山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

墓の話

2007-01-20 22:49:54 | 未分類過去
「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません~」という歌詞で始まる、今話題の「千の風になって」について。

死んだ人は墓にはいなくて、風などの自然の一部になっていているということだ。
だから、身近なところで見守ってくれたりしているわけだ。

確かに、私も父が死んで、もはや肉体がなくなった後、父はこの空気の中に溶け込んでいると感じた。だから遠くに行ってしまったという気はしなかった。

でも、墓には死者の骨が安置されているので、そこに魂があると感じるわけではないが、墓参りに行ったときは、さもそこに在宅(?)しているかのようにおまいりする。
夫の母と兄は、私の実家近くに夫が買った墓に一緒に入っており、あの世で同居できているから、寂しくないだろうなどと思ったりする。
夫の父は、夫がまだ小さい時になくなり、自分の実家の先祖の墓に入ったまま、今現在もそのままになっている。昔の墓だから骨を骨壷などにいれず直に土に埋め、その後新しい墓を作り直したりして、先祖の骨はごちゃ混ぜというか、すでにただの土になってしまっているようだ。今ではもはや義父の骨を改葬することは実質上困難であり、するとしても形式的な改葬となる。
だが、生前夫の母は、将来人が墓標をみたときに、私生児のように思われたらいやだから、改葬の手続きをしてお父さんの骨を持ってきてねというようなことを言っていた。
しかし、東北の墓から静岡県の墓にもって行くのは、東京に住んでいる私たちにはなかなか面倒なことであり、いつできるかわからない。

ところで、変な話だが、この歌のせいで墓参りをしなくなる人が増えるかもしれないなどという声も耳にした。確かにこの歌を聴くと、死者は墓にいないんだと納得し、我が家の場合は、苦労して埋葬したものを移動する意味もないように感じたりする。

この歌は、真面目な歌だが、我が家ではそのほかにもいろいろと現実的なことを思い起こす。実は、うちは夫の母と兄の入っている墓には石塔を建てていない。母がなくなりもうすぐ2年になる。最初は一周忌までに建てようと思っていたのだが、これも墓の場所が遠く、なかなか石材屋などにいっている暇もなく、事がすすまない。また、もっと大きな理由としては、予算がない。
この歌で「墓になんかいない」と聞くと、逆に「墓にいたとしたら」という発想が生まれてしまうのがおかしい。もし墓に母と兄がいるとしたら、石塔のない墓で周囲に肩身の狭い思いをしているかもしれない。死者が墓地で暮らしているとしたら、近所づきあいもたいへんだろうな。「墓になんかいない」ということになれば、死者が周囲の墓の住人と共存するのに苦労することもなかろう、などと思うわけである。
とりあえず、墓は子供が就職して自立し、もう教育費がかからなくなった時点で貯金が残っていれば、それで建てることにしようと夫婦で言っている。亡くなった人には悪いけど、生きている人間のことを優先にさせてもらうと夫は言う。亡くなった母たちもそれで承諾してくれるはずだ。死者は墓にはいない。墓を建てるのは生きている人間の世間体みたいなもんだ。

この歌は、「死者からのメッセージだ」という人がいる。死者からのメッセージってことはなかろう。もしかしたら死にゆく人が死後を思って書いたのかもしれないが、生きている人間が書いたことに間違いはない。
だから、死んだらどうなるかなんてことはわからない。この歌は生きている人間が作ったなぐさめである。

そういうわけで、すごくまじめで癒される歌でありながらも、私にとっては、なんだかいろんな雑念を連想させる歌である。

(関連 墓のこと    続 墓のこと
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裸体の話

2007-01-20 14:02:14 | 未分類過去
ひきつづき、DJOZMAの裸踊りの話になります。
紅白というのは、とにかく衣装のパフォーマンスで勝負するという要素があります。
どんなすごい衣装を着てでてくるかというのが、視聴者の楽しみでもあります。
いったい、一番人間を美しく見せる衣装とはどんなものでしょうか?
それで、すごい装飾、すごい色彩、すごいデザインの衣装を用意する出演者が多いでしょう。懲りすぎて身動きのできない装置の一部のようになってしまっている人さえいます。
人間の肉体、人間の活力を表現するとき、人間が生きている喜びを全身で表現するとき、その原点であり、もっとも美しいものは、「裸」ではないでしょうか?
しかし、裸そのもので出演することはできないのですから、裸をあらわす衣装を身につけるという究極の発想が起こるでしょう。
そこの何が悪いのか私にはわかりません。

