2日仕事をして1日休み、明日また1日仕事をしたら、2日休みだ。
まだ、なんとなく正月の休み癖が直らず、体もアタマも常に「働きたくないなあ」という傾向にある。
自分の家に居たい、布団の中がなおよい、という気分だ。
日本語教師をしていたころ、同僚などもよく言っていたが、休み明けの授業はなぜか緊張した。
やはり、休み中にリラックスしすぎていて、物事に臨む緊張感を回復するためのエネルギーの必要性を実感するわけだった。
授業の準備に明け暮れる覚悟を決め、失敗の許されない毎日をこなしていくことの連続が始まる。
今思うと、同僚や学生に対するはったりも常に必要だったから、いつもある程度の緊張感に身をおくのが普通の状況だった。
教壇に立つことは、1つのステージに立つことでもあった。
その緊張は当時は一種の快感でもあったが、そのための準備にとりかかるところからそこに至るまでアドレナリンの分泌が必要なものだと感じた。
しかし、今の仕事は準備もいらないし、人前にさらされるというようなことはないから、休み明けに特別な注意や覚悟などはいらないし、それほどの緊張感が起きるはずがないと思っていた。
でも、なぜか今回、この仕事についてからいまだかつてない緊張感が起きていて、それがなぜなのか判らない状況だ。
もう2年たった。だから、それなりの仕事をしなくてはいけないという気持ちもある。だから、下手な見落としやミスが怖い。
メールの打ち方などという簡単な作業もビジネス文書などの経験がないので、怖い。パソコン操作ももっと高度な方法を知っていれば作業の仕方が違うのかもしれないとも思うと、自分の未熟さがこわい。
居心地の良い慣れた職場のはずなのに、なんとなく緊張してしまうこのごろだ。
ここが「自分の居場所」のはずなんだけどなあ、と思う。
正月休みで、自分の居場所が「会社」ではなく「自宅」になってしまったので、楽なほうへ楽なほうへと進んでしまったのであろう。
人はそうやってニートになってしまったりするのかもしれない。
もとにもどさなくては!
まだ、なんとなく正月の休み癖が直らず、体もアタマも常に「働きたくないなあ」という傾向にある。
自分の家に居たい、布団の中がなおよい、という気分だ。
日本語教師をしていたころ、同僚などもよく言っていたが、休み明けの授業はなぜか緊張した。
やはり、休み中にリラックスしすぎていて、物事に臨む緊張感を回復するためのエネルギーの必要性を実感するわけだった。
授業の準備に明け暮れる覚悟を決め、失敗の許されない毎日をこなしていくことの連続が始まる。
今思うと、同僚や学生に対するはったりも常に必要だったから、いつもある程度の緊張感に身をおくのが普通の状況だった。
教壇に立つことは、1つのステージに立つことでもあった。
その緊張は当時は一種の快感でもあったが、そのための準備にとりかかるところからそこに至るまでアドレナリンの分泌が必要なものだと感じた。
しかし、今の仕事は準備もいらないし、人前にさらされるというようなことはないから、休み明けに特別な注意や覚悟などはいらないし、それほどの緊張感が起きるはずがないと思っていた。
でも、なぜか今回、この仕事についてからいまだかつてない緊張感が起きていて、それがなぜなのか判らない状況だ。
もう2年たった。だから、それなりの仕事をしなくてはいけないという気持ちもある。だから、下手な見落としやミスが怖い。
メールの打ち方などという簡単な作業もビジネス文書などの経験がないので、怖い。パソコン操作ももっと高度な方法を知っていれば作業の仕方が違うのかもしれないとも思うと、自分の未熟さがこわい。
居心地の良い慣れた職場のはずなのに、なんとなく緊張してしまうこのごろだ。
ここが「自分の居場所」のはずなんだけどなあ、と思う。
正月休みで、自分の居場所が「会社」ではなく「自宅」になってしまったので、楽なほうへ楽なほうへと進んでしまったのであろう。
人はそうやってニートになってしまったりするのかもしれない。
もとにもどさなくては!
