山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

お盆に走った道路

2011-08-15 22:36:27 | 運転・車・道路の事
私は、幹線道路といえば青梅街道や環八を走ることが多い。このお盆には東京の都心は道路が空いているということなので、どこを走ろうかと考えてみた。

まず、環八はダメだ。環八は、高速道路に通じているから混んでいるに違いない。案の定、環八は混んでいた。環八はだいたいいつでも混んでいるのだ。
青梅街道はそうでもない。青梅街道と環八が交わる交差点といえば「四面道」である。
青梅街道を西から東に進み、環八に右折(高井戸・世田谷方向)しようとすると、なかなか進めない。四面道の手前で右折レーンができるわけだが、だいたい右折する車たちは、この右折レーンに入りきれないほど並ぶ。初めて走ったときには、それを知らずに直進してしまい、右折レーンに入れなかったことがあるのだ。今では知っているので、第3車線の右に寄ったまま進んで行き、右折車の列につく。このあいだは、後のほうからクラクションの音がしていたが、後ろの交差点まで右折車が続いていたのかもしれない。
直進レーンは比較的スムーズに進んでいくので、からっぽになったりする。しかし、右折の青信号はなかなか出ないし、出てもだいたい4台くらい車が進むと赤になってしまうので、長く並んでいる時は、ここで信号を2回くらい待つことになる。

そういうわけで、お盆は、環八は走らず、青梅街道を走ることにした。とはいっても、都心まではいかず、中野坂上までいって、山手通りに左折し、落合で早稲田通りに左折して、ぐるっと回ってくるという単純なコースである。

私はどちらかというと、環八のほうが走り慣れている。環八は混んではいるが、それほど邪魔な駐車車両はない。杉並・中野あたりの青梅街道は相変わらず、第一車線に駐車車両があって、車線としてほとんど用を成さない。駐車車両をよけるために自転車までが第二車線に出っ張って来ることもある。次の交差点で左折する場合でも、交差点の直前に車が駐停車している事が多いので、第一車線に移動してはいけないのだ。お盆はそんなことを知らない車が走っているからなのか、やたらに前方を走る車が車線変更をし、なんとなく落ち着かなかった。実は私もお盆だから業者の車などはいないのかと思っていたが、それは大間違いであった。お盆でも、荷降ろしなどしている業者のパネルバンがわんさかいた。それから、青梅街道を横断するバカな歩行者(女)もいて頭に来た。対岸のバス停を目指していたらしい。ブレーキを踏んで速度を弱めないといけない状況だった。クラクションを鳴らして怒りを示せばよかった。車をバカにしている。5車線もある青梅街道は当然横断禁止だ。やっぱりいつもより空いているから平気で渡ったりするのかもしれない。

「中野坂上」といえば、渡辺謙のスマートフォンのCMに出てくる。女の子が地方から東京に出てきて「中野坂上」というと、スマートフォンが行き方をちゃんと教えてくれるというわけだ。「中野坂上」と聞いて、なぜか笑ってしまう。なんで中野坂上なのかな~。




新宿は都会だから誰でも知っている。中野は中央線快速で新宿の次である。ところが、「中野坂上」というのは微妙だ。地下鉄丸ノ内線で、どことなく辺鄙な感じがする。ちょっと外れた方向に進んで行くような気がする。考えてみると、坂の上なんて、その地名も変なもんだ。それで、CMで採用されたのかも。
「中野坂上」は近いのにあまり行ったことがない。それが、青梅街道を新宿に向かって真っすぐ進んでいくと着くわけだ。そういえば、地下鉄丸ノ内線というのは、ほぼ、青梅街道の経路と言っていいのかもしれない。そして、中野坂上は、中野よりも新宿寄りにあることに気がつく。新宿のビル群も近くに見える。結構都会なんだ。