昔、黒柳徹子さんが、「徹子の部屋」で裸の胸がすけすけになっている服を着ていてぶったまげたことがあります。よくよく見ているとそのように見える印刷が施された、そういうデザインの服でした。ゲストを招いて対談する番組にそんなものを着る必要はないともいえます。でも度肝をぬかれたりすることも楽しいです。

天上のビーナスは裸であり、地上のビーナスは服を着ている。
裸は神聖であり、服を着ているほうが俗であるという考えもあります。

日本の風土として、昔から開放的な民族だったのではないでしょうか。
人前で乳房を出して授乳するなどということは普通だったし、露天風呂の混浴などもするおおらかな民族なんじゃないでしょうか。

他の国々でも温かい地域では日常女性が乳房を露出して裸に近い格好で生活しているところだってあります。そういうのを見ても何もいやらしさは感じません。

リオのカーニバル。女性がどの程度乳房などを露出しているかどうかは知りませんが、やはり肉体美を発散しているという感じがします。そこにいやらしさはありません。

お祭です。パフォーマンスです。それ以外の何ものでもないでしょう。
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NHK紅白「千の風」と「アゲアゲ」 

2007-01-20 12:51:01 | 未分類過去
新井満 訳詩 作曲「千の風になって」
「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません、」という言葉から始まるこの歌に癒されるひとが多く、最近話題の中心になっている。
詩もいいが、それをのせているメロディーが非常に自然な流れである。
日本語の言葉の高低に逆らわず語るように歌えるメロディーとの調和がすばらしいといえる。クラシックの声楽家秋川雅史氏は当然ながら美しい歌声だが、姿も美しく、人を感動させとりこにさせる。NHK紅白で歌われたこの歌には愛と品格があった。
この歌を日本中に知らしめたのは他でもないNHK紅白である。NHKの役割は高く評価されていいだろう。

だが、巷ではNHKに対する批判の話題が殺到している。
OZMAの「アゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士」の方は、まるで女性の裸体に見えた衣装でのダンス入りの歌が非難の的となり、下品でわいせつ物陳列罪に近いような扱いである。
私は見ていて驚きはしたが、どちらかというと爽快だった。全くワイセツという気はしなかった。生まれたままの姿で元気に楽しもうっ!って感じに思えた。NHKもずいぶん変わって一皮むけたかなと思ったくらいだ。強いて言えば股間に貼り付けたきのこみたいなものが見苦しかったが・・・。
以前他の局で初めてOZMAを見たときには、パンツで歌う下品なやつらだくらいに思っていたが、紅白の時には正直言ってすごい迫力とオーラだった。初めから目が離せない。裸姿になる前から、歌も踊りもプロだ!と思った。だから、くだらないものを見せているんじゃない。あの踊りは馬鹿騒ぎではなく芸術の域に達していると思う。その辺をNHKの関係者は自信を持って主張してもらいたい。知らなかったなどと言い逃れしたり、一部の人が文句を言ったから詫びるとか、知識人の意見を聞いて是非を判断するとかではなく、自分たちの姿勢や意見をはっきりさせるべきだ。
一部の人間の受取り方や体裁ではなく、アーティストが何を発信しようとしたかが重要だ。
私はあれが日本人の若者の自由健全、人生肯定のパワーでもあると思った。
あれを見ていて、すごい元気をもらった人は多かったはずだ。

そして、はっきりいえることは、「千の風」も「アゲアゲ」も現代日本の文化に違いないのであって、そのどちらか一方でもなく、そのどちらか一方でないことをよろこぶべきだと思う。
それらを日本の年末行事を代表する紅白歌合戦に登場させたのはNHKの役割であり価値であり、ちゃんとそれを全うしているのだ。
DJOZMAを抹消するとしたら、それは本当の日本の姿ではない。
表面上の品格を守ることに、どれだけの意味があるだろうか。

(千の風の詩の内容について書こうと思ったらまた別の話になってしまいました。)

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教育格差

2007-01-20 02:55:38 | 未分類過去
お金持ちと貧乏人との間に教育格差があるのは歴然としているが、都会と地方の教育格差もまた激しいものだ。
地方に住んでいると、どんなにお金があったところで、予備校も塾もないわ、大学はないわ、一流大学に通う大学生の家庭教師などはいないわで、子供に勉強意識や競争意欲を植え付けたりするのが難しい。

