プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

佐藤竹秀

2012-03-05 20:28:19 | 日記
1972年
・パワーアップをめざす近鉄のホープが、二年目を迎える佐藤だ。71年はウエスタンで打率254、9ホーマー、32打点。一軍に引き上げられてからも27試合で打率242、1ホーマー、5打点と大器の片リンを示した。抜群のパワーに磨きをかけるのが、二年目の今シーズンである。ツボにくると軽々とスタンドに放り込むパワーにつきものの、もろさがある。変化球の克服が外野陣へ食い込むカギである。就任早々の豊田ヘッドコーチからバットの振り幅やタイミングについて教えられた。プロ2年目の新春は飛躍への希望に満ちている。新日鉄から入団する佐々木内野手には、同じノンプロ出身ということからも負けられない。「絶対にレギュラー奪ってやる!」佐藤は猛練習に明け暮れる。

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植松精一

2012-03-05 20:27:52 | 日記
1978年
・7月15,16日の大洋戦「横浜」これまで2勝11敗と歯が立たなかった阪神だが、巨鯨に一矢報いて連勝。中でも新人・植松の活躍が光った。16日の17回戦では5打数3安打、2打点で10回表に1死1塁で平松から奪った右中間3塁打は決勝点となる貴重な一打だった。これまで植松はパワー不足で、非力といわれていたが、この日は1塁線への2塁打2本と右中間への3塁打で、長打ばかり。大洋投手陣は「あの新人、どうなってるの?」とビックリ。この前の広島戦では右翼席へプロ初ホーマーも記録しており、最近は「長打の植松」で売り出し中。植松は法大時代、神宮でも人気があったが、最近の活躍により阪神でも掛布に次ぐ人気者になっている。静岡高時代は夏の甲子園で決勝戦、広島商に敗れるまで、ファンをわかせた経歴の持ち主。甲子園ー神宮ー甲子園と「夢のコース」を歩んでいる球界のエリート選手。もうすぐ、夏の高校野球大会が始まるが、植松にとって「夏」は大好きな季節でもある。

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関東孝雄

2012-03-05 20:27:19 | 日記
1980年
・二塁手として頭角を現してきた田野倉が負傷し代わってファームから昇格したのが、この関東だ。右投げ左打ちの特性を生かし、時折、代打に起用されていた。こうして迎えた広島25回戦。ちょうど先発に起用された6試合目。その4回、二塁に木俣をおき、やっと今季の初安打が飛び出した。北別府の真ん中ストレートをたたいたのが、中堅右を破る適時二塁打であった。「やっと肩の荷がおりた気持ちです」ホッとする関東に「北別府の出来が、よっぽど悪かったのだろう」報道陣からカゲ口が飛び出すひとコマもあった。だが、この一打が広島と星を分けた貴重な2点目をもたらしただけに、素直に喜んでやりたい。日通浦和から「強肩好守の三塁手」というふれこみで51年に入団。ところが、フタをあけてみれば、内野手らしい小回りの利くスピード感がまるでない。打撃も打球はほとんど左翼方向ばかり。ただ、練習熱心なのが取り柄の選手。プロ5年目の28歳。ことしのオフはトレード候補と見られる。それだけに本人は必死である。

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末永正昭

2012-03-05 20:26:45 | 日記
1972年
「ウエスタンリーグ」
8月8日現在、首位打者になっている末永「阪神」は147打数51安打、打率347.2位の切通「阪急」を2分近く引き離している。対広島8回戦のバッテイングなど素晴らしく左右に見事に打ち分けた。その働きを買われ大事な対巨人三連戦では一軍ベンチ入り。代走に起用され快足ぶりを発揮している。白石二軍監督は「彼は足が速いし、バッテイングにも確実性が出てきた。これで守備がうまければ一軍で使える」とみている。しかし、当の末永は謙遜している。「昨年一軍定着に失敗しましたからね。プロの世界は、そんな甘いものじゃないことを知っています。もっと力をつけてから一軍へ上がっても遅くはないと思います」

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平林二郎

2012-03-05 20:26:15 | 日記
「14年目の賭け・・・・平林二郎」
1980年
・西宮球場の一塁側、阪急ナインのロッカー前に砂場がある。ナインの「素振り場」で、そこにはタテ1,5メートル、ヨコ3メートルの大鏡が取り付けられている。この大鏡の前に、いつも真っ先にやってくる男がいる。「難しいですわ。筋肉の使い方が全部逆でしょ。戸惑ってます」うまくいってる?と声をかけると、その男はテレくさそうにそんな返事を返してくる。平林が長池打撃コーチから「左で打ってみるか」といわれたのは、ことしの高知キャンプの中盤にさしかかったころだった。場所は雨天練習場。バッテイング・マシンを相手に「右」でいつものように平林は打っていた。だが打球は・・・。「お前、何年野球やっとるんや?ちっとも上達しょらんのう」と、思わず同コーチがつぶやくほど、彼の打球はなかなか快音を発しない。だが、人間、何が幸いするかわからない。フリーバッテイングの打球が鈍い音ばかりだったため、長池コーチは、こんな助言を平林に送ることになる。「いっぺん、左で打ってみろ。ひょっとしたら間違って左なら打てるかもしれんぞ」

