山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

老眼鏡の世話になりきる

2005-11-17 22:57:48 | 未分類過去
私は今、45歳ですが、老眼鏡を使い始めたのは、42歳くらいで、とても早いほうだと思います。もともと目は近眼ではなく、どちらかというと遠視の部類だったので、老眼になりやすいようです。
困ったことは、生まれつき遺伝的に目がよかったばかりに、それまで「メガネ」というものを一度も手にしたことがなかったのです。家族にメガネをかけているものもいないために、メガネというのはどういうものなのか、どうやって買うものなのかもわかりませんでした。そして、どのように使うものなのかもわかりませんでした。

それで、最初に眼鏡屋さんに行って、一番安い2000円ので、0.5とかいう度の弱いのを買いました。1~2種類しかなかったので、顔に似合うとか似合わないとか選ぶ余地もなく、すごく変でした。
べつのところで、ちょっと違うデザインの1000円くらいのものを買ったりしましたが、ずれ落ちてきたりして、それもよくありませんでした。

最初は、日本語学校で学生の書いた漢字テストの細かい部分が見えなくなり、そういうときだけ使っていましたが、そのうち教科書の文字も読みにくくなってきてしまいました。授業中教科書を読んだりしながら、学生のほうを見ると、遠くはピントが合いません。見栄えもわるいし、それで、いよいよまともな遠近両用メガネがほしくなってきました。

私は日本語学校で非常勤講師をしてきましたが、その間同時に、不動産会社やスーパーなどでも働いています。不動産会社では、よく役所などに行って、各部署をまわり、書類を見たりしますが、移動するたびに老眼鏡をつけたりはずしたりするのは大変です。やはり遠近両用が必要になってきます。

私の老眼鏡は、店の人が選べという中から選んだのが、「紫式部」とかいう名前のフレームで、ちょっときれいなデザインが施されています。しかし、それが返っておばあさんっぽいです。汚れ防止やくもり防止、色など入れるとどんどん値段が高くなって5万数千円してしまいました。

スーパーのレジでレシートが見えなかったときに、「ちゃんとメガネを用意しておいてください!」と若い先輩から言われました。そのときにはもうその老眼鏡は買ってはありました。しかし、品出しが主な仕事である私は、遠近両用めがねをかけたまま段ボール箱などを運んだりして動き回るとくらくらしてしまうし、本当に小さい文字を見るとき以外は不自由はないので、ついついメガネを忘れてしまいます。
しかし、賞味期限などを確認するときにもあったほうが便利であるため、ポケットの中に入れて仕事をするようになりました。

最初のうちは、ほんとうに老眼鏡をうまく利用する方法が身につかず、大変でした。そして、自分の目がどのくらい見えないものかということも、自分自身で把握できていないのです。見えるはずのものが見えなくなり、できると思うことがだんだんできなくなっていきます。今では、新聞のテレビ版も全然見えなくなってしまいました。

今の仕事では、ほとんど机の上で、書類とパソコンしか見ないので、中近両用メガネを買いました。遠近を使っていたら、あごを上向きにして見る変な癖がついてしまい、それが苦痛になったからです。コピー機まで歩くぐらいは、多少、度が入っていても大丈夫です。予算がなかったので、安くて最もシンプルなものを買い、2万円しませんでしたが、こっちのほうがかけたときに年寄りくさくないようです。

いつもの決まった日常生活では老眼鏡の使い方にも慣れましたが、やはり突発的なことに出くわすと、もたもたしてしまいます。
保護者会に行ったとき、出欠をとるために廊下に生徒の名簿が置いてあり、その中から自分の子どもの名前をみつけ、そこに○をつけるなどということがありました。裸眼で探そうとした後、あきらめてバックからメガネを探し出し、かけてから見つけて○をつける、などということをしているために、すごい時間がかかってしまいます。情けないです。

老眼がすごい速さで進むのは、長年、目を酷使しているからかもしれません。パソコンを見るのもよくないようです。しかし、どうしようもないです。今では度が1.5になっています。
もう、老眼鏡のお世話にならなければ、仕事もできず、生活もしていけません。

コメント

続、スーパーのレジの話

2005-11-17 01:58:14 | 未分類過去
あるとき、私が冷凍食品の品出しをしているときに、一人のお客さんが来て、「レジお願いします」と言いました。レジ係が突発的なことで、席でもはずしているのかと思ってみるとちゃんといます。お客さんは2人しか並んでいませんでした。
すると、そのお客さんが「混んでるから他のレジ開けてください」と言いました。
何だか、かなり強制的な言い方です。
「すみません、そのレジに並んでいただけますか?3人以上並ぶともうひとつあけることになっていますので」と言いました。おそらく、その人が並ぶときには一人目はレジを終えているはずですから、もうひとつレジを開ける必要はなさそうでした。
すると、「そんなこと、こっちが知るわけないでしょ!!」とすごい剣幕でどなっていってしまいました。

お客を怒らせたからには、なんかすごく失礼なことをしてしまったのかなあと思いましたが、どうしようもなかったです。

そういうとき、私が勝手にレジに入ることはできないのです。その日レジに入ると決まっている当番だけがレジの鍵を持っています。だから、店員なら誰しも自由に判断してレジを開けることができるわけではありません。また、私が指図して誰かをレジに入らせることもできないし、その日に誰がレジの当番になっているのかも知りません。
私が勤めていた店は、レジを専門に担当している人が、その込み具合を見て、放送で応援を頼むと、補助レジの当番が出かけていってレジに入るという決まりでした。

そのお客さんは、品だしや発注作業をしている人がときどきレジに入るのを見て、自由自在、臨機応変にレジができるものだと思い、それならば、並ばないで他の店員にレジを開けてもらおうと思ったらしいのです。
なまじ、中途半端に状況を知っているというのも不幸を招くことがあります。