青梅街道は、中野坂上で山手通りと交差している。ここを左折して北へ向かった。
山手通りは、以前逆から走ったことがあるようだ。この道は地下に首都高中央環状線が走っているらしく、その上ということで、きれいに整備されている。片側2車線で中央分離帯があるし、広い歩道には、自転車専用道路もあるから、非常にきれいで走りやすい。この下には都営大江戸線が走っているらしい。中央環状のずっと下なのだろう。大江戸線は深いので、みんな敬遠する。東中野駅を通過すると地下鉄東西線の落合である。
山手通りは以前、歩いて通った時の写真があるので、載せておく。(東中野~落合あたり)


(左から車道・自転車道・歩行者道。)




(落合交差点。早稲田通りと交差。)


(正面に見える塔のような煙突のようなものは、地下環状の排気ガス換気塔。地下に道路ができると、こんなものが地上に立つとは思わなかった、空気汚染も心配という地域住民の苦情もあるらしい。)

落合で、早稲田通りに鋭角的に左折。早稲田通りは、片側1車線だが、余裕があるので、左端に駐車車両があっても、だいたい軽自動車ならば中央線をはみ出さずに通過できる。しかし、やはり駐車車両が多いので少し気を使う。車の陰から歩行者や自転車が出てきたりすることもあるので、要注意だった。対向車が駐車車両をよけてセンターラインを大幅にはみ出てくることも多かった。

今年のお盆は暑すぎるし、震災の影響もあって、多くの人々が東京から離れて行楽に出かけたとも思えない。空がきれいだったわけでもなく、車も人もいつものようで、ただただ暑いだけだった。

ガソリンを入れたら燃費は10kmを下回っていた。やはりエアコンでガソリンを食ったようだ。最悪の燃費。残念だ。
コメント

絵画と小説

2011-08-15 19:09:54 | 日記
ついきゅう このごろ思うことに、作家にとっての文学作品と、画家にとっての絵画というのは、同じようだなと思う。それは、当然でしょ。一方は文章で表現し、一方は絵で表現しているだけのことだからね、と言われそうだけど・・。とりあえず、当たり前のことを書いてみる。
 例えば、村上春樹が若い時に「風の歌を聴け」を書き、後になって長編「ノルウェイの森」を書いたのは、パウル・クレーが「花ひらく木」を描き、後になって「花ひらいて」を描いたようなもんだ。最初に描いた絵を90度回転させて2倍の大きさにしたというようなことを、小説でもしてるんじゃないか?
 画家は1つのモチーフにこだわる。何度も同じものを描いたりする。作家も同じテーマを追い続ける。だから同じような絵が存在し、小説も同じようなものが存在することになるのだろう。それは、あるときは読者や鑑賞者をうんざりさせるほどのこともあるのだけど、よくぞそこまで、そのテーマにこだわったもんだという脅威の念を抱かせることもあるのだ。そして、それは生涯を通じて追求したという偉大さへとつながっていくのだろうか。
 画家のこの筆のタッチが好きだとか、この色合いはこの画家にしか出せないというのがあるが、小説でも、この文体が好きだとか、ああこの言い回しがその人らしい、と感じる事がある。この植物のこの描き方がこの画家独特のものだな、などと思うように、ああ、この登場人物のこのセリフは・・・などと感じるわけだ。
 短編小説というのは、ちょっとしたデッサンであったりすることもある。もちろん気合いを入れて描いた小さくて完璧な絵があるのと同じように、短編ではあっても、完璧にできているものもあるだろう。しかし、小品は、長編の1つのモチーフになっていたり、試作であったりすることも多い。
読者や鑑賞者は、大作や試作を総合して眺めながら、その作者のことを知り、さらにその作品の一つ一つを理解して行くことができる。
 まあ、それはなかなか大変なことでして、好きでもなきゃ、やってられないわけですが、なんでこの画家(作家)は、このことにこんなにこだわってるんだろう、と追求する価値はあるかもしれません。
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