病院で順番を待っている時に、荻原浩の「四度目の氷河期」を読んでいた。
この本は、確か5月に、埼玉県のとある書店で、電車の中で時間をつぶすために買ったものだ。その後、6月の初旬に、会社の指定施設で健康診断を受けるときに、やはり時間をつぶすために持って行って読んでいた。健康診断のときには、けっこう待たされるわけで、待合室には女性用の雑誌などが用意されているが、それよりも、自分の読みたい本を持って行った方がよいのだ。
それで、昨年の健康診断のときは、やはり同じく荻原浩の「あの日にドライブ」を持って行って読んでいたようだ。この1年間、荻原浩の本が気に入って続けて読んでいるといえるが、なにしろこの速度なので、なかなかはかどらない。
長距離の電車通勤でもしていれば、どんどん読めそうなんだけど・・・。
「四度目の氷河期」は実際、読むのが遅いと言うよりも、中断していたわけだ。このごろ、宅建や放送大学など、勉強しなくちゃならないことが出てきたのだが、それがすごく嫌だな~と思うので、代わりに読書を再開した。勉強に比べたら、どんだけ楽なことであろうか。
この作品は、青春小説みたいだね。自分の思春期の頃のこともよく思い出す。
まだ、3分の2くらいまで読んだところで、主人公のワタルは高校生だ。
この本を読んでいて思うことは、遺伝子は変えられないものだな~ということ。
ワタルは私生児として生まれ、父親は日本人ではないらしく、ワタルの容貌は、成長とともにどんどん日本人離れしていく。生物というものはそういうものなんだ。ごまかしがきかない。持って生まれたものは、そのものでしかない。
このごろ、ゴーヤを見ても思う。ウチのゴーヤは別々に買った苗が2本だったが、あきらかになる実が違う。1つは、細長くて白っぽい実であり、もう一つは緑色が濃く、太さもある。同じ土で同じように水をやっても、なる実は違うのである。人間も同じだ。
だから違うものに成ろうと努力したところで、限界というものがあるのだ。逆に、なろうとしなくても、なるべきものになってしまう場合もあるだろう。
この小説、まだ途中だから、何が言いたいのかよくわからないけど、今一番感じることはそんなことかな。
明日から3連休だから、連休中には読んでしまおう。
追伸:
荻原浩といえば「明日の記憶」も読んだばかりだけど、「“あすのきおく”を読んだ」と人に言うと「“あしたのきおく”ですか?」と訂正された。
あっ、そう、「あす」ではなく「あした」と読むのか・・・。
こういうところが、どうしようもない私の持って生まれたとろさだ。
人はなんで「あしたのきおく」と読むことがわかるのだろうか?
本の裏表紙をよく見ると「あした」と振り仮名がふってあったが、おそらく人は、映画の題名を知っていたのだろう。
生きることに不器用な人間。何かにつけてかっこ悪い人間。
でも、荻原浩はそういう人に温かく、作品の中には必ずそういう人が登場する。
だから、きっと「あした」を「あす」と読んだからといって、とがめたりはしないだろう。
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