品だし係は実はかなり忙しいです。冷凍食品などは一応ドライアイスなどが載っていますが、なるべく一気に冷凍庫に入れてしまって、カゴ車などを売り場からかたづけたいです。品だしが終わっても、翌日の発注作業などがあります。規定の時刻までに発注端末で送らなければいけないので、時間との戦いです。それでも、レジが混むとレジに入らなければなりませんから、そんなときにお客さんが途切れる事なくレジに並んだりすると、もう間に合わなくなるのではないかとひやひやです。
ですから、本当に必要でない限り、補助レジに入ることはあり得ませんでした。

しかし、お客さんからすると、「レジの機械はいくつもあるし、店員もたくさんいるのに、どうしてレジに入らないのよ!機転がきかない店ねえ。最低のサービスだわ」と思ってしまうようです。
たしかに、「どうして?」と思うことは、自分が他の店でお客になったときもよくありますが、店にはおのおのそれなりのマニュアルがあって、その場でお客さんが思いついた方法には従えない場合も多いです。

スーパーの仕事は面白い面もありましたが、私にとって大変でした。
意味不明の文章を一日中校正している今の仕事のほうが、何の苦もなく、自分には向いているようです。

コメント

スーパーのレジの話

2005-11-17 01:10:52 | 未分類過去
夕方、スーパーで夕飯の材料を買って帰るころは、お客さんが多くて、レジに人が並んでいることが多いです。どのレジが一番早いかなあと、働いている人の様子などを見て、早そうな人のところ、二人いるところなどを選んで並びます。前に並んでいる人のカゴの中身の量なども考慮に入れます。

きのう並んだレジはラッキーでした。そこは男の人が一人だけでやってたんですが、隣の女二人でやってるレジに並べばよかったかなあと思うのもつかのま、なんだかどんどん進んでいきます。確かに、早いんです。機械に読み取らせるのも袋に詰めるのもお金を受け取って返すのも早い。手際のいい人でよかったなあと嬉しく思いました。

しかし、私は、どんなに遅くとも、けっしていやな顔などはしないようにしています。新人はしかたがないんです。いやな顔をしたところで、即刻早くできるなどということはありません。
私が、そんな優しい人になったのは、自分の苦い経験からです。

私は1年間スーパーに勤めましたが、私の主な仕事は品出しでした。小さなスーパーで、あまりお客さんも多くはなく、レジは午前中はひとつしかあけていません。それで、お客さんが3人くらい並ぶと、二つ目のレジを開き、さらにそこにも並ぶ状態になったら、3つ目のレジを開けます。そのときに、本来レジ専門でない品出しのパートが当番制になっていて、品出しや発注の仕事を中断してレジに入ります。

ですから、その当番というのは、週に一日くらいしか回ってこないし、しかも混んだときだけですから、なかなかレジの仕事が板につかないのです。
バーコードはまだいいですが、野菜や果物などは、ワンショットキーという商品名の書かれたボタンを押すようになっていて、慣れないとそれがなかなか見つからず、必死になって探すのに時間がかかってしまったりしました。

まだ、なれなかったころ、私はミスをしでかしました。お客さんが2割引シールのついた豆腐を1つ買ったのですが、後で、定価で2個打ってあると苦情を言ってきました。
それを最初別のレジの店員に言って、その店員が私に伝えたときに意味がわからず、もう一回本人に聞くことになりました。それでお客さんはものすごく機嫌を悪くして、「家にお客さんが来ることになってるから早くしてよ。こんなことしてられないわ。すぐにかえらなくちゃいけないんだから」とせかしまくりました。
今考えれば、一個分を返した上に、もう一個の20パーセント分を返金すればいいのですが、お客さんの剣幕が恐ろしくて、まず頭がパニックになってしまいました。消費税の分も計算しなければならないし、ミスをして返金するときに書く書類などもまだよくアタマに入っていなかったので、もうわなわなと震えるばかりです。
さらに、口で説明を聞いても何がどう間違ったのかを確認できず、すぐに計算をしなおすことができなかった理由は、老眼でレシートの文字がよく見えないという悪条件が重なったからでした。レシートの中からトウフを探すのもたいへんで、さらには83円なのか88円なのか見えないなどという状況でした。
「何をぼやぼやしてるの。早くしてちょうだい。時間がないのよ!」などと言われて、とにかく、ロッカーの中の老眼鏡がなければだめだなどと思い、「もうしわけありません。お時間がないようでしたら、計算してご自宅にお持ちいたしますので」などといってしまいました。すると、「そんなことしなくてもいいわよ。この人パニックになっちゃってて、もうだめだわ」などとあきれ果てられてしまいました。
ちょうど、責任者が昼ごはんを食べに行っているときで、もう一人のレジ専門は他のお客さんのレジをしていて、どうにもならなかったのですが、責任者が帰ってきて速やかに計算してくれました。
あとで、考えると、2割引のボタンを押すべきところを、×2個のボタンを押してしまったようです。
バーコードになってからは、値段の押し間違いはないわけですが、手動部分でやはりミスが出ます。

仕事をして給料をもらっているんだから、ミスは許されないとか、遅いのは許されない、などと言いますが、だれでも新人のときはあります。
初めて仕事をして初めてミスを犯して、何がどうなっているのかも分からない人に、ミスの処理などが簡単にできるわけがありません。もともと処理能力のないひとを、どやしつけたからと言って、決していい結果は出ないと思います。
遅いレジの前でため息をついているお客さんなどを見かけますが、それもすごいプレッシャーになり、あせってよけいにミスにつながる場合もあると思います。

レジは慣れないうちは大変なんだよなあと思うと、手際の悪い店員さんなどに同情して、なるべく優しく対処してしまいます。
時がたてば、その人も絶対に手際がよくなるものです。


コメント

野ブタと六ちゃん(堀北真希)

