投手時代「1974年」
・阪急の岡本一光投手が来シーズンから野手として再出発することになった。といってもこの岡本、プロに入ってから投手になったという変り種。45年、阪急入りしたが、当時の首脳陣に目をつけられたのがその体つき。左投げ左打ち、179センチ、76キロの長身選手。とくに左腕不足に悩む阪急では「うまく育ってくれれば」の期待を持って、プロ入り早々、投手転向に踏み切らせた。しかし急造投手の悲しさ。速い球はなげるのだが、コントロールがどうしても身につかない。打者との駆け引き、けん制動作、球種・・・難しいことばかり。すでに5年が経過したが、現状のままなら再び野手に戻った方が「本人のため」ということで今度の決定になった。
野手時代「1979年」
・3試合で連続で3本のアーチ。そのすべてが勝利に直結。すごいヒーローぶり・・・。その男が昨年まで9年間もファームでくすぶっていた岡本一光外野手。プロ5年目に一塁手に転向。だが、いかんせんファーストベースには脂の乗りきった加藤英、大隅がデンと構えている。当然のように岡本はファーム暮らしが続く。野手転向後、ファームの通算成績は247安打、20ホーマー、117打点、打率272.。これが他の球団なら2,3年前に「一軍の選手」になっているところ。「日陰の生活」が続いた岡本に二度目の転機は去年、秋の外野手転向だ。福本、蓑田、ウィリアムス。勇者の外野陣は鉄壁である。しかし梶本・新監督の構想に「左の代打者づくり」も併せ含まれていた。「これがボクに与えられた最後のチャンス、この機会を逃すと、もう二度とボクに晴れの舞台に立てる日はこないと・・・」シーズンオフも私設のトレーニングセンターで体を鍛え上げた。そのイキイキとした姿勢が、3試合連続アーチという「離れ業」を生んだ。歯を食いしばって、耐えに耐えてきた積み重ねの結果の快打だった。
・阪急の岡本一光投手が来シーズンから野手として再出発することになった。といってもこの岡本、プロに入ってから投手になったという変り種。45年、阪急入りしたが、当時の首脳陣に目をつけられたのがその体つき。左投げ左打ち、179センチ、76キロの長身選手。とくに左腕不足に悩む阪急では「うまく育ってくれれば」の期待を持って、プロ入り早々、投手転向に踏み切らせた。しかし急造投手の悲しさ。速い球はなげるのだが、コントロールがどうしても身につかない。打者との駆け引き、けん制動作、球種・・・難しいことばかり。すでに5年が経過したが、現状のままなら再び野手に戻った方が「本人のため」ということで今度の決定になった。
野手時代「1979年」
・3試合で連続で3本のアーチ。そのすべてが勝利に直結。すごいヒーローぶり・・・。その男が昨年まで9年間もファームでくすぶっていた岡本一光外野手。プロ5年目に一塁手に転向。だが、いかんせんファーストベースには脂の乗りきった加藤英、大隅がデンと構えている。当然のように岡本はファーム暮らしが続く。野手転向後、ファームの通算成績は247安打、20ホーマー、117打点、打率272.。これが他の球団なら2,3年前に「一軍の選手」になっているところ。「日陰の生活」が続いた岡本に二度目の転機は去年、秋の外野手転向だ。福本、蓑田、ウィリアムス。勇者の外野陣は鉄壁である。しかし梶本・新監督の構想に「左の代打者づくり」も併せ含まれていた。「これがボクに与えられた最後のチャンス、この機会を逃すと、もう二度とボクに晴れの舞台に立てる日はこないと・・・」シーズンオフも私設のトレーニングセンターで体を鍛え上げた。そのイキイキとした姿勢が、3試合連続アーチという「離れ業」を生んだ。歯を食いしばって、耐えに耐えてきた積み重ねの結果の快打だった。