山咲雛子の日記

毎日何かを好き☆と感じ、感謝して、頑張っています。時間が沢山あったら、ゆっくり自然の中で過ごしたいです♪旅もしたいな♪

コロンス島

2009年06月19日 | 海外
アモイに着たら行かないなんてありえないといわれている「コロンス島」。

コロンス島は、中国語で「鼓浪嶋」。
島の名前の由来は、西部にある岩礁が風雨にさらされ洞窟になり、満潮時になると波に叩かれ、太鼓のような音を発したことによるそうです。



島へはフェリーで渡ります。
500Mほどの短時間の移動ではありますが、フェリー2階(+1元)では、さわやかな風に吹かれながら船上からの景色を楽しむことができます。



徒歩で半日ほどあれば、島を一周できるそうです。



島の唯一の交通手段は、この写真(左)の、電気カート。
帰りはこのカートを利用(ピアノ博物館周辺から10元)しましたが、まるで遊園地のアトラクションのようで、面白い体験でした。



島には椰子やガジュマルの木々や、 鳳凰木やリラの花などが咲き乱れていました。



コロンス島が最初に知られるようになったのは、オランダに支配されていた台湾を解放したことで知られる鄭成功(1624-62)が、島を根拠地にして兵を駐屯させ訓練を行った、明末期です。

1841年、アヘン戦争(1840-42)では、イギリス軍に占領されます。
1842年の南京条約によって外国人に対して開港。
1860年代からは烏龍茶の積出港として海外に知られるようになりました。

南京条約によって開港した後は1862年にイギリスに租界、1902年になるとコロンス島はイギリス、アメリカ、スペイン、ポルトガル、フランス、日本、ドイツ、オランダなどの共同租界地になりました。
そうして各国の領事館を開設。

それに伴って個人の邸宅や、商店、映画館、ダンスホール、図書館、教会、病院などが建てられ、約半世紀の間に小さな島は世界各国の様々な建築デザインが並ぶ、華麗なギャラリーのように変貌しました。
また、裕福な華僑が次々と別荘を建て、今までに建てられた別荘の数、千六百軒に及ぶともいわれているそうです。



この建物はもと日本領事館。
今はどんな使われ方をしているかはわかりませんが、木々が生い茂り近寄りがたい雰囲気を感じました。
今でも建物の地下には牢が残っているそうです。

かつて1942年12月日本軍がコロンス島を占領し、殖民地統治が行われていた歴史があったとは…



こちらはコロンス島のお土産屋さんです。
黄色の旗を持っているのが、ガイドのコウさん。



小高い山が「日光岩」。
てっぺんには展望台がありますが、上るのは大変とのことで、今回のツアーでは遠くで見るだけとなりました。



華僑の富豪、林さんの別荘庭園は、何千もの海底の石でできているそうです。
石は空洞の箇所もあり、まるで迷路のよう。
今はアモイ市に寄贈されているそうです。



日差しが照りつけ、気温は30度以上。
海からのそよ風が、汗だくの体に心地よく感じました。



こちらピアノ博物館は、写真撮影が禁止されていますので、外観だけの撮影となりました。
この博物館では、イギリス製、フランス製、ドイツ製などのクラシックなピアノが82台展示されているそうです。

これを収蔵したのは、現在オーストラリア在住の華僑、胡友義さん。
1936年コロンスに生まれ、若くして音楽を志しベルギーに留学し、海外で苦労をしながら財を成しました。
商売の成功で得たお金で、世界中から一台一台、古いピアノを収集し、それを全部まとめて、ピアノ博物館を造りコロンスに寄付をしました。
今では値がつけられないほどのピアノもあるそうです。
ピアノに詳しくはない私の目から見ても凄い逸品揃いで、見たこともないほどの年代ものには息をのむほどでした。



この島からは中国を代表する音楽家が何人も育っているそうです。
ピアニストの殷承宗はこの島で生まれ育ち、幼いときから教会でピアノを学び、才能を開花させました。
文化大革命時代に作られたピアノ協奏曲「黄河」は彼の代表作。
現在はアメリカで暮らしていますが、年に一度コロンス島に帰ってきて、島の子供たちにピアノのレッスンをしているそうです。

林さんも、胡さんも殷さんも、コロンス島をこよなく愛しているのですね。


次は、コロンス島の海天堂講について、レポートします。