2005-11-16 22:37:34 | テレビドラマ・映画
先週、テレビで「野ブタ。をプロディース」を見ていたときに、夫に言われて初めて気がついたんですが、この「野ブタ」の役の女の子は、「ALWAYS 3丁目の夕日」に出ている六ちゃんと同一人物であることを知りました。名前は「堀北真希」というそうです。富士フイルムのコマーシャルでも見かけます。

以前(11/8ブログ)、この映画のことを書いたときに、主要登場人物でありながら、私は六子のことを書きませんでした。書こうかどうしようかとは思ったのですが、とりたてて書くほどのことがないと思って、触れませんでした。
六ちゃんは青森から出てきた女の子で、鈴木オートに住み込みで働くことになった子です。
大きな会社だと思ってきたら全然違っていたと思ってがっかりする六子と、自動車の修理ができると思って採用したのにできないことに腹を立てる主人。お互いに譲らない性格なので、ひと悶着あって、あわやもうおしまいだというときに、子どもの指摘で、六子の書いた書類の「特技=自転車修理」を、主人が勝手に「自動車修理」と読み間違えていたことが判明しました。
そこの大騒動がこの映画のひとつの見せ場でしたね。六子と主人のけんかを止めに入った茶川竜之介が、鈴木オートにやられてひっくり返ってしまった姿がおかしくてたまりませんでした。
主人が六ちゃんに謝って一件落着したあとは、そこの家族の一員として、喜びも心配も共にして暮らします。容姿もきれいで、健康的な、なかなかかわいい子です。
映画の演技は多少わざとらしいような感じがする部分もありましたが、まあ、適役でしょう。シュークリームというものを一度食べてみたくて、腐らせてしまったから捨ててと言われたのにもかかわらず食べてしまい、おなかを壊したりする場面もありました。

この映画では、活発な普通の女の子を演じていますが、野ブタは笑わずうつむき加減で、目の下に隈を作っているような陰気な役なので、まったく性格が違い、同一人物とは思えませんでした。野ブタはもともと顔立ちのいい子だというのはわかりますが、雰囲気がぜんぜん違います。それだけ、演技がうまいんでしょうか?

ところで、「野ブタ。をプロデュース」の修二はいいですね。この、亀梨和也というのは、最近すごく魅力的だなあと思います。聞くところによると、兄弟が多い家庭に育っているらしいですが、そのせいか、わがままではなく、性格が良さそうだなあと感じます。それから、何よりも、色気がありますね。
亀梨君の名前を覚えたのは、歌番組のお笑い芸人の司会が、「動物とフルーツの名前が入ってるんだね?すごいねえ」と言っていたので、覚えました。こういう司会者のことばってすごいですね。天才です。
金八先生の時のすし屋の子だと娘に聞きましたが、イメージが一致しません。大人になったんですね。
亀梨和也はうちの長女と同年齢で、掘北真希はうちの次女と同年齢です。

あっ、今日は掘北真希のお話でしたが、ついでに亀梨和也君も・・。
お2人の今後の活躍を期待します。

コメント (2)

多難な放送大学

2005-11-16 18:37:46 | 放送大学
なんか、事がうまく進みません。
放送大学の面接授業の教科書(参考書)を前回授業のあった日の夜、ネットで注文したんですが、3~5日で着くという説明書きだったのに一向に届かないどころか、確認メールも来ないため、今日電話してみました。
そうしたら、私の申し込みはたしかに届いているが、何かの行き違いで返信が送られなかったようだとのことです。
そして、本は在庫がないので、出版元から取り寄せているから、いつ着くのかわからないそうで、3週間以上かかることもあるそうです。

なんじゃ、それは!!

ネットなら即日送ってくるからいいと思って、買うことにしたのに、これじゃあそこらの本屋で取り寄せてもらうのと同じじゃないですか。
しかも、3~5日で届くなんて嘘を書かないでもらいたい。申し込みフォームで送信した直後に「1~3週間以内にお届けします」という画面が出たので、「あれ?おかしいなあ」と思ったのですが、郵便事情も悪くはないから、きっと一週間以内に届いてくれると楽観していたのが間違いでした。

同じクラスの人が、出版元で送料無料ですぐに送ってくれると言っていたのは聞いたのですが、インターネットで検索して、一番上に出てきたところに申し込んでしまったのが、まちがいでした。
しかも、今日見たら、その本は「取り扱っていません」と出ています。
最初は在庫があったのに、注文が殺到して足りなくなっちゃったのかなあ?
ああ、やはり出版元に注文するべきでした。

出版元というのは、都内にあるようです。
私がネットで注文した会社は、どこにあるか知らないけど、もしかして、すごい遠いところにある会社かもしれません。
こうなったら、私は出版元に自分で買いに行くしかないと思います。もう、意地です。
3週間以上かかったら、面接授業なんかほとんど終わっちゃうじゃないですか。

先生から、まだ教科書を買ってないとは何事かと思われるのもいやだし、教科書がないということだけで、授業に出るのも気が重くなってしまいます。

それから、もうひとつ。
今日、通信課題を提出しようと思って、コンビニで切手を買おうとしたら、なんと、5円切手が売っていませんでした。
通信課題は15円分の切手を貼って、中にも返信用切手を入れることになっていますが、15円切手というのは存在しないので、10円と5円の切手をはることになります。でも、コンビニでは10円以上の切手しか扱っていないそうです。
不便だなあ。20円にしちゃうのも癪だし、あきらめました。
郵便局がやっている時間帯に頑張って買いに行くしかありません。

コメント

お客様が定着する店

2005-11-15 18:35:38 | 未分類過去
いつも売れるている店というのは、かならず常連さんがいるものですし、また、ときどきしか来ないお客様でも、たまにいらっしゃったときに、開店しているかどうかも、影響してくると思います。

うちの近くに、手打ちそばのお店ができて、一回入ってみたら、けっこうおいしかったです。内装も自然の木を使って、山野草のような植物をかざり雰囲気もいいです。
このお店をやっているかたが、中年の女性の方で、どうみても趣味が高じて店を出したかなという感じがします。それでも、おいしければいいです。

