エッセイってのは、気楽に書けるもんだと思います。
その辺に売っているエッセイの本でも、そんなたいしたことが書いてあるわけじゃありません。じゃあ、なんで本になって売れているのかというと、そのエッセイがすばらしいわけではなく、そのエッセイはその人物の業績に付随したものだからだと思います。
何かの分野で重要な働きをしている人のエッセイだから、人はそれを読もうとします。
その人がどういうことを考えているのかというのも大きな興味です。
何の肩書きも職業もなく、ただのエッセイストっていうのは、滅多にいないのではないでしょうか?
何かの職業を極めている人、その人のエッセイだから価値があるのですね。
テレビ番組のトークショーで、たわいのないことをしゃべっていても、そのひとは「何者」かであるから、価値があります。クイズ番組でもバラエティーでも同様です。
そこに、一般人を持ってきてもだめです。その人たちは特別な意味のあることをしたり話したり見せたりするわけではなくても、何か別のことで、「プロ」であることが重要です。
なにかのことで一端の「プロ」であることが、その人間の「器」であるからです。
「器」がない人間は価値がありません。
テレビのコメンテーターは「女優」であり「弁護士」であり「医者」であり「大学教授」であったりします。主婦のコメンテーターなどはいません。
「評論家」は書いたりしゃべったりしますが、ある専門分野について研究し論じる人です。まずは、「研究」が重要です。
「記者」も書きますが、まずは取材しテーマを追求することが重要です。
ペン一本で食べていくプロの代表といえば、「小説家」です。
小説家には資格は必要ありません。実力さえあれば認められます。
でも、小説はエッセイのようにはいきません。誰にも書けるようなものではありません。
小説家にはエッセイが書けますが、エッセイストに小説が書けるわけではない。構想がわかないのです。小説はストーリーの展開も描写もエッセイの比ではありません。
文章のプロになりたければ小説家をめざします。
私はいくつかの小説の構想を持っています。しかし、それは個人の経験に基づいたもので、登場人物は今現在この世に存在する人々であり、その内容は驚くに値するもので、とても世の中に公表できるようなものではありません。
事実を変形しデフォルメしないと面白い小説にはなりませんが、そんなことをすると、私自身が変態か狂気の人間だと思われるかもしれません。そんな勇気はありません。
また、実在の人物や法人をそのままに描くことも脚色して描くことも、当人たち、あるいはその集団・組織にとって迷惑となります。
必ずモデルは何かという話になるからです。
私は、その人たちに抹殺されるかもしれないという恐怖さえ抱きます。
私は心の隅に様々な材料を蓄積していますが、実在から得たその素材を使うわけにはいかないだろうと思っています。
しかし、まったく実在しない物事を構想し作り出す力は私にはありません。
だから、小説を書くことは私にとってかなり難しいことだと思います。
何かのプロでなければ「エッセイスト」にはなれない。
まず、エッセイ以外の業績が必要です。
エッセイストというのは本来そういうものだと思っています。
その辺に売っているエッセイの本でも、そんなたいしたことが書いてあるわけじゃありません。じゃあ、なんで本になって売れているのかというと、そのエッセイがすばらしいわけではなく、そのエッセイはその人物の業績に付随したものだからだと思います。
何かの分野で重要な働きをしている人のエッセイだから、人はそれを読もうとします。
その人がどういうことを考えているのかというのも大きな興味です。
何の肩書きも職業もなく、ただのエッセイストっていうのは、滅多にいないのではないでしょうか?
何かの職業を極めている人、その人のエッセイだから価値があるのですね。
テレビ番組のトークショーで、たわいのないことをしゃべっていても、そのひとは「何者」かであるから、価値があります。クイズ番組でもバラエティーでも同様です。
そこに、一般人を持ってきてもだめです。その人たちは特別な意味のあることをしたり話したり見せたりするわけではなくても、何か別のことで、「プロ」であることが重要です。
なにかのことで一端の「プロ」であることが、その人間の「器」であるからです。
「器」がない人間は価値がありません。
テレビのコメンテーターは「女優」であり「弁護士」であり「医者」であり「大学教授」であったりします。主婦のコメンテーターなどはいません。
「評論家」は書いたりしゃべったりしますが、ある専門分野について研究し論じる人です。まずは、「研究」が重要です。
「記者」も書きますが、まずは取材しテーマを追求することが重要です。
ペン一本で食べていくプロの代表といえば、「小説家」です。
小説家には資格は必要ありません。実力さえあれば認められます。
でも、小説はエッセイのようにはいきません。誰にも書けるようなものではありません。
小説家にはエッセイが書けますが、エッセイストに小説が書けるわけではない。構想がわかないのです。小説はストーリーの展開も描写もエッセイの比ではありません。
文章のプロになりたければ小説家をめざします。
私はいくつかの小説の構想を持っています。しかし、それは個人の経験に基づいたもので、登場人物は今現在この世に存在する人々であり、その内容は驚くに値するもので、とても世の中に公表できるようなものではありません。
事実を変形しデフォルメしないと面白い小説にはなりませんが、そんなことをすると、私自身が変態か狂気の人間だと思われるかもしれません。そんな勇気はありません。
また、実在の人物や法人をそのままに描くことも脚色して描くことも、当人たち、あるいはその集団・組織にとって迷惑となります。
必ずモデルは何かという話になるからです。
私は、その人たちに抹殺されるかもしれないという恐怖さえ抱きます。
私は心の隅に様々な材料を蓄積していますが、実在から得たその素材を使うわけにはいかないだろうと思っています。
しかし、まったく実在しない物事を構想し作り出す力は私にはありません。
だから、小説を書くことは私にとってかなり難しいことだと思います。
何かのプロでなければ「エッセイスト」にはなれない。
まず、エッセイ以外の業績が必要です。
エッセイストというのは本来そういうものだと思っています。