の意味があるとか。
現在の北野氏に何か深刻な不安要因があるのかないのかは知らない。多少太ったんじゃないかというのが私が彼に対してちょっと気になる部分だ。
以前(9月6日・8日のブログ)、私は北野武について触れたことがある。映画で北野氏が自分自身の「顔」にこだわったことについて書いた。
世の中の人は「武の顔は治った」と思っている人もいるし、「いや、後遺症で口が曲がっているんじゃいの?」くらいに思っている人もいるようである。
人にとってどうでもいいことでも、本人にとって自分の現在の顔は、自分の生きてきた証であり、生きてきた道である。自分の精神でもある。自分の顔に残っている後遺症は死にかかったという過去の記録だ。本人はそれを感じ続けながら生きているのだ。他人が忘れても本人が忘れることはない。そして、時がたつと、それなりに自分の過去の解釈を始めると思う。その過去の自分からつながっているのが今の自分だから、後遺症を残していき続けてきた今の自分の顔が今の自分そのものであり、今の自分の本質であるといえる。
人が、自分自身に目を向けて作品を作るときは、
画家が自画像を描くのと同じではないだろうか。
それが、映画作品だったり、小説だったり、詩だったり、歌だったりする。
生の喜びを描いたとしても、その裏に死の恐怖があり、幸福感を描いたとしても、その裏に喪失への不安が存在している。
もし、目が見えなくなったら動きがとれない。暗闇のなかで生きていくのは辛すぎる。それなら耳が聞こえないほうがまだいいかとも思う。耳が聞こえなくても自分で家事ができるし、文章を書くこともできる。でも、二度と家族の声も世のなかの音も聴くことができなくなったらと思うと、耐えられない。
目や耳以外の別の部分でも、体の機能が失われて、自分で動けなくなったら、と思うと恐ろしくてしかたがない。貧乏でもいいから、とにかく元気で動きまわっていたいと思う。恐怖におびえつつ、何かを喪失したことを想定して、そうなったら、何に生きがいが持てるかを考えてしまう。立ち直れそうなものと、答えが出ないものがある。完全なすべての喪失が死である。
事故であれ、自ら発病したのであれ、人間は昨日の自分ではなくなることがある。また、自分は健全でも、周りの状況が昨日とは一変してしまって不幸が訪れることがある。
それは、テレビなどでドラマやニュースを見ていて感じることも多いが、自分自身がある日突然顔面神経麻痺になってそれきり元にもどらないという経験にもよるものである。
顔面麻痺は少なからず私の人格や性格に影響を与えている。
北野武の映画が公開されているそうで、死が意識された作品だといわれたりしている。
私は映画を見ていないから、映画については何ともいえないが、北野武は数年前に大きな事故をして、生死にかかわるような体験をしている。だから、今現在に何か要因があるわけではなくても、常に死を意識して生きているということはいえると思う。
本人は「映画の製作中に、頭の具合が悪くて、脳梗塞ではないかと思って病院にかかったが何でもないといわれた」とかテレビの取材の中で言っていた。映画の題名には、「たけしたち」「たけしのもの」「たけし死す」の意味があるとか。
現在の北野氏に何か深刻な不安要因があるのかないのかは知らない。多少太ったんじゃないかというのが私が彼に対してちょっと気になる部分だ。
以前(9月6日・8日のブログ)、私は北野武について触れたことがある。映画で北野氏が自分自身の「顔」にこだわったことについて書いた。
世の中の人は「武の顔は治った」と思っている人もいるし、「いや、後遺症で口が曲がっているんじゃいの?」くらいに思っている人もいるようである。
人にとってどうでもいいことでも、本人にとって自分の現在の顔は、自分の生きてきた証であり、生きてきた道である。自分の精神でもある。自分の顔に残っている後遺症は死にかかったという過去の記録だ。本人はそれを感じ続けながら生きているのだ。他人が忘れても本人が忘れることはない。そして、時がたつと、それなりに自分の過去の解釈を始めると思う。その過去の自分からつながっているのが今の自分だから、後遺症を残していき続けてきた今の自分の顔が今の自分そのものであり、今の自分の本質であるといえる。
人が、自分自身に目を向けて作品を作るときは、
画家が自画像を描くのと同じではないだろうか。
それが、映画作品だったり、小説だったり、詩だったり、歌だったりする。
生の喜びを描いたとしても、その裏に死の恐怖があり、幸福感を描いたとしても、その裏に喪失への不安が存在している。