ところが、なんか、開店している時間が少ないような気がします。まず、週に一日は必ず休みですが、そのほかにも「都合により休む」とか「今日は何時から開店する」などという、営業時間の変更が目立ちます。また、店に入ったら、今日は一人なのでちょっと時間がかかりますがいいですか?などと聞かれて、注文するとそのまま店の奥のほうに行って作っているようでしたが、その間、店の中には店員などがぜんぜんいない状況になっていて、新しくお客がきても放置されたままになっていたりしました。そこで、今日は一人なので奥で造っているようデスヨなどと客が客に説明したりする状況です。

このようなことを続けていると、どんなにおいしい店でも、せっかく行ってもやっていないかもしれないと思って、だんだん足が遠のきます。そして、多少質が悪くてもいつでも変わらず一定のサービスをしてくれる店が安心して利用できます。時にはアルバイトがてんぷらを揚げても、そばをゆでたにしても、不規則に休んだり、待たされたりするよりはいいということもあります。プロならば従業員を雇ってでもしっかり開店させるべきではないでしょうか。

だから、そこの店主がどんなにおいしいそばを打てるひとであろうと、やっているかどうかわからない高級な手打ちそば屋に行くよりも、和食ファミリーレストランの「天狗」かなんかに行って、700円くらいの天丼とざるそばのセットを頼んだほうが、安くておいしくて確実におそばにありつけるということになります。

ところで、私はいつも読んでいるブログがいくつかあります。何かいい文章に出合って、そのブログが気に入って、それから毎日訪問し始めます。しかし、なかなか更新されないブログがあります。それでも見続けるものもあれば、お気に入りからはずしてしまうものもあって、はずしたものはもう二度と出合うことがないものもあります。
こまめに書いている方のブログは、内容がちょっと気に入らないな、などと思い始めて、一旦ははずしても、また懐かしくなって、記憶にあるブログの名前をたどって、またお気に入りに戻したりするものもあります。
そんなことを続けるうちに、毎日続けて見るブログがいろいろ入れ替わってきました。私が常連になったブログと、私が読むのをやめてしまったブログは、飲食店に似ているなあと思います。

やっぱり、いつもおいしいものを出している店の常連になるのは当然ですが、ごくたまにすばらしい料理を出すかたよりも、多少質は悪くても、やはりその店なりの味で安定して料理を出し続けている店がいいかなと思います。

コメント

ブログのお客さま増加作戦

2005-11-15 09:08:15 | 未分類過去
演劇をしていたころは、観客が何人来てくれるか?ということが、公演者にとっては大きな関心事でした。会場に観客がたくさん入ってくれればうれしいわけで、まず、入ってくれるかどうかが重大で、その次に実際に劇を見て楽しんでくだされば成功ということになります。そして、上演中に席を立って出て行かれてしまうのはかなりショックなものです。

ということで、劇の場合、まず、「どこでどういう劇を上演しますから見にきてください」という情報を多くの人に伝えることが大切で、ポスターなどを作って人の目につくような場所にたくさんはったりします。
劇の題名も重要ですし、ポスターは人々の関心をひくようなものでなければ意味がありません。
演劇は観客がいなければ成り立たないから、やはり、多くの人が喜びそうな題材をえらぶことになります。そして、当然、自分たちが上演したいもの、自分たちが訴えたいようなものを選んだり、創ったりします。 

ブログも同じで、自分の書きたいことを当然書きますが、たくさんの人に読んでもらいたいとも思うようになります。そうすると、人受けする題名と内容ということが、アタマに浮かんできます。

私のブログを読んでくださる人は、普段、50人あまりで、おそらくとおりすがりというよりは固定的な読者となってくださっているのではないかと感じています。私の書く文はかなりくどいと思うので、一般的にうけるものではないと自分でも思っています。それで、多くの人に読んでもらうよりは、一部の波長の合う方に読んでいただければ、嬉しいです。

ところで、アクセスIPというのでしょうか、それと、閲覧数が突然おどろくほど増えることがあります。どういう内容を書くと増えるのかなあというのが不思議で、その相関関係が未だによくつかめません。自分としては、力を入れて書いたのに、全然少ないときもあるし、適当なことを書いてもどっと増えることがあるのです。

わかることは、芸能人の名前とかテレビ番組などに関することを書くと、アクセスが増えるようです。要するに、テレビの人気の力を借りるということですが、やはり、テレビドラマやニュースなどは多くの人が共通して関心をもつことだからでしょう。
つぎに、当然ながら一日に何個も書くと閲覧数は上がります。アクセスも多少は上がるようです。

私は普段、いくつか好きなブログがあって、それを決まって読んでいますが、それで飽き足らないときには、新しいものを探しにかかります。そのときは、新着記事を出して、その中の題名で面白そうなものをえらびます。
ですから、多くの人がパソコンに向かって新着記事などを見るような時間帯に、自分の文を投稿すれば、それだけ目に留まる確立が高くなると思われます。
そのほかには、私の場合、自分が関心のあるテーマや言葉を入れてブログを検索し、そこで出てきたブログにアクセスして見るということです。
そうなると、やはりみんなの関心のあることについて書くのが読者を増やすことになります。

コメントやトラックバックをすると、そっちのブログの読者の方が見てくださることが多いので、一時的にアクセスが増えるのはあたりまえですが、その人たちが固定的な読者になってくれるかどうかは分かりません。ただ、ひとつの機会となることは確かです。

ところで、同じ内容の文でも、題名によって受ける印象が違い、読んでみようかどうかを左右します。
まずは、人に関心をもってもらうために、題名やテーマなどが目に留まること、その上で、実際読もうとして訪問してくださった方が満足できる内容を提供できることが大切かなあと思います。

(ちなみに昨日は「恋」という言葉が功を奏したのか、アクセスがいつもより30近く多かったです。)

