1978年「ヤクルト入団時」
・プロ野球史の面でも驚くほどの「異色」の新人が入団した。ヤクルトの野崎進投手「千葉商・18歳」なにしろ、左右投げ、左右打ちというから、大変な珍種である。これまで、左右投げのスイッチ・ピッチャーは1964、1965年に巨人に在籍の吉成昭三がいるが、一軍には上がれずじまい。失敗例しかないが、野崎君は「これまで、高校の公式戦では左で一度も投げたことがありませんが、ヤクルトでは左右投げを練習して、日本のプロ野球界初のスイッチ・ピッチャーとして成功したいですね。そのためにはファームで2,3年頑張ってみます」と野心満々である。この投打左右利きの珍しい野崎も、もともとは左利き。それが、千葉商の鈴木監督が「右投げの方がコントロールがあるから」ということで、薦められ右でも投げるようになった。身長178センチ、体重75キロは大洋のエース・平松とズバリ・同サイズだ。プロ入りについは当初、考えてなかった。「甲子園から帰ってからは、ボクが長男だし家業を継ぐつもりでした。ノンプロの東京ガスや明治生命も誘ってくれましたけど、全部断ってきました」ところが、千葉商の大先輩に当たる小川善冶コーチが、市原市の実家を訪れ、入団を薦めたとき、急にプロ入りしてスイッチ・ピッチャーの腕を磨いてみたい誘惑にかられたという。契約金500万、年俸180万という低い条件も、問題にしなかったという急変ぶり。「とにかく1,2年は打撃投手もやって、一生懸命がんばります。スイッチ・ピッチャーとしての夢は、王や張本さんには左で投げて、田淵さんや山本浩さんには右で勝負することですね」千葉商からのプロ入団は高橋重行「大洋」以来だが、異色の忍者もどきの二刀流が晴れの舞台に出れば、たいへんな人気を呼ぶだろう。
1977年・甲子園大会出場時
8月12日・1回戦
・・・・・・・・千葉商000000000・0
・・・・東洋大姫路10100200・・・4
・9年ぶりに登場した千葉商は野崎を中心とした「ワンマン・チーム」野崎は右投げの投球で得意のタテのカーブを武器に懸命の力投をみせたが試合巧者・東洋大姫路打線に小刻みに得点された。打席での野崎は「オール左」で、豪腕・松本から全て流し打ちの4打数3安打と苦もなく打ちこなした。
野崎投手・投球内容・8回・9安打・三振1・四死球3・自責4
千葉商・野崎進投手「主将」の試合後のコメント
「うちは守りのチームなので先取点をやらないように、と初回は硬くなって力んでしまいました。逃げの投球が良くなかった。でも自分では80点から90点の出来だと思います。松本君はやはりスゴかった。球が速いなあと思いました。バッティングも振りが鋭く自分たちより上。やはり力負けです。」