「俊足を生かす左打ちに転向」
むろん、同コーチは思いつきだけでいったわけではない。平林はベース一周14秒フラットの俊足の持ち主。「あの足を何とか生かしてやりたい」という夢が同コーチの根拠である。余談だが、平林が1966年春夏の甲子園を制覇した中京商の一員、トップバッターで活躍したのは周知の通り。一番打者・平林は春と夏で何と8盗塁、甲子園で記録している。その韋駄天ぶりを買われ、翌年ドラフト1位で阪急に入団した彼は、プロ入り後は「非力な打撃に泣く」当時は西本阪急で、打撃優先のチーム作りの時代。ドラフト1位男も、控え守備、代走要員の運命だ。これも余談だが、平林が最初にもらった背番号は「7」である。現在、7番を誰がつけているか。福本にとって代わられたのは1969年の暮れである。平林は福本がつけていた「40」番に。ここから平林の野球人生の紆余曲折が始まった。「右で打ってダメなら、左で打ってみろ。恥も外見も捨ててみろ」ハラの底を隠して吐き捨てるような長池コーチの声。が、それが何とも温かかった。「野球人生ももうちょっと。なら、何事にも挑戦して、それでダメだったら諦めもつく。足もすっぱり洗えます」平林、プロ14年目の変身はこうして始まった。高知キャンプの直後、日ハムとのオープン戦で、平林は「左」で1,2塁間を破った。ベンチの中は大騒ぎ。「あの拍手、公式戦でもネ・・・」それは涙ぐましい変身といえる。だがも後ろは振り向かぬ。「いまのフォーム、スイングうまくいってましたか?」大鏡の前で、額に汗を光らせ、平林はきょうも「「左打ち」に取り組む。

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新井昌則

2012-03-05 20:25:41 | 日記
新井「大洋」ロッテ移籍
「将来の3割打者に育つ素材」と大沢監督

1971年
「若手中心の交換トレードの場」といわれるトレード会議がいよいよ11月26日に迫ったが、この会議を前に「ぜひ、ウチに欲しい選手」と高く評価されてロッテ入りが決まったのが大洋・新井内野手。かっての12勝投手・佐藤元との交換だけに「新井も株があがったなあ」とナインから冷やかされている。この新井、深谷商から入団して5年目。スカウトした藤井スカウト部長は「4,5年先のウチの正遊撃手」と高く評価、PRにこれ務めたものだが、同期の忍と並んで伸び悩みが目立った。それでも今季はイースタンで打率244、6ホーマーと中心選手として堅実なプレーを見せた。この新井に目をつけたのは昨年までイースタンで指揮を取っていた大沢監督で「鍛えようによっては、将来、3割打者に育つ素材」と言う訳。174センチ、71キロと中柄だが、内野手としてのセンスはいいだけに新天地ロッテで今度は大きな花を咲かせて欲しいもの。

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岩崎忠義

2012-03-05 20:25:03 | 日記
またもイワがやりおった
「再追撃だ!伏兵岩崎の快打にカネやん小躍り」

1978年
・「これがロッテの持ち味なんや」カネやんが久々に怪気炎を上げたのは5月24日、川崎球場での近鉄11回戦のことだ。8回を迎えて4-6とリードされたロッテ。この回1死後、白が2号ソロで反撃のノロシを上げると、代打・飯塚も一塁線を破る二塁打で続いた。その直後飛び出したのが、伏兵・岩崎の今季1号逆転2ランだったから、カネやんが大喜びしたのもムリはない。それににしても、岩崎は沈みかけたチームを二度まで救ったことになる。1度目は、開幕戦に敗れた翌日、またも日ハムにリードを許した土壇場の9回二死、2,3塁から左翼フェンスを直撃の同点打。連敗目前のチームを快打で引き分けに持ち込み、開幕ダッシュの引き金を引いている。「またもイワがやりおった。負けていれば、いずれもチームのムードが悪くなるとも限らないだけに大きいわい。」逆転劇に意を強くしたカネやんだが、優勝へかける岩崎の一念がイワをも通した格好とは、ネット裏のささやきだった。

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大竹憲治

2012-03-05 20:24:26 | 日記
尊敬する長嶋とプレー「晴れて一軍入りした期待の大竹」

1972年
・387の高打率で「首位打者」をつっ走ていた大竹三塁手が実績を買われ晴れて一軍入り。「大勢のお客さんの前で、それも長嶋さんと守備練習ができるなんて最高の幸せ。一生懸命にがんばるだけです」と大竹は3年目で勝ち取った「陽のあたる場所」に大感激している。専大京王高から入団して3年目。同期のライバル河埜がいるが、これまではいつも巨人のホープといわれる河埜に先を越された感じで目立たない存在だった。6月17日のヤクルト戦では代打で一塁線にヒット性の強打を見せるなどパワーのあるヤングらしいデビューぶり。イースタンでは2ホーマーだけ。攻守に馬力はある反面、荒削りの面が目立っていたが、このまま波に乗ると河埜と並んで「次代のホープ」が大きな自信を持つことになる。「ヤクルト戦では3打数ノーヒットだったけど今度はいいヒットを打ってみせますよ」と張り切っている。「長嶋の後継者」として河埜の他、二年目で腕を上げてきた大北が挙げられるが、生田の合宿の壁に長嶋の分解写真を貼って、朝晩研究に余念のない大竹が先ず一歩リードというところか。

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