コメント

「自然消滅」について

2005-11-13 15:02:20 | 未分類過去
人との付き合いを自然消滅させてしまう場合というのは、どういうときかなあ、とふと考えました。

実は、2ヶ月ほど前、携帯に電話がきて着信履歴があったけれど、そのままこちらからかけ直していない人がいます。
その人がどうしているかなあとすごく気になり、心配ではあるのですが、なんか電話をするのがためらわれます。正直言うと、その人と付き合うことが私にとって、ちょっと荷が重いという気がするのです。

その人は数年前は、私が職場で毎日のように会っていたかなり年下の男性ですが、その後はお互いに居場所も環境も変わり、放っておけば偶然に会うことなどはない状況です。
その人とは、すごく波長が合うと感じ、そういう点では貴重な存在であるといえます。そして、おそらく相手もそう感じているから、離れてから何年もたつのに、電話などかけてくるのだと思います。
当時、その人と親しくなったきっかけは、たまたまその人が困った状況に置かれたときに、私が力になったからでしたが、それ以降、私はその人から妙に信頼されてしまっているらしいのです。信頼されるのは嬉しいのですが、その気持ちを裏切らないようにしなければいけないと思うことが、私にとって一種の負担になっていることも確かです。前回会ったときもその人がちょっと問題を抱えていたのですが、それは、私にはどうにも手助けできないことでした。
そして、困ったときにたすけることも、困っていないときに楽しくすごすことも、
わたしたちの組み合わせは世間から見て、おかしいような気がするのでした。

ところで、その人には、恋人がいて、私は職場でその人がその恋人と親しくしている姿を何度も見かけていました。その後、それぞれが違うところに移り、別の場で活動するようになりました。そのせいなのかどうか知りませんが、当人の話によると、その恋人とは自然消滅したのだそうです。
恋人と自然消滅するとはどういうことなのでしょうか?
相手から連絡が来ないままになっているという意味に受け取れたのですが、自分からは連絡しないんでしょうか?
自分から連絡しないということは、自分もそれほど強く思っていないからなのか、または、相手の気がなくなったことを察して、自分は会いたいのに連絡するのを控えたままになっているのでしょうか?
そのことを聞いたときに、この人は自分から自分の気持ちだけでしつこく働きかける性格ではないようだと感じました。
相手が恋人であっても先輩であっても友人であっても同じように振舞うのかもしれません。

ずうずうしい人に対して、邪険にすることはどうとも思わないのですが、控えめな人や相手のことを気遣う人に対して、無神経な放置をするのは良くないように感じます。
今まで、その人から着信が来ていたときは、だいたい一週間以内には電話を返すようにしていました。でも、今回は無視するような形になっています。それをどう感じるかなあと、気になっています。

自然消滅といえば、ず~っと以前、私が短大に進学するために故郷を出て、東京に下宿することになり、それを伝えたら、会おうと言われて付き合いだした同級生がいました。
その人とは中学2年のときに同じクラスだったのですが、お互いに片思いだと思ったまま、別の高校に行ってしまい、たまに通学の途中に出くわす程度で、ついに高校も卒業してしまいました。
高校卒業後の春休みに2回会い、夏休みに帰省したら連絡してというので、電話をして夏にも数回会いました。9月に東京に行くときに、また帰ってきたら電話してと言われ、私は電話すると答えました。
しかし、私は冬に帰省したときに、電話をしませんでした。春休みにもしませんでした。ある意味、自分がかけなかった場合、相手がかけてきてくれるのを待っていたともいえます。しかし、相手からはかかってきませんでした。
相手にその気持ちがなかったのか、意思が強くなかったのか分かりませんが、そのまま自然消滅しました。

その人と私の関係は、私が東京に行って進学したことと、その人が進学せずに故郷に残っていたことから、微妙に立場の不均衡が生じていたと思います。それが、会っているときに、どこか気兼ねするような部分につながっていたのではないかと思います。
その人といっしょにいるときに、自分がその人にふさわしい人間でなければならないと思うのですが、それがなんとなく苦しいのです。
そして、その人が東京に出てくるわけではないし、私が故郷に戻るわけでもないことは分かっていました。

そのときに感じた「相手のことがすごく気に入っているのに、付き合うのがちょっと苦痛」という気持ちと、「だから、相手の意思によって継続か消滅を決めたい」というのが、今の気持ちに似ているように感じます。

相手がもう一回かけてくるだけの、気楽さやずうずうしさをもっていたら、私たちの人間関係は続いていくだろうと思います。もし、このままかかってこなかったら、一生会うことはなく、消息もわからなくなってしまうかもしれません。

コメント

教科書

2005-11-12 17:13:33 | 放送大学
放送大学の授業に出たら、教科書を買ってなかったということで、すぐ用意するように言われました。クラスでは3人くらいしか持って来ていませんでした。
教科書なんか指定されていたかなあ?と思ったのですが、先生はちゃんと書いてあったはずなのにどうしてこんなにもっている人が少ないのかと多少憤慨されているようでした。

近頃私は印刷物の内容を見落としがちです。まず、老眼になってからは、小さい文字は文字として認知しなくなっているようです。しかし、原因はそれだけでなく、長い年月生きてきたことで、説明書きを詳しく読まなくても大体のことはわかると思ってしまうようです。そして、いざというときは、その場であとからどうにかすればいいという図太い開き直りみたいなのがでてきました。おばさんの特徴です。
レジでお金をはらう段になって、あら、財布がなかったわ、などと平気で言うような感じです。

今回もまたやってしまったか!と思ったのですが、それにしてもよく読んだつもりです。確か、「参考書」としてなんか本の名前が書いてあったようです。そして、説明を読んだときに、参考書は「講義を深く理解するために参考となるもの」、教科書は「授業の際に持参するもの」となっていたと思います。それで、参考書は高いから買わなくていいやと持っていました。
家に帰って確認すると、確かにそうでした。先生がおっしゃる本は「参考書」として書かれていたものでした。