逆に都会には住んでいても、貧乏な者は塾も家庭教師も関係ない。できるだけいい学校に入ろうとたくさんの学校を受験するということも不可能だ。受験料を出すのも苦しい。それで、小さい頃からお金のかからない無難で安全な進路を選んでいく。まあ、うちなんかの場合、田舎に住んでる人と同じことだ。

だから、都会に住んでいて、かつお金のある家庭の子というのが、学力を上げるという意味での万全な教育を受けることになる。


過去のことを思い出したついでに、私の青春にとってA君と共に重要な存在であったB君のことを書こうと思う。

B君は秀才であり、今や故郷で医院を開き、院長になっている。
普段はまったくやり取りはないが、年に一回年賀状だけは送られてくる。その辺はさすがに几帳面なB君らしいところである。医院のはがきではあるが、近況が手書きされている。
その年賀状で知ったところ、B君の妻子は東京に引っ越したそうだ。というか、B君も週末になると東京の家で家族団らんの生活を送っているとのことだ。つまりは、平日のみ田舎に単身赴任しているといったほうがいいだろう。
思うに、お子さんは高校に入るくらいの年齢になっているはずである。おそらく東京の学校に進学したか、進学するべく子供の教育のために引越してきたのであろう。そして、いかいもそうまでして子供の環境を整えようとするようなタイプなのだ。だが、確かにそうでもしなければ子供に全国的なエリートコースを歩ませることはできないだろう。

やはり、田舎ではだめなのだ。どんなに優秀でも十把一絡げであののんびりした母校にはいるしかないんだから・・・。越境してトンネルを越え山を越えて2時間かけ、田んぼの中のエリート校に通ってもあまり効果はない。だから東京に引越してきたのだろう。

故郷の田舎=活気がなく寂れて人が成長できないところ。今では無人駅も多くなっている。・・・どうしたらいいかなあ。
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高校偏差値

2007-01-20 00:50:39 | 未分類過去
昔のことを思い出したついでに、ネットで母校を検索したりしていたら、全国高校偏差値なるものが出てきた。
自分の母校が今現在どのくらいの偏差値であるかは、気になるところである。
私の田舎では、東京と違って普通に通える範囲の公立高校は3校くらいしかない。
だから、300人以上いる同じ中学の生徒の大部分は、数十人ずつ分散してそれらの高校に入っていくことになる。ごく少数のエリートが越境して遠くの高校に進学し、また、公立高校に入れない人や変わり者が遠くの私立校に進学する。そういう子は始発電車で通うとか、下宿するとかしなければだめである。その状況は今も変わっていないだろう。

普段、うちの子を見ていて、自分より馬鹿だよなと思っていた。
私も成績は大してよくなかったが、中学内の実力テストなどの順位からいくと、私のほうが子供たちより出来がいいといえる。
それで、子供たちは大したこともない高校に入ったわけだ。

今まで、自分の故郷の高校の偏差値というのはなかなか資料がなかったので、うちの子の高校と比べることはできなかったが、ずっと上であると思いこんでいた。
きょうはそれを見ることができるので、子供たちに自慢してやろうと思った。

ところがである、びっくり仰天!
馬鹿だと思っていた子供たちの高校のほうが、私の出身高校よりずっと偏差値が高いのだ。ウソだろう。いったいどうやってこの数値を出しているんだろうか。

しかし、それが現実か。やはり都会と田舎の差なのであろう。
確かに大学進学率など見ても東京と田舎では差が歴然だ。

都会の子は子どもの頃から皆塾などに行っているし、地域全体の意識が違う。
私の故郷は、ある掲示板では全国で最低の学区などとバカにされていた。
地元ではエリート高とされているが、全国的に見るとかなり程度が低いという問題地域らしい。
そういえば、昔から「素質はあるのに意欲が足りない」というのが母校のカラーだったことは確かだ。教員も生徒ものんびりちんたらしているわけだ。それは今も変わらないかさらにひどくなっているらしい。

自分の母校にはがっかりだが、バカ高校だと思っていた子供の高校の偏差値が意外にも自分の高校より高かったのは、逆に嬉しかった。
変なもんだな。

それにしても、こういう偏差値表は、公立の滑り止めにしている私立校のほうがずっと偏差値が高く記入されているのに驚く。それはおかしい。

地域の誤差や、公立と私立の誤差ははげしく、あてにはならないものと見た。
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