プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

中野英明

2012-01-21 21:24:56 | 日記
高校時代に練習試合で原辰徳「東海大相模」を三球三振に仕留めた経験がある。

1978年ウエスタン成績
19試合・2勝5敗・90回3分の1・・防御率2,60


1979年
「へぇー、トレード?そんな話があったんですか。ボクは全く知りませんでした」将来を嘱望されている左腕は自分の耳を疑うようなしぐさをして、ちょっぴり寂しそうな表情だ。中野英明投手。東海大二高から期待されて入団した、4年目の左腕。実はこの投手、大洋に目をつけられ、トレードの申し込みを受けていたのだ。しかし近鉄首脳陣が協議の結果「出せない」ことになり、大洋にその旨、伝えたのである。ショッキングなニュースに中野はしばらく呆然としていたが、残留が決まってひと安心。「よそから話があるということは喜ぶべきなんでしょうかね」と、複雑な表情をみせていた。

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渡辺弘基

2012-01-21 20:42:12 | 日記
投球フォーム・・・・スリークォーター?オーバースロー?


球種・・・ストレート、タテの大きなカーブ、内角シュート


1977年
・この2,3年、中継ぎ専門役なら渡辺がもっとも有名だろう。悲願のV1を果たした50年、渡辺は130試合すべてにベンチ入りした。並みの努力や節制ではとてもこんなことはやれない。先発要員であれば、一度登板すると、中3日の休養が与えられるが、渡辺のような「中継ぎ役」は出番が定かでないから、試合の中で展開とにらみ合わせて、何度かブルペンに走る。仮に、その試合に登板しなかったとしても、ブルペンで1試合分に相当する球数を投げてしまったこともあるだろう。ことしがプロ6年目の渡辺だが6月24日現在、プロ入り通算で196試合に登板しながら6勝6敗・7セーブがすべて。完投勝ちはむろんない。先発はわずか5度である。「選手には、それぞれの役割がある。ボクの場合は中継ぎ。自分の能力と合わせて当然、これをまっとうすることがすべてです」と見事にまで割り切る。176センチ・76キロ。決して体に恵まれているわけではないが目下、投手として308試合に連続ベンチ入りしているのである。カープに移籍して3年目。だれ一人渡辺のグチを聞いた者がいない。「渡辺は、どんな職業についても成功するだろう」周囲の一致した声である。

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池之上格

2012-01-21 20:26:49 | 日記
投球フォーム・・・・「入団時から野手転向するまでにオーバースロー、サイドスロー、スリークォーターと変更していた」


投手時代最後の1979年は6勝9敗、126回投げて防御率4,79と冴えなかったが、打撃成績は50打数23安打・460と野手顔負けの数字を残していた。

・決め球不足が致命傷だった。


1977年・ウエスタンリーグ成績
29試合・完投10・8勝11敗・179イニング・三振61・防御率2,97

1977年・10月6日・日ハムー南海後期13回戦・後楽園・観衆1000人・試合時間・1時間54分
南000000300・3
日000000000・0
勝ち・池之上・・負け・高橋直

池之上投手・投球内容・9回・4安打・三振2・・四死球1・自責0

「プロから足洗うのやーめた」入団5年目で初完封。来季に夢つなぐ池之上
・プロ入り5年目で、池之上がはじめてシャットアウトゲームを経験した。さる6日の日ハム戦、消化ゲームとはいえ、4安打散発の完封試合である。鹿児島県下でも指折りの進学校である鶴丸高から48年に入団した。当時、東大ならいつでもOKという抜群の成績をもちながらプロで野球をしてみたいという気持ちが捨てきれず南海入り。ところが、この頭のよさがマイナス。「結果をおそれすぎるようだ」ということで伸び悩み、昨年は14試合に登板し、プロ入り1勝目をあげたもののパッとせず、ことしもファーム暮らしをつづけていた。やっと8月末にベンチ入りがゆるされ、8月31日の阪急戦「富山」で初先発したが、あとわずかのところで初勝利を逃していた。「なんとか今年も一つぐらい勝ちたいですよね」ちょっぴり寂しそうにいっていた矢先に、このシャットアウト勝ちをおさめたもので、池之上もホクホク顔。「今年もダメだったら引退を考えようと思ってました・・・。でも、これでまた張りができました。来年こそは一軍で投げられるようにガンバリたい」池之上は胸を張ってキッパリいい切った。

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与田順欣

2012-01-21 17:54:43 | 日記
八代商高から入団。1年目から一軍入りも、すぐ足を骨折してしまい、2年間は一軍と二軍を行ったり来たりだった。
3年目の64年から一軍定着。ちょうど投手陣が世代交代の時期にさしかかっていたこともあり、すぐに先発ローテに
入り、60試合に登板、7勝18敗の成績を挙げている。武器は、180㌢と当時としては長身から投げ下ろす速球。
さらにカーブ、シュート、スライダーと多彩な変化球を持っていた。やや勝負弱いところもあり、なかなか2ケタ勝利に
到達することがなかったが、69年まで先発の一角として投げ続けた。67年には自己最多の13勝を挙げ、防御率も
2.44。68、69年も50試合、45試合に投げたが、70年、黒い霧事件で永久追放処分となった。



「純朴な男・与田順欣を襲った事件」
与田順欣・・・八代商出身の速球派投手。球はめっぽう速かったが、おとなしくて気の弱い純朴な男だった。一軍に台頭してきたのは、3年目の39年。池永、田中勉と並んで「ヤング西鉄の三本柱」とまでいわれ、13勝をあげた年もある。直球は見ていて気持ちのいいほどのスピードを見せ、快投をつづけてもテレたような小さな笑みを浮かべるだけだった。8年目のある日、球場前で先輩投手に肩を叩かれ「一緒に帰ろう」と誘われる。それが「悪魔のささやき」だった。45年、プロ球界始まって以来の不祥事にまき込まれたときの、この気弱な男の顔は、見ていて痛々しかった。「あなたは善人、そんなことをする人ではない」という中学校時代の女教師からの手紙を読んで、すべてを正直に告白しょうと思ったという。つらく苦しいドン底から自力で這い上がって、いま早朝から深夜まで運転手として泥まみれになって働いてるときく。「あんなにいい男が・・・」と与田を知る人は誰もがいう。いまは休日に草野球を楽しむ日々。白球人生にはつらいこともある。・・・・1985年の資料

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加藤英美

2012-01-21 16:50:35 | 日記
投球フォーム・・・・左スリークォーター「172センチ、74キロと小柄だが左腕から繰り出す七色の変化球はヤクルト・安田二世の呼び声が高かった。技巧派でうまく打者をかわす能力にたけている」


球種・・・独特のクセ球を持っている。ストレート、カーブ、シュート、スライダー、フォーク、チェンジアップ、シンカー


1980年
・プロ3年目の加藤が4月22日・阪神戦「横浜」で今季初登板。2-6と敗色濃厚な8回に4番手として登板し1死を取った後、中村勝に三塁強襲安打を許す。ここで迎えたのがゴールデン・ルーキー岡田彰布だが、加藤の方が緊張して1-0から一塁へのケン制が「ボーク」と判定され、カーッときたところ真ん中からのカーブを三遊間安打され1点を失ってしまった。岡田にとってプロ初安打・初打点となった。「真ん中に甘いカーブが入ってしまったんです。あれなら誰でも打ちますよ」と試合後の強がりも報道陣の嘲笑を買うばかりであった。

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