その本は、あまり一般的なものではないので、その辺の本屋には売っていません。
図書館はどうかと思ったら、やはりありませんでした。
しかし、インターネットで検索すると、自宅に送ってきてコンビニ払いができるものがあったので、さっそく申し込みました。世の中便利になりました。

ところで、教科書ですが、大学生のこどもは極力教科書を買わないで済ませようとしているようです。試験が近づいてどうしても必要だと思えば買うしかないが、そう感じなければ、ないまま済ませようという魂胆であることがわかりました。
教科書ぐらい買いなさいと言ったものの、子どもが教科書を買わない理由はお金がないからで、全部そろえると何万円だなどということになります。教科書代をくれなどと言われて、無いだとか、給料日まで待てだとか言っているものですから、子どもがそんな考えになったのは親の責任でもあります。
しかし、そんなことをしているのはうちの子供だけでなく他の友達もそのようで、また、試験が近づくと、先輩から前年の試験問題などをおしえてもらい、それで試験対策をするなどということも多いようです。

なんと勉学意識がないのだと思うのですが、せっかく買ってもあまり使わない場合もあるかもしれません。そして、狭い家だと本が1冊ずつ増えていくのも結構おき場所に困ったりするものです。
そんな、家庭環境で育ったせいか、ふたりの子どもは幼児期には図書館の本ばかり借りて自分の本を持たず、成長すると読書をしない子に育ってしまい、本に対する愛着がない人間になってしまいました。

放送大学で使う教科書は、先生の一押しの本のようです。来週からは家で教科書を読んで予習してから授業に臨むようにと言われました。
早く届かないかと楽しみです。

コメント

今、欲しいもの

2005-11-12 10:33:42 | 未分類過去
何と言っても、家族全員で暮らせる家がほしい。

今現在、家族全員で暮らせる家がない。
うちは6畳・4畳半・3畳で
39㎡の公営住宅である。
こどもが大きくなり、衣服や物が増えたら、
もう狭くて狭くて、争いやイライラが耐えず
ついに、大学生の上の子は近所の民間アパートで
一人暮らしを始めた。
家賃は、月合計10万円である。
そのほかに、光熱費が2件分かかる。

6畳一間の大学生の子のアパートは
うちの家賃の2倍以上するが日当たりが悪い。
押入れの洋服にカビが生えてしまい、捨てることになった。
お風呂もユニットバスで、ゆっくり温まれないそうだ。

それで、夫が夜勤でいない日にやってきては、
夫の布団に寝て泊まっていくことが多い。
夫がいる日は、布団が4枚敷けないから、
寝るところがない。
食卓を囲むのも3人でやっとである。

それでも、家族がそろった場は居心地がいい。
数年でもいいから、家族全員で普通の生活がしたい。

3DKで55㎡程度でもあればいい。
しかし、近所の民間でその広さとなると、最低13万円はする。
遠くに引っ越せば、会社や学校が遠くなり、
不便でお金もかかる。
夫婦の総月収30万では生活できない。

しかし、やっぱり、もう一部屋プラスした家が欲しい。





コメント

筆者と編集者の関係

2005-11-11 01:03:12 | 未分類過去
はたやんさんがご自身のブログに「執筆は大仕事」というのを書いていらっしゃいます。
それとは別のケースですが、私も自分の書いた文章が公になったときのことについて、思い出したことを書いてみます。

大げさな言い方ですが、原稿は筆者が全身全霊をかけて書いているものだから、それなりの扱いをしてもらいたいものだと思っています。

私は、以前よく新聞に投書をしていたのですが、読者のページなどは、「投書を掲載するときに趣旨を変えずに文を変えることがある」という但し書きがありました。
それで、私の名前で文が掲載された時に、私が書いた言葉がぜんぜん違う言葉に変えられていることがよくありました。文字制限を守っているのにもかかわらず、わざわざ別の表現になったり、文の順番が変わったりして、重視する部分が違ったりしているわけです。そうすると、私としては、私の意思とは全然違う文章になっていて、こんなの私が書いたものじゃないと思ってしまいます。文を変えれば趣旨はあきらかに変わるものなのです。
しかし、すでに私の文として掲載されてしまったのですから、もうどうしようもないのです。頭にきて新聞社に抗議したこともありました。

人の文を勝手に変えるのは編集者のおごりではないでしょうか?そして、大作家の文章に勝手に手を加えるなんていうことはありえないのに、投稿者が素人であるというだけで、新聞社の人がプロであり文の達人であるという立ち場のもとで、そういうことを当然のように行う。人の書いたものを土台にして、その人がいいと思うような文に変えてしまうのです。しかし、こっちは一言一句吟味して書いた文章で、その言葉じゃなければだめだという気持ちがあります。

まあ、変更されたものが、自分の許容範囲内であることも多いし、たしかに自分の表現より変えられた表現のほうが角が立たないな、などと思うこともありました。
やはり、そのときの編集の人によって、あるいは、その場合によって、状況は違います。しかし、大なり小なり自分の文章に手が加えられることは確かでした。

そして、結局、「2000円もらえるから割り切ろう」などと思うようになりました。
私の書いた文は、新聞に掲載されたときはすでに自分の文じゃありません。だから、私は自分の名前で掲載された新聞記事は、ひとつも記念に残さずに捨てています。そして、最近はぜんぜん投稿しなくなりました。

新聞に個人名で載せられた投書文は、そこに載せるという選択がされた時点で、すでに編集者の意見が反映されています。ですから、読者のページと言っても、投書を選択する時点と、その文に手を加える時点で、かなり編集者の色が付け加わっていることになります。
そうやって、他人の判断が反映されることによって、個人の偏見に満ちた意見などはそぎ取られ、全体的に均衡のとれた内容になるのかもしれません。そのようにして新たに生まれた文章は、原作者から離れて、それなりの価値を持つといえるでしょう。
しかし、筆者本人にとっては、もうそれは自分の名を付してもらいたくないと感じることも多いです。

筆者と編集者の関係、原文と他者による修正の関係は難しいなと思いました。
その点、ブログは自分自身が書いて、自分で編集するので、そういう問題はないはずですが、それでも不適切な表現とか事実に関する間違いなどがあって、修正したり悩んだりすることも多いです。
私にとって、完璧に文が完成するなんてことはありえないでしょう。


コメント

放送大学の一日

2005-11-10 22:12:08 | 放送大学
いよいよ、放送大学の面接授業の日。ついでに視聴覚教材を見てきました。
慣れないことをすると、疲れるものですね。

朝、早く出かけようと思っていたのに、ついのんびりしてしまい、その上に電話をする用事があって、それを済ませたらすっかり出遅れてしまいました。
駅のそばの駐輪場はすでに満車。自宅側の3箇所の公営駐輪場がだめで、駅の反対側の駐輪場まで行ってやっと空いているところをみつけました。3階まで登って、しかも上段に上げると、もうへとへとです。時間と労力をかなり消耗しました。
それで、やっと電車に乗って、「博物館資料論」を読み始めました。

この教科書は、以前全然アタマにはいらなかったのですが、通信課題の問題に関する部分だけ拾い読みをしたら、いくらかポイントが捕らえられるようになり、読みやすくなったので、今日は、復習にざざっと読みながら行きました。でも、課題の後半はまだやってなくて、今日はそこまで読めませんでした。

大学についてから、「東アジア・東南アジアの住文化」のビデオを初めから見始めました。
これは、私の専門科目ではなく、生活科目に属するものですが、アジアの住まいについては以前から関心があり、ぜひとも受講したかったのです。
それで、実は前期に受講したのですが、そのときは課題を提出できず、今期再受講しています。

課題が提出できないというのは、この課題が記述式なのですが、とにかくサボっていて全然勉強していなかったから、一晩で課題を書こうとしたところ、どうしてもできませんでした。「記述」というとけっこう燃えるほうなのですが、もうお手上げでした。
教科書を読んでも頭に入らないのです。教科書の中の小さな白黒の写真や図を見ても何が何だか捕らえられないわけです。これはどうしたってテレビ画面で見て説明を聞かなければわかりようがないと思い、前回はあきらめました。

今日、ビデオを見たら、思ったとおりでした。すごくわかりやすかったです。
2章の韓国の安東の河回村の住宅はぜひとも実物を見に行きたいと思いました。

ビデオの長さの関係で、お昼を食べに行く時間がなくなってしまい、そのまま面接授業を受けました。
授業の後、また学校の外まで食べに行くと時間がかかりそうなので、自販機のコーヒーで間に合わせて、視聴覚室に戻りました。

今日は視聴覚教材はアジアの住文化1~3章のビデオを見ただけで終わりました。3章の中国のヤオトンは見始めてまもなく寝てしまい、起きたら残り10分くらいでした。先生の授業だと寝るのは控えますが、ビデオだとどうしても平気で寝てしまいます。周りを見渡すとかなり寝ている人がいます。

時間はもう5時を過ぎて外は真っ暗。帰り道、電車のなかで、ビデオの寝ていた部分の教科書を読みましたが、そこでまた寝てしまいました。

駅に着くともう7時近くなっており、すぐ食べられるお寿司などを買い、家に向いました。
駐輪場がすごく遠く感じます。それでも、荷物を持って自転車に乗ってなんとしても家に帰らないわけにはいきません。
今日はほんとうに疲れ果てました。

それでも、ご飯を食べてテレビを見ているうちに、嘘のように疲れが取れて元気が戻ってきました。

来週は、もっと早く出かけて、お昼もちゃんと食べるようにし、ビデオは4本見たいです。そして、できるだけ早く帰ってこようと思います。





コメント

資格と実務能力

2005-11-09 21:19:27 | 未分類過去
会社の人を見ていると、ある資格を持った人と、持っていない人がいます。
ところで、最近の傾向としては、独身の若い人が資格をとることです。資格を取るために休暇をとることもあります。
それで、その結果見事に難しい試験に合格し、めでたしめでたしということで、改めて気合を入れてその後の実務に励むということになります。

一方、ある程度年齢が行っている人で、家族などを養っており、会社の中での実務経験もあり、仕事上中堅にあたるような人を見ていると、それはもう、仕事が忙しくて資格試験どころではなく、日々の仕事が肩に重くのしかかって、それをさばくのに必死のようです。会社にとって、なくてはならない貴重な人材です。

しかし、「資格」の点からだけ見ると、その人たちは資格を取得していないのだから、新人社員のほうが上になってしまうという状況が起きてきます。実務能力としては断然、先輩の経験者のほうが上ですが、皮肉なことです。
そして、将来的にはこの資格を持った人が実務能力も身につけて、出世していくのでしょうか?

やはり、両方持っている人が何と言っても強いでしょう。そうなると、やはり、なるべく若いうちに資格を取ってしまってから、あとで実務経験を積むほうがいいのであって、逆はひたすら仕事ばかりさせられて大変らしいという気もします。

しかし、どこの業界も似てはいますね。
日本語教師の場合も、日本語教育能力検定試験というのは、古い教師は受けていない人が多いようです。それで、ベテランの先生が、あとになって受けてみると、何の勉強もせずに受けた場合は、なかなか受からないそうです。
未経験でもそれなりの試験勉強をした人のほうが断然受かりやすいし、独学で机の上で勉強しただけでも受かる人がいます。しかし、それで合格した人が、いきなり日本語の授業をしようとしてもうまくいかないことも多いです。資格と実務能力は一致しません。
最近、日本語教師は高学歴化がすすみ、大学院に進む人も増えてきました。大学院に行く人は、やはり親に養われているような若者が多いわけです。それで、ベテラン教師よりも若い人が学歴も検定も持っているなどということになり、将来的に差をつけられます。

不動産会社では宅建をとるのがいいとは誰でも思っていますが、実際に不動産会社でセールスなどしている人が皆宅建を持っているとは限りません。そして宅建を持っていても車の運転ができなければお客さんを物件に案内することもできない。都内の一戸建てなんか売る不動産会社の社員だったら、狭い路地を走ったり、うまくスペースを見つけて駐車したり、などというむしろ車の運転能力のほうが必要かもしれません。宅建だけ持っている人よりも、運転免許だけ持っている人のほうが使い道がありそうです。
しかしながら、いざ契約を交わすときには、宅地建物取引主任というのが出てきて事を行わなければならない。そうなるとやはり不動産業務には宅建主任が重要になってきます。
どんなにたくさんお客を案内して家を紹介し、たくさんの契約にこぎつけたとしても、肝心なことができないと、やはり肩身がせまそうです。

やっぱり、資格と実務、両方が必要なようであります。

コメント (3)

ALWAYS 3丁目の夕日

2005-11-08 18:20:44 | テレビドラマ・映画
日曜日に夫と「ALWAYS3丁目の夕日」を見に行ってきました。
このごろ、ときどき夫婦で映画を見に行きます。たとえば、「電車男」「容疑者室井慎次」など見ました。子供を置いて夫婦ででかけるようになると、一緒に歩く姿はまさしく「老夫婦」という感じです。どうひっくりかえっても恋人には見えません。まるで新鮮味もない。しかし、身近にいる手ごろな人間といえばやはり夫で、約束などしておかなくてもいいわけで、思いたったときに一緒に出かけていくということになります。

この映画、1人が50歳以上だと入館料が1000円になると娘から教えてもらい、よろこんででかけました。平成生まれの娘はこの映画を見たいとは思わないようですが、何にしろ情報は早いです。けっこう役にたちます。

この映画の世界は、昭和33年。私はまだ生まれていませんが、やはりなつかしい時代です。登場人物の小学生の男の子たちが、昭和26年生まれの夫とだいたい同年代です。その子たちの親が私の親の世代と一致します。

映画はほんとうにすばらしかったです。笑いあり、涙ありでした。
特に、吉岡秀隆扮する売れない作家茶川竜之介が絶妙な味を出していました。彼はやはりすごい俳優ですね。演技力を通りこして、その人間そのものになってしまっているかのようです。
他の俳優もいいです。子役もよくて、茶川と吉行淳之介少年との心のつながりに感動、また小雪が架空の指輪を指にはめてもらう幸せそうな表情も印象的でした。
向かいに住む鈴木オートの堤真一も対照的に面白く、その妻、薬師丸ひろ子がやさしいお母さん役で、またいい味をだしています。薬師丸ひろ子は、このごろ母親役がすごくいいですが、この昭和時代の母親像が、はまっていました。その子ども役の男の子もすごくかわいいです。
それから、三浦友和はやっぱり2枚目ですね。医者宅間の風格のある姿はさすがに大勢の中にいてもひときわ光るものがあります。
CGによる時代の再現もすごいですが、やはり人々が織り成す人間模様がすばらしかったです。そして、ささやかな幸福を大切にして、未来に向かって希望をもって歩んだ時代だったんだなあと思います。

ほんとうに、久々にいい映画を見たなあと感じました。



コメント

パラボラウォッチャーの見た風景

2005-11-07 23:27:30 | 未分類過去
私がNHKのBSアンテナ探しの仕事をしていたころ、毎日知らない街を歩きまわるんですが、こんなところにこんな風景があったのかと、いろいろな発見をして感動したり、しみじみとしたり、楽しくなったりする毎日でした。
そのうち、私はカメラを持ち歩き、心を惹かれた風景を撮ることもありました。
たとえば、野良猫の親子。あどけない子猫を撮ろうと近寄ると、りんとした母猫が子供を守るように私のカメラを見つめました。
初夏には、公園の砂場の上に見事な藤棚があって、紫の房がぶら下がっていて、その下で、小さな子どもやベビーカーを置いた母親などが遊んでいました。平和だなあ。私も子どもが小さいころはこんなふうだったのかなあ、などと思いました。
川があって、土手があって、民家が立ち並びます。その民家は古くてあまり大きくもないんですが、そこに人々の生活がある。あたたかい太陽のもとで、布団や洗濯物を干している。そこにはこじんまりした日常と幸福があります。
独身男のアパート。チェックのパンツばかりが10枚くらいほしてあったりします。
外には古ぼけた洗濯機なんかが置いてあります。
あまりにもきれいな生垣のお宅を思わず写真に写したこともありました。
こんなところにお稲荷さんがあったのかとか、わあ~大きな団地だなあとか、
アンテナを上げている家の部屋番号を確かめに高層アパートの最上階まで行って下を見たらすごく高くて足がすくんだけど、そこから見たら、下からでは絶対に見えない別の家の屋根の上にアンテナがあったとか。
幼稚園の塀にかわいい絵が書かれていたり、家のすぐわきに高圧線のすごい鉄塔が建っていたり、豪邸の立ち並ぶ高級住宅地があったり、きれいな自家用車がいっぱい並んでいると思ったら自動車会社の社宅だったり、小さな工場があったり、畑に大根がきれいにならんでいたり、冬は誰かがつくった雪だるまに出会ったり。
ほんとうにいろいろな発見の連続です。
写真に収めたい風景がたくさんありました。でも、仕事の途中でもあるし、私の腕ではたいした写真はとれません。記念に撮ったものが何枚か残っていますが、心の感動ほどのものが画像には表わせませんでした。

ところで、そんな感動を見事に表わしているブログを発見しました。

RAPSODIA
すばらしい写真ですね。

今日のブログ

川沿いの道もすごく共感です。





